瓜依

あべせい

瓜依



「あなた、女性ですか!」

 トイレから出ると、いきなり若い女性から怒りの声を浴びせられた。

 見ると、ドアの目の前に、若い女性が、憤懣やる方ないといった顔つきで突っ立っている。

 おれは、何がなんだか、わからぬまま、

「すいません」

 と言って、女性の脇をすりぬけた。

 いったい、どうしたというンだ。

 この店は、コーヒーを安価に提供するセルフサービスの大手チェーンだ。細長い店内に、2人掛けのテーブル、といっても、直径50センチほどの小さな丸テーブルが10数卓に、8脚の椅子が取り囲む楕円形の大きなテーブルが1卓、ウィンドウに面して幅20センチほどの1人掛け用のカウンターが、止まり木とともに取り付けてある。さらに、奥には10人ほどが入れる喫煙者用スペースがある。

 おれは、壁沿いの、トイレを背にした2人掛けテーブルに戻ったが、釈然としない。

 仲間から「キッちゃん」と呼ばれている、顔見知りの女性スタッフが、出来あがったホットドッグを持って現れたので、いまの一件を話してみた。

 彼女は、どちらのトイレだったのかを尋ねる。

 おれが、2つ並んでいる奥のほうだと答えると、

「お客さん。あのトイレはドアのプレートを新しくするため、いま業者に頼んでいるンです。それで、わたしは紙に「woman」と書いて貼っておいたのですが、剥がれ落ちたみたい。わたし、剥がれ落ちた後すぐに気がついたから張り直したンです。でも、お客さんと行き違いになったンですね」

 キッちゃんはそう言って、ニコッと笑った。

 胸の名札には、「吉弥瑠衣」とある。「きちやるい」と読むのだろう。

 おれは、ドッグをゆっくり噛みながら、考えた。

 この店は3度目だ。前回は3日前、仕事の帰りに立ち寄った。

 この店のトイレは、「手洗い」と表示された角を曲がると、トイレが2つ奥に向かって並んでいる。ドアはどちらも同じつくりだが、手前のトイレが女性用、奥のトイレが男性用だった。3日前までは、だ。

 ところが、吉弥によると、この店の利用客は女性が圧倒的に多いらしく、この日から、手前を男女兼用に、奥を女性専用に変えることに決め、ドアに貼る表示プレートを取り換えることにしたという。

「午後には、業者が来ることになっているンです。すいません」

 吉弥はそう言って、もう一度、私にカワイイ笑顔をくれて、去って行った。

 おれは、表示の紙切れが剥がれ落ちていることを知らずに、前回通り奥のトイレが男性用と思い込み、中に入った。その直後に、紙が剥がれ落ちたのに気がついた吉弥が、貼り直した。私に怒った女性は、貼り直された紙の表示を見て、ドアの前で、中の利用客が出てくるのを待っていたのだろう。

 ところが、ドアが開いて現れたのは、武骨な男だった。驚き、怒るのは当然だ。おれは、そう解釈して納得した。

 2本のホットドッグを食べ終えて、店内を見渡す。さきほどの女性がまだいれば、謝るべきだろうか。と、考えながら……。

 通路を挟んだ楕円形テーブルから、男女3人の会話が聞こえてくる。

「きょうは、これであがりますか?」

「あと一つ、何かネタが欲しい。夕方のニュースに挟み込める派手なのが。局のピーも、最近絵が大人しすぎて、数字があがらない、ってぼやいているしな……」

「あのプロデューサーは欲張り過ぎなンです。いまにヤラセでもいいからやれ、って言われますよ」

 3人の男女の足下を見ると、テレビカメラと小さなライト、それに細長いガンマイクなどが置かれている。

 おれは、トイレのドア前に立っていた女性を思い出しながら、考える。どんな顔だった?……

 髪の毛はストレートで長かった……服装は、山吹色のスーツ、色は間違いない……いたッ! いたゾ! 喫煙ルームの中だ。

 おれは反射的に立ちあがっていた。どうしてか? 

