序章

昔から耳が良かった。


音楽一家に生まれた僕は、幼少から、歌を歌うことも楽器を演奏することも得意だった。


浅い記憶がある。


昔、母が家にピアノの講師を招き、僕はレッスンを受けていた。


「君は耳が良いね」


彼はよく、僕にそう言ったものだ。


確かに、ピアノを始めたばかりの頃から、何かの音楽を聞けばメロディの音程や和音の構成音をすぐに判別することはできたし、人よりも音楽を聴く力には長けていたように思う。子どもながらにして遊びの延長で作曲をしたその音の運びを、大人たちに「天才だ」とよく褒められたのを覚えている。著名なコンクールを総なめにして、家庭だけでなく学校でも何かと持て囃された。


今思い返せば、この記憶全てが馬鹿馬鹿しくて仕方がないが。


***


中学生になるとピアノだけでなく、ギターとベースも弾きこなせるようになった。高校生の頃からは自作の曲をインターネットの動画サイトに投稿し始めた。専ら厭世的で難解な曲しか作らなかったが、画面の向こう側にいる一部の聴き手たちからは「天才高校生」などと高い評価を得た。暫くするとそれが音楽関係者の眼に留まり、僕は高校卒業後、プロのミュージシャンとして音楽の道に進んだ。


当然、成功する。


当時の僕にはその自負があったし、周りの人間も僕に大きな期待を抱いていたと思う。


――でも、もう何年待っているんだろう。


あれから、僕の人生に何か大きな変化が起きることのないまま、ただ時間だけが流れていった。


***


そんな僕を他所に、世間には「愛」とやらを歌った安い歌ばかりが溢れ返っている。


どこかで耳にしたことのある使い回されたメロディに、誰にでも書けるような薄い歌詞が乗っかっているだけの、まるで誰かに媚びるように作られた音楽を、大衆は盲目的に称賛し、拡散している。


その一部始終、馬鹿らしくて反吐が出る。


大衆は感性が鍛えられているわけではない。何よりも「分かりやすいこと」が第一であり、作品の表層しか、いや表層すら理解できない者も多い。さらには、今や、苦心して生み出された『作品』そのものではなく、その作品を『誰が作ったか』という、作者の権威性が評価される時代である。そんな盲目が溢れ返る中で、作品の本質を見抜ける人間など極僅かだ。


僕はそんな馬鹿な奴らに迎合したくはなかった。僕の音楽を殺したくなかった。


人は何のために曲を書くのか。僕は自分の音楽の中に、その答えをずっと探していた。


だからもう何年も、その時が来るのを、ただ待っていた。


***


それから何回目の夏だろうか。


或る日、昼間のバイトを終えた僕はいつものように街に出た。


家を出て少し歩く。公園を抜けると見えてくるヨーロッパ風の石畳を挟んだその向こうに、黄色い屋根のカフェテラスがある。


夕方になると、僕は一人そのカフェの通り沿いで、アコースティックギターを弾きながら歌を歌っていた。


もう僕に期待する人間など誰も残ってはいなかったから、こうしてギターを弾きながら歌を歌うことが習慣となっていた。


通行く人の中には足を止める者はいたが、皆、難しそうな顔をしてはすぐに去っていった。


(あんたに何が分かるものか)


そう自分に言い聞かせた。いや最早、そう言い聞かせるしかなかった。


僕の音楽は他人には理解されない。そんなこと、自分の経験が疾うに物語っているのに。


ピックの動きが止まる。幼少の思い出がフラッシュバックする。周りの人間に持て囃され、期待され、愛された記憶。出来損ないの孤独な大人になってしまった僕にとって、それは今すぐにでも消し去りたい、真っ黒な思い出だった。


一体、どこで何を間違えたんだろう。


そんなことを考えながら深い呼吸をする。ピックがまた、弦をかき鳴らし始める。


誰かに認められたかった。誰でも良い、ただ誰かに認めて欲しくて歌を歌っていた。


日も暮れ始め、そろそろ帰り支度を始めようかというとき、一人の少女が足を止めた。


少し長めの髪に、真っ白なワンピース。ふっと消えてしまいそうな、どこか幽霊のような雰囲気。孤独な眼。


それが、今でも鮮明に覚えている、君との出会いだった。


***


それからというもの、僕が路上で歌を歌う度、決まって君は姿を現した。演奏が終わると君はにっこり笑って、その小さな両手で精一杯の拍手を送ってくれた。嬉しいような気恥ずかしいような、不思議な感覚が僕を擽った。


そんな日が何日か続いた。或る日の演奏終わり、二人で近くのベンチに腰掛け、少し話をした。


「どうして毎日、此処に来てくれるの」


「心が満たされるような音楽を、ずっと探していたんです」


君はそう言って笑った。そんな言葉を掛けられたことは今の今まで一度もなかった。僕の音楽を心から認めてくれる、初めての存在だと思った。


僕はこれまでの自分の人生や、音楽に対する矜持を語った。随分長い話になったが、君は終始真っ直ぐ僕の眼を見て、頷いてくれた。


僕を取り巻く孤独の靄が、ぱっと晴れた気がした。


***


それから程なくして始まった君との共同生活は、ミュージシャンである僕にとって実に理想的な環境だった。


僕はバイトを辞め、一日中部屋に籠もって作品づくりに打ち込んだ。僕が制作に集中できるように、君は朝から夜遅くまで働き、できる限りの援助をしてくれた。僕は、自分が人間的に深く堕ちていくのを自覚していないわけではなかったが、それでも音楽で売れたいという思いと、これまで僕に向けられた罵倒や薄笑いを全てひっくり返すような圧倒的な作品を自分の手で生み出したいという野心から、君がくれたこの環境に浸っていった。そんな生活が四年も続いた。


テオに支援されながら創作を続けたゴッホも、こんな気持ちだったのだろうか。


いつからか僕は、自分のこの境遇を、あのフィンセント・ファン・ゴッホと重ねるようになっていった。

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