後編

 あの時、俺はなぜあんな行動をとれたのか、いまだにわからない。動機は、自分や世の中に対する絶望、そんなところだろうか。それを押さえつけていた理性を初めて衝動が上回った、それがたまたま今回だった。それだけのことかもしれない。とにかく、その経験は俺にとって初めてのことだった。


 俺は息を切らし走りながら、最高に興奮していた。

「やってやった。ついにやった。」と呟く。

 うれしくてしょうがなかった。嫌いな奴を思いっ切りぶん殴れたような、そんな達成感で、叫んでしまいたい気分だった。そして今、思いっ切り叫べると知った。俺は思いっ切り叫んだ。生まれて初めて腹の底から声を出したような気がした。


 俺はふと横を向いた。そこには、ただうっそうとした藪が広がっていた。子供の時、中に何があるんだろうと車から眺める窓の外を高速で横切っていた、そんな風景だった。草木や竹が無秩序に生い茂っていた。だが入り口をかき分ければ、その先は何とか進んで行けそうだった。まるでドラマのセットの張りぼてのようだ。空は段々と明るみ始め、霧が立ちこみ始めていた。冒険の始まりを演出しているようだった。


 今なら何でも出来る、そんな気がした。俺はガードレールを踏み越え、藪の入口の竹に手をかけた。


 俺は獣になった。雄たけびを上げ、手をついて四足で歩いた。人間を俺は辞めたんだ、獣として、出来るだけ山の奥へ行って誰ともかかわらず生きていこう。楽しもう、獣になれたんだ。人間の俺を壊さないと。叫ぼう。ああ、最高の気分だ。がああああああああおうううういあああうううううううううえええええいいいあううあふえbbんぬうえうううううううjzbhhhbjhbhsvj


 俺はずんずんと藪の中を進んだ。


 どのくらい進んだのだろうか。藪はまだ続いた。気付けば、もう戻れないところまで来てしまっていた。俺は獣の心を必死につなぎとめていた。頑張れ。頑張れってなんだよ。せっかく獣になれたんだろうが。手は血まみれになっていた。


 藪はどこまでも、どこまでも続いた。恥ずかしい。何をやっているんだ俺は。もう限界だった。マジで何やってるんだ。やばいだろこんなん。仕事どうするんだよ。今何時だ?携帯は?財布は?バスの中に置いてきたのか?ああバスの人に謝らないと?なんか事件みたいなのになって警察とか呼ばれたらどうしよう?二十八にもなって。俺の頭にはもう後悔しかなかった。溢れ出てくる後悔と恥ずかしさを抑えられなかった。

 

 こんなに、こんなに苦しい思いをしたことがない。高速を走りだしたときはすごく楽しかったのに、今はこんなに苦しいんだ。藪の中に入ることは、こんなに苦しいことなんだ。戻れないところまで行くってこんなに苦しいんだ。人間を捨てようと思ったことも、その行動に至った感情も、すべてがしょうもない、勝手に世界に、自分に絶望して、ガキとおんなじだ。二十八だぞ?すべてが空っぽだ、俺は。

 小説だって本気で書こうと思ったことなど一度もなかった。本気だと思っていたそれは、ただの演技だったんだ。現に会社は辞められなかった、作品もろくに世間に出したことがない。失敗したとき何も残らないのが怖かったんだ。「趣味」だと言いたかったんだ。ただ周りからもてはやされたかっただけなんだ。だからこの五年間、まともに小説と向き合ったことなんてない、悩んで、書いているふりをしているだけに過ぎなかった。本当に死にたいと思ったことだって一度もない。ただ、「死んでもいい」と言える漫画の登場人物に憧れ、演技をしていただけだ。バスが揺れた時だって、ただ死にたくない、怖いと思っているだけだった。何が死にたいだ。

 そして今初めてこんなことになって、結局獣にもなれないんだ。俺は結局のところ、何にもなれないただのの凡人なんだ。死にたいなんて思っても、どうせ死ねない。怖いからだ。怖い。怖い。助けてほしい。死にたくない。

 

 俺は歩き続けた。地面が消えた。俺は斜面を転がり落ちた。


「ねえねえ、おきて。あなただれ?」大きな揺れで目が覚めた。どこなんだここは。混乱している。

「あなたいぬ?ねこ?ひと?」

「、、、、、」

「いいたくないの?」

「おれは、、、、とらだ。」

「うそつき!だってふくきてるもん。」

「さいきんのとらはオシャレなんだよ。」

「うそ!」

「ほんと!」

「うそ!」

「ほんと!」

「じゃあ、えさあげる!」差し出されたじゃがりこを咥える。笑ってしまった。

「だいじょうぶ?けがしてるの?」

「だいじょうぶだ。見つけてくれて、ありがとう。」

「どういたしまして!」

「、、、、ありがとう。」

「ぱぱー!!とらさんにえさあげた!」少女が走り去る。

 俺はそそくさと立ち上がった。





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