 おれは、36才、独身。これだという恋人は、まだいない。喫煙ルームのガラス越しに見える彼女が、たまらなく美しく見えた。年齢は28、9だろう……。

 おれは、無意識のうちに喫煙ルームのなかに入っていた。彼女は、壁を背にした長いソファの隅に腰掛け、文庫本を片手に煙草をくゆらせている。おれは、彼女の向かい側の椅子のそばに立ち、言うべきことばを探した。

 と、彼女は、本の間に栞代わりに名刺を差し込ンでから、私を見た。

「あのォ……さきほどは、たいへん失礼しました」

「エッ?……」

 彼女の表情が、戸惑いから不可解に、瞬時に変化した。

 おれは、その程度の反応は覚悟していた。

「さきほど、間違って女性トイレを利用した者ですが……」

「何かの、お間違いでしょう」

 女性はそう答えると、名刺を挟んだページを開き、再び本に目を落とす。人違いらしい。バカなッ! 

 私に怒った女性は、確かに山吹色の服を着ていた。おれは思わず、周りを見た。すると、喫煙ルームの中に、山吹色のジャケットを着た女性が一人、喫煙ルームの外の禁煙席にも、山吹色のカーディガンを着た女性と山吹色のTシャツを着た女性が見えた。

 ことしは、山吹色が流行色なのか。おれは慌ててトイレを出たため、女性の顔は、はっきりとは覚えていない。おれより若いという印象しか残っていない。これじゃ、美女に引き寄せられた薄バカじゃないか。

 おれは心底、情けなくなった。こんなことでは昇級試験すら覚束ない。

「ごめんなさい。失礼しました」

 おれは非を認めて、踝を返す。恥ずかしさを全身で感じながら。

「待って。あなた、警察のひとでしょう?」

「エッ」

 おれは、これまで見知らぬ人に、プライベートで警官と見破られたことは、一度もない。きょうは非番で、私服だ。

「あなたが捜しているひとは、お手洗いから出ると、慌てて帰って行ったわ」

「エッ」

 おれは、年下の女性の前で、2度も驚きの声をあげた。なんという醜態。

「せっかくだから、そこにお掛けになったら?」

 女性は、向かいの椅子を勧める。

 おれに、ノーと言えるわけがない。元のテーブルに戻って、使った食器を返却すると、コーヒーを新たに注文して、それを持ち彼女の向かいの席に腰掛けた。

 おれにしては、ずいぶん大胆な行動だ。仕方ない。彼女がおれのハートをグサリッと突き刺したのだから。

「あなた、生活安全の方でしょう?」

「あなたは……」

 おれは、彼女の涼しい目許にグイグイ引きつけられていく。どこで、会った? 何か、相談ごとをされたのか? しかし、思い浮かばない。

「わたし、こういう者です……」

 彼女はそう言って、バッグを引き寄せて開く。

 そのとき、取りだそうとした名刺入れと一緒に、液体の入った茶色の小さな薬瓶がテーブルに転がった。

 彼女は、その薬瓶を手にとると、

「これは護身用……」

「護身用?」

 女性はそれには答えず、薬瓶をしまって、代わりに名刺を差し出す。

 彼女が文庫本に挟んでいた名刺だろうが、文庫本も煙草も、いつの間に片付けたのか、見えない。

 名刺には、「新宿システム販売 営業3課 蔵本瓜依」とある。

「くらもと……」

「うりえ、です。あなたは?」

 おれは名刺を持っていない。係長が、必要ないからといって、作ってくれない。

「オ、いえ、ぼくは、成増警察生活安全係、新方守(にいかたまもる)です」

「そうよね。去年だったかしら、あなたにこっぴどく叱られた……」

 おれは、声を出すのも忘れるほど、驚かされた。

「いつ、どこで、ですか!」

「大きな声を出さないで……」

 彼女に言われて振り向くと、おれのほうを不快げに見ている周りの目がいくつもある。

「すいません。つい……」

 つい、なンだ。つい、冷静でいられなくなったンだ。

「去年の秋、成増西公園の前の民家で、わたしがセールスしていたら、急にドカドカと入ってきて……」

 待てッ、待てーッ! 思い出しかけているゾ。そんなことがあった。

 75才の独居老人の家から、通報があった。「羽布団を買え、って言うンです。助けてください!」。

 警視庁管内は、「振り込め詐欺撲滅月間」にあたり、成安係は、どんな小さな事案でも、即刻対処するよう、署長命令が出ていた。

 おれより2つ若い新任の署長、東大法学部卒のキャリアだ。刑事志望のおれは、この署長から、刑事選抜講習を受けるための、推薦状をもらわなければならない。講習を受けなければ、刑事になるための刑事試験が受けられない。だから、だから、目立つ仕事がしたかった。

