烏と麦畑

君にはよく音楽の話をした。


僕が好きな音楽、それから嫌いな音楽の話もした。クラシックの名曲やこれから先の音楽、そして――売れる音楽についても沢山話した。


売れる音楽を語るとき、決まって僕は話の途中で気が沈み、鬱屈した気持ちになるから、その度に君はよくこんな言葉を掛けてくれたものだ。


「大丈夫だよ」


大丈夫、いつか世間が認めてくれる。きっと君はそう言いたかったのだろう。その言葉は君の純粋無垢な心の内から発せられたもので、其処には確かに何の外連味もなかった。僕も頭の中では、それは分かっていたつもりだ。


しかし、その柔らかい言葉の響きは僕に少しの安寧を与えるのと同時に、どこか棘のように僕の心の奥に突き刺さり、実体のない淡い痛みのような感覚だけが僕の中に堆積していった。


***


或る日の夕暮れ。僕は一人、金色に輝く麦畑の中にいた。頬に心地よい夏のそよ風を受けながら頭上を飛んでいく烏の群れを眺めていると、ふと君の言葉が頭を過ぎった。


「大丈夫だよ」


目線の先に広がる茜色に、優しく僕に手を伸ばす君の姿が浮かんだ。


突然、心に痛みが走った。


***


――欺瞞だ。


ずっと考えていた。「大丈夫」という言葉の脆さ、無力さを。


君の言葉、君の優しさ――その全てが今、この孤独の中で悲嘆に染まっていく。


残酷だ。他人を思い遣るはずの言葉が、刃物に変わり僕を切り裂いていく。


何が大丈夫なものか。今までだって、何かを期待したって何一つも叶うことはなかった。幼少の栄光、画面の中の聴衆、大人の戯言、周りの人間も全部幻想、露と消えていったじゃないか。今更そんな言葉、なんの保証にもならない。


「大丈夫だよ」


そんな言葉、ただ虚しいだけだ。


そんな言葉、ただ疲れるだけだ。


だから、そんな言葉、もう聞きたくないんだ。


…今思えば、それが当時の僕にとって精一杯の叫びだったのだと思う。


耐えきれない孤独の中で、僕は次第に人の優しさを疎ましいと思うようになっていった。そして僕の音楽を唯一認めてくれる君の温もりさえも、終には拒むようになってしまった。


他人に情をかけられる度、自分が哀れな存在であることを思い知らされ、消えてしまいたくなる。それが怖かったから、いつからか僕は自分を取り巻く全てを嫌い、疑い、心を閉ざすようになったのだ。


「大丈夫だよ」


なんて虚しい言葉だろう。なんて疲れ切った言葉だろう。


そんなくだらない言葉で僕の孤独は埋まらない。その言葉を耳にする度に胸が苦しくなる。


だからもう、辞めてくれよ!



心の奥で、何かが壊れた音がした。


そのとき、


***


「大丈夫だよ」


風に乗って、君の声が耳元に届いた。その響きに、欺瞞なんてどこにもなかった。


僕を温かく包み込むようなその優しい声に、思わず胸が詰まった。


固く閉ざしていた心が、幽かに揺れているのが分かった。


――そうだ、僕が本当に欲しかったのは。

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