「あのとき、警察に通報したのは、お隣の鈴木さん。いまだから言うけれど、お隣はお婆さんよ。同じ番地で鈴木だから、間違っても仕方ないけれど、わたしがセールスしていたのは、お爺さん。羽布団じゃないわ。もっともっと固いもの。それなのに、あなたは、ありもしないのに『羽布団はどこだ! 隠しているとためにならンゾ!』って、大声を出して、わたしを威嚇した。お爺さんが、目を白黒させて、『警察を呼んだ覚えはない。このお嬢さんから、死んだ女房を納める墓石を説明してもらっているところだ』と言っているのに、あなたは、聞かなかった」

 そうだった。爺さんはあのとき、「そいつは高いやね。もちっと、安くするもンだ」って、この女性にせっついていた。おれは、てっきり安い羽布団を高額で売りつける悪徳商法だと思い込んだ。結局、爺さんの「邪魔だ。帰れ!」に、すごすごと引き上げざるを得なかった。通報は、何かの間違いだったンだと決め込んで。

「あのお爺さんは、結局、気分を害して契約しなかったわ。あなたの責任よ」

「そうでしたか。申し訳ありません」

「あなた、本当に責任を感じている?」

「そりゃ、もう……」

 感じるわけないだろう。セールスがうまくいかなかったのは、あんたの腕が足りないからだ。おれのミスのせいにするな、って。

「だったら、これ、買って」

「エッ」

 瓜依は、いつの間にかテーブルに、パンフレットを広げている。

「外車。中古だから安くしておくわ」

「あなた墓石のセールスじゃないンですか」

「いつまでも墓石ばかりやってないわ。そのとき売れるものを扱うのが、優秀なセールスウーマンよ」

「外車ね……」

 おれは車を持っていない。買う金がないわけじゃない。結婚資金を崩せば、なんとでもなる。なるが……。

 彼女は最初から、外車を売りつけたくて、見覚えのあるおれを見つけ、ここに座らせた。それだけのことか……。

 おれが、美女にモテるわけがない。おれは、またまた、哀しくなった。

 公務員は支払いが堅いと思われている。だから、彼女は、このバカ警官をカモッてやるか、くらい考えたのだろう。

「車、乗らないの?」

 おれが運転するのは、成安係で移動するときの警察車両だけ。署で最も古く、しかもマニュアルの軽自動車だ。だからか、クラッチがうまく切れず、トップに入れるのが至難のわざだ。

「あまり……」

「でも、この先、車は持っておいたほうがいいわよ」

 持たないとは言ってない。この女は、おれが車も持てない貧乏人と思っているのか。

「蔵本さんは、車がない生活は考えられませんか?」

「わたし? わたしは、車は嫌いなの。事故が……」

 そうだ。車は事故が怖い。成安係の前は、前の署で交通係にいたから、多くの事故を扱ってきた。轢き逃げ、衝突、死亡事故、自損事故、一つだって、気持ちのいいものはなかった。

「でも、売るンだ」

「仕事だから……ね」

 瓜依はそう言って、ニヤッと笑った。

 若やいだ笑顔だ。笑っていると、25、6にしか見えない。

「新方さん、きょうは非番のようね」

「きょうと明日、休日です」

「警察官って、お休みの日、何をしているの?」

「ぼくは独身だから……」

 ここは、婚活中であることをアピールするチャンスだ。

「いろいろです。家庭持ちのひとは、こどもを連れて出かけますが、反対に、こどもがいても家でゴロゴロして全く何もしないひともいます。両極端です。うちの署員の場合ですが」

「新方さんは独身か……」

 瓜依は、当てが外れたような顔をする。どういうことだ。妻帯者がいい、ってことか。

「だったら、この店から早く出たほうがいいわ」

「ど、どうして、ですか?」

 瓜依はおれの問いには答えず、腕時計を見て、

「あと、10分しかない」

「答えてください。どうして、ここから出なければいけないのか」

「ふでさきさんが、来るの」

「ふでさき、フデサキ……エッ、筆先署長が、ですか!」

「彼の家、といってもマンションだけど、この近くにあるの。いま、彼に外車を勧めていて、自宅でなくて、外で話したい、っていうから、ここにしたの」

 瓜依はそう言って、クスッと笑った。

 若い女がこういう笑い方をしたときは、要注意だ。男の心を見抜いて、悦に入っている。

 おれの住まいは、T線のS駅を挟み、この店とは反対側の国道寄り。駅から徒歩10分ほどのアパートだ。

 アパートといっても2DK。去年の新築だから、インターネットやケーブルテレビの設備があり、おれは満足している。彼女がいれば、すぐにでも同棲くらいはしたい。それで選んだアパートだ。

 署長の自宅が、この近くとは知らなかった。これまで知りたいとも思っていなかったが、こんど総務に聞いてみよう。S駅から署の最寄駅まで3駅だから、一度くらい署長と同じ電車に乗り合わせているものだが、いままでなかった。

 例え乗り合わせなくても、駅で顔を合わせるくらいのことがあっても不思議ではない。なぜだ。もっとも、署長の出勤はおれより30分も遅い。だから、か……。

「わたしが独身のあなたとこうして話しているところを、カレが見たら、何と思うかしら? カレ、奥さまとうまくいっていないようすだし、ここはあなたが引き下がったほうが、出世にも響かないと思うけど……」

 瓜依は、すべてを見越しているように言う。

 筆先は、おれと同じ大学を出ている。しかし、やつは在学中に国家公務員総合職試験にパスして警視庁に入り、キャリア組として出世街道を驀進中だ。34才で警視だから、頭はキレるのだろう。

「わかりました。あと10分で約束の時刻になる、ということですね。署長は、時間に正確な方だから……」

 正確というより、どんなことにも細かい男だ。しかし、いま、やつの欠点をあげつらっていても、芸がない。おれは、再び、自分のコーヒーカップを持って、席を立った。

「帰るの?」

 と言う彼女の問いは無視して、店の入り口に近い、ウィンドウ越しに外が見える、一人掛けの止まり木に腰掛けた。

 被って来たキャップを深く被り直して。この位置なら、あの筆先にバレることはない。


 腕時計の針と、ウィンドウの外の景色を交互に見ながら、ぬるくなったコーヒーをすする。

「お客さん。コーヒーが冷めたでしょ。これ、飲んで……」

 いきなり、後ろからカップが差し出され、代わりにおれの前のカップを持ち去った。

 吉弥だ。他のスタッフが見ていないのか。こんなサービスを、だれにでもするのか。おれは、去っていく吉弥の可愛い後ろ姿を見て、考えこンだ。

 来た! 筆先だ。ベルトレスのズボンにポロシャツ、どちらもアイボリーで、靴もアイボリーのゴルフシューズ。ブランドもののセカンドバッグを持ち、アイボリーの鹿革のハンチングを深く被っている。

 入り口の自動ドアが開き、筆先は迷わず奥の喫煙ルームに向かう。

 おれの背後に位置するキッチンカウンターの前を素通りした。すぐに出て行くつもりなのか……。ヤッ、あいつッ。何しに来た。まさかッ……。

 探偵業をしている柾木(まさき)が、筆先に遅れること、6、7秒で現れ、筆先のほうに視線を送りながら、キッチンカウンターでコーヒーを注文している。

 筆先を尾行してきたとしか思えない。

 柾木は、うちの署に探偵業の届けを出している。

 親しくはないが、顔は見知っている。さほど優秀ではない。しかし、人当たりがよく、仕事は切れずに来ていると聞いている。

 柾木はコーヒーをトレイに載せ、おれがいる止まり木の並びの、いちばん左端に腰を下ろした。

 おれには気付いていない。おれと柾木の間には、2つの止まり木しかなく、しかも空席。ちょっと顔を振り向けただけで、目が合ってしまう。

 しかし、やつはおれの顔を知らないのだろう。柾木の神経は、奥の喫煙ルームに集中している。

 その喫煙ルームから瓜依が現れ、キッチンカウンターに、アイスコーヒーのLサイズを注文している。

 待つ間、退屈そうにふらふらと後ろに下がってくる。おれは気になって、体を後ろにひねった。

 瓜依の手が伸びて、おれの太股の上に名刺を置いた。反射的に、その名刺を手の平で覆い隠す。

 瓜依は出来あがったアイスコーヒーをトレイに載せ、何事もなかったように、喫煙ルームに戻っていく。

 柾木は、署長と瓜依の関係にまだ気がついていない。この止まり木の位置からでは、瓜依の席が見えない。柾木は、筆先がいまどこにいるのかさえ、まだ確認できていないはず。

 おれはゆっくり正面を向き、手の平のなかの名刺を見た。彼女の名刺だ。さきほど、おれが受け取らずに、そのままにした名刺。何も書いてない。

 裏返す……。

「ホテルに誘われちゃった。どうしよう。でも、心配しないで……」

 とあり、続けてメールアドレスが記してある。

 なにが外車のセールスだ。これじゃ、枕営業じゃないか。

 やきもちを焼いている自分に気がついて、慌てた。

 瓜依は、ついさっき出会っただけの女性。名前と職業以外、何も知らない。筆先のほうが詳しい。

 しかし、やつには、女房もこどももいる。だから、柾木が尾けている。柾木はやつの女房に頼まれ、素行調査している。

 征木の女房は亭主を疑っている。女房の読みは正しい。しかし、瓜依がおれに、「でも、大丈夫」って書いて寄越したのは、何だ。おれは彼女の恋人でもなんでもない。

 おれは携帯をいじり、「大丈夫って、どういうことですか?」と、瓜依にメールした。

 すぐに、

「あなた、刑事になりたいンでしょ。そのチャンスがあるかもよ」

 と、返信が来た。

 なんで、知っているンだ。おれの秘密を……。

 数分後だ。

 ドカドカと靴音とともに、2人の男が入って来た。

 薄汚い色のスーツを着た中年と初老のコンビ。中年は百キロはありそうなデブ、初老は鶴のような痩せっぽちで、2人とも顔色が悪い。

 このコンビは、成増署に赴任してすぐに、管内要注意人物リストを見せられ、その中の人物として頭にたたき込んだ覚えがある。

 2人は、不快そうに見ている周りの視線を無視して、まっすぐ喫煙ルームに向かう。

 柾木が気色ばンだ顔つきで、後を追う。柾木にとっては、予想外の展開なのだろう。

 おれも続く。

 署長と顔が合えば、それはそのときのことだ。おれは、なんといっても、ここにはたまたま来ただけだ。恥じることは何もないッ。

 喫煙ルームの入り口にドアはない。

 2人の男は、幅1メートルほどの入り口に突っ立って中を見渡す。

 喫煙ルームには、瓜依と署長を含め6人の客がいる。

 署長は、瓜依の向かい側の椅子に腰掛け、ハンチングを眉の下まで深く被っている。

 入り口からは横向きの姿勢だから、顔はよく見えない。

 瓜依は予期していたことなのか、壁を背にした長椅子にゆったり腰を落ちつけ、正面を見てうまそうに煙草を吸っている。

 その一瞬。チラッと入り口に視線を送ってきた。

 おれは、その瓜依の視線が、2人のヤクザと柾木の後ろにいるおれに向けられた、と手前勝手に考えた。

 さらに、

「いよいよよ。おもしろくなるから……」

 と告げているように、なぜか解釈した。

「オイ、そこのアマァ。動くな、そこにいろヨッ!」

 中年デブが瓜依の前まで急いだ。初老も続く。

 2人は署長の真後ろに立った。

「おまえは、5日前、おれに外車を売りつけたよな」

「そうでした?」

 瓜依は初めて2人に気がついたように顔を上げ、2人を見る。

「5日前のことだ。忘れたとは言わせねえ」

「わたし、とっても忙しくて。終わった仕事はすぐに忘れることにしているの」

 中年デブは、ポケットから紙切れを取り出し、瓜依に突き出す。

「ここに領収書がある。これだ。おまえの名前も入っている」

 瓜依はチラッとそれを見て、

「領収金額98万円。蔵本瓜依……わたしの名前ね。思い出したわ。そんなことがあったっけ……」

 おれは、瓜依のようすを見ていて感心した。

 こんな度胸のある女なら、すぐにでもデカになれる。いや、デカにしたい。

「あの車はなんだ。動かないじゃないか」

「ガソリンは入れたの?」

「バカにするな。ガソリンを、空っけつで売りやがって。すぐに満タンにした」

「だったら、重量オーバーね」

「重量オーバー!? ナンだ、それ。スポーツタイプの2人乗りだろうがッ」

「あれ、前に事故ッてンの。だから、80キロ以上のドライバーが運転席に乗ると、エンジンがかからないようになってンの」

 中年デブの怒りが、さらにヒートアップする。

「そんな車が、あるかッ!」

「こう言えば、あなたのおつむでも、わかるかな。あなた、マニュアルがいい、って言ったわね」

「そうだ。ノークラは、ガキの乗る車だ」

「だから、体重80キロ以上のドライバーが運転席につくと、シャーシがたわんで、クラッチケーブルを邪魔するの。あの車は、クラッチが切れないと、エンジンがかからない。だから、かからない。わかったかしら?」

 中年デブが気勢を削がれたように、静かになった。

 と、横にいる初老のヤセが、

「修理できないのか」

「できるけれど、30万ほどかかるわね」

 中年デブが反応する。

「30万! だったら、修理してから売れ!」

「あなた、安くしろって、値切ったでしょ。値切っただけじゃない。この領収書は確かに98万になっているけれど、あなた、わたしにいくら寄越した? 70万だけよ。あとの28万は、ネコババするンでしょ。どうせ、組のだれかに頼まれて、わたしのところに来たンでしょうから。それに、わたし、初めに聞いたわよね。だれが主に運転されるンですか、って。そうしたら……」

 ヤセのほうを目で示し、

「あなたのほうだっていうから。50キロほどのあなただったら問題ない、って判断したわけ」

 すると、ヤセが、

「それがですね。買ってくれる相手が、ほかで買ったらしくて、もういらないってことになって。だったら、こいつが使う、って言い出して……」

 そう言って、中年デブを目で示した。

 ヤセのほうが、物分かりはよさそうだ。

「黙ってろ!」

 中年デブの怒りが爆発した。

 その瞬間、やつは、瓜依のテーブルの上を片腕で勢いよく薙ぎ払った。

 カップとグラスが飛んで床に落ち、割れる音が派手に響く。

 その瞬間、おれは言った。

「器物損壊!」

 すると、おれの後ろから、

「撮れ、暴力団の暴力現場だ。またとないチャンスだ!」

 声がして、カメラを肩にした若い女性が前に出て、中年デブまで1メートル弱の距離に迫った。

「オイ、何を撮ってンだ。この野郎、勝手なことをするンじゃねエ!」

 中年デブは矛先を変え、女性カメラマンの肩をドンと突いた。

 おれは、すかさず、

「成増署だ。暴行傷害の現行犯!」

 叫ぶや、中年デブに猛然とタックルした。

 タックルは高校時代、体外試合で一度も勝ったことがないラクビー部に所属していたおれが、最も得意とする技だ。

 中年デブは見事に転倒した。

 転倒ついでに、テーブルの足の直径15センチの金属管に後頭部をしたたか打ちつけ、気絶した。

 喫煙ルームはパニックになった。外の禁煙席からも野次馬が続々とやってきて、もの珍しそうに見ている。

 おれは、中年デブを体の下に組み敷いたまま、顔を振り向け、署長のほうを見た。

 しかし、署長の姿がない。

 と、瓜依と目が合う。

「署長はどこだ?」とおれが目顔で言うと、

「お手洗いだわ。フ、フフフ……」

 瓜依はそう言って笑う。

 不謹慎だ。こんなときに、色気たっぷりの含み笑いは……。

 柾木がおれと瓜依の間を遮るように、前に出た。

「あなた、成増署の刑事さんですか」

 テレビクルーのカメラはまだ回っている。

 ここは大事なところだ。

「刑事課じゃないが、似たようなものだ。それより、あんた、すぐ110番してくれ。こいつらは、管内の札付き……」

 と言いかけて気がついた。

 管轄が違う。うちの署の管轄は、隣の駅までだ。

 まァ、いい。現行犯逮捕に変わりはない。

「警察にはお店のひとが、すでに電話して……」

 柾木が言い終わらないうちに、パトカーのサイレン音が響き、店の前で止んだかと思うと、活動服を着た警官2人が駆けてきた。

 おれはその2人に事情を話し、デブとヤセの2人組を連行してもらった。

 隣の赤塚署に出向き、事情聴取に応じなければいけないが、明日にしよう。

 5分後、騒ぎは何もなかったように、店内は静けさを取り戻した。

 瓜依は、ゆったりとコーヒーを飲みながら煙草を吸っている。

 柾木は元の止まり木にいる。

 おれは、店の外で、テレビクルーに、逮捕したヤクザについてたっぷりインタビューを受けてから、ご機嫌で止まり木に戻った。

 柾木がにじり寄ってくる。

「新方さんですね。署長と向き合っていた美女から伺いました。どこかでお会いした方だとは思っていたのですが……」

「そんなことより、署長はどうした?」

 柾木が、指でトイレを示す。

「まだ、手洗いか?……」

 そのとき、トイレのほうから、

「ギャーッ! チカンッ!」

 若い女性の叫び声がする。

 おれは、「手洗い」表示の方に走った。

 痴漢逮捕で、さらに点数が稼げるゾ。

 すると、筆先が、狭いドアの前で頭を下げ、しきりに女性に向かって詫びている。

「すいません。隣がふさがっていたもので。ちょっとお借りしました」

 筆先は、2つ並んだトイレのうち、「woman」の紙切れが貼ってある奥のドアを背にしている。

 おれが間違えたトイレだ。手前の男女兼用トイレは使用中になっている。

 女性は腹立たしい、汚らわしい、と言わんばかりの顔付きで、筆先と入れ替わり、ドアのノブに手を掛けた。

 ところが、筆先はそれより早く、踝を返すと、下腹を押さえながら、

「ダメです。また、来ましたッ!」

 と叫び、強引に女性を押しのけて、ドアの中に消えた。

 筆先は食中毒でも起こしたらしい。そんな表情だ。

 おれは、若い女性に対して、

「いまの方は決して悪いひとではありません。どちらかと言うと、悪いひとを掴まえる……」

 手前のトイレのドアが開いた。

 女性は、おれに対して、痴漢のともだちだろう、と言いたげな視線を残して、空いたトイレに消えた。

 元のとまり木に戻ると、吉弥が現れ、

「これは、お店から、さきほどのお礼です、って」

 と言い、おれの前に淹れ立てのコーヒーを置いた。

 おれは気分が著しく昂揚しているのを感じる。

「キッちゃん」

 と呼びかけた。

 吉弥が振り返る。

「なァに?」

 「仕事が終わったら、デートしないか」と言うつもりだったが、そのとき、瓜依がおれと吉弥の間を遮るように現れた。

「一緒に来ない? カマロに試乗させるから」

 おれは、吉弥に、

「明日、現場検証があるだろうから。おれも立ち会う。じゃ……」

 と言い、止まり木から降りた。

 瓜依の誘いは断れない。吉弥は明日でも、足りる。

 3分後。

 おれはカマロの助手席にいた。瓜依が巧みなハンドル操作で、高速を走らせている。

「署長にそんなことをして、平気ですか?」

「半日で元に戻るわ。お手洗いに通うだけでしょ。それに、わたしが盛った、ってことには気がついていないわ。昨夜、カキを食べ過ぎたせいかな、なンて言っていたから。奥さんとは、もめるかもね」

 瓜依は護身用の薬瓶の中身を、筆先のアイスコーヒーに垂らしたと告白した。

 厳密に言うなら、無断で下剤を飲ませるのは傷害罪だ。しかし、その程度は、許される。おれが大目に見る。立場をカサに着て美女をホテルに誘うのは、もっと悪質だろう……。

「大丈夫、ってそのことだったンですか」

「女が身を守るには、いろいろ武器が必要、ってこと」

「これから、どこに?」

 おれは、瓜依の横顔に見惚れながら、尋ねる。

「これはカマロの試乗よ。あなたの行きたいところに行くわ」

「この車、おれ、いえ、ぼくに売るつもりですか?」

「買わないの? こんなにサービスしているのに……」

 瓜依はスピードを落とし、静かに走る。

「去年、あなたに初めて会ったとき、このお礼はきっとさせてもらおう、って考えたの」

「墓石のセールスを邪魔した、お礼ですか?」

「そう、あのときの……」

 瓜依が、じっとおれを見つめる。

「わたしをホテルに誘いたくない?」

 筆先は、瓜依と一緒にゴルフに行くつもりでいたが、彼女から、同じように『わたしをホテルに誘いたくない?』と、持ちかけられたのだろう。

 そのとき、筆先は、しっかり頷いてしまった。変わりやすい女心を考えないで。

「ぼくは、そんな愚かなことはしません」

「どうして?」

「このあたりに、トイレは見当たらないから」

「バカね。あなたは合格よ……」

 瓜依は微笑みながら、おれの太腿に手を伸ばしてきた。

                 (了)

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瓜依 あべせい @abesei

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