第15話 きゅうりのサンドイッチ


 みんな各々「ありがとう」とか「楽しかった」とか言いながらムササビの背を降りる。

 小松こまつさんは「ほんのちょっとしたもんだけど……」と小さなリンゴを彼に渡した。雨丸あめまるは「はい、これもどうぞ」とたくさんのどんぐりが入った袋を、彼の背中の紐にくくる。


「ありがとう。ほんだらまた夕方に迎えにくるなぁ。荷物が多いようなら小さいタクシーも連れてくるけんど?」


 ムササビがそう言って、小松さんはすぐに「頼むよ」と答えた。




 きゅうり農園は青々としていてみずみずしく、隣にはトマトもなっていた。

 小松さんはパチンパチンと心地よい音を鳴らして、はさみできゅうりを切り落とす。エナはすぐ近くの川で採れたてのきゅうりを洗う。雨丸は木の実を採りに、ほんの少し離れた木の根にいた。はさみを持っていない朝陽あさひは、両手でトマトをもぎとってみたりする。


 さらさら流れる川の音色を聞きながら、めまいがするほどの青い草と、どっしりと栄養のある土の香りを感じる。肺が喜ぶような、健やかな空気だった。


「お父ちゃん、あたし休憩する」


 父が採ったきゅうりを黙ってカゴに入れていたミズナちゃんは、そう宣言すると遠くの木陰に走っていった。「あんまり遠くに行くなよぉ」小松さんは大きな声で言ったけれど、彼女は振り返らなかった。


「難しいお年頃なのかしらねぇ」


 エナは朝陽が採ったトマトを受け取りながら言った。




 小松さんはせっせと収穫し、雨丸も一生懸命木の実を拾っている。エナは持ってきた調理器具でお昼ご飯を作っていた。


「ちょ……ちょっと休憩してきていいですか……?」


 朝陽はフラフラになりながら尋ねる。怠けてばかりだった身に、久しぶりの労働は想像以上に厳しく、素早く全身を疲労させた。


「おうおう、ゆっくり休みなぁ。ついでにミズナの様子も見てきてくれるかい?」


 小松さんは元気そうだったけれど、木陰に座るミズナちゃんを心配そうに見て言った。


「まだまだ病み上がりだものねぇ、無理しないで」


 エナはそう言って、どんぐりのコップ2つとお茶の入ったひょうたんを渡す。




「ミズナちゃん、お茶飲まない?」


 もうヘトヘトといった感じで、ミズナちゃんの隣に転げるように座った。


「朝陽ちゃん!ありがとう!」


 ミズナちゃんは喉を鳴らしてお茶を飲む。彼女の手には1冊の本とノートが広げられていた。こっそり覗くと、彼女の巾着にはまだ2冊ほど本が入っている。


「うわぁ、偉いねぇ!勉強してたの!?」


 朝陽も喉を潤しながら言う。


「だって……」


 ミズナちゃんは分かりやすく頬っぺたを膨らまし、我慢ならないといった様子で話し始めた。


「今日本当は学校あったんだよ?それなのにお父ちゃんは……。野菜採りに行く方が大事だって。ミズナは将来、八百屋になるんだからって。あたしはもっと勉強したいのに!」


 彼女がどことなくふてくされていた原因が分かって、納得するとともに困惑した。朝陽がミズナちゃんくらいだった頃、勉強したいなんて思えなかったから。勉強するくらいなら、学校を休んで父の厨房にいたいくらいだった。


「ミズナちゃんは、何の勉強がしたいの?」


 困惑を表に出さないようにして尋ねる。眉間にしわが寄っていないか、汗をぬぐうふりをして確認した。


「栄養と野菜の勉強!」


 ミズナちゃんはニカッと笑って言った。「それって、なぁに?」と尋ねる前に、ミズナちゃんは楽しそうに話し始めた。


「あのね、フクロウ先生が言ってたんだけどね。この街の人たちは貧血になる人が多いんだって。特に小さい子供とか。フクロウ先生は人間じゃないから、原因は分からないらしいんだけど、もしかしたら食べ物に問題があるのかもしれないって。だからね、ほら、あたしって八百屋の娘でしょう?いつか、そんな貧血なんてすぐ治しちゃうような野菜を作りたいの!そうしたら、学校の先生がね、だったらたんと勉強しなさいって。今たーんと勉強したら、将来きっと野菜作りの役に立つからって」


 ここまで話すと、彼女はうつむいた。唇を尖らせている。


「だからね……あたし、お父ちゃんには悪いけど、本当はただの八百屋になんてなりたくないんだぁ……」


 朝陽はとても驚いた。

 こんなに小さいのに、もう人生の目標を決めている。

 大人になっても、何も決めきらない自分がひどく滑稽に思えた。


「偉いわねぇ、将来の夢を持つことは素晴らしいことよ」


 どう答えたらいいか分からなくて、うっかり偉そうなことを言ってしまった。何も分かっていない大人が適当に使うような言葉。そんな言葉を吐いてしまって、朝陽の口内には嫌味ったらしい苦みが残った。


「お昼ご飯よー!」


 遠くから、エナの元気な声がする。朝陽はほっとした。この幼い少女から、批判されているような気分になっていたから。

 もちろんそれは朝陽の勝手な妄想で、ただ思い出してしまったのだ。あの、鼻で笑われるような視線と、自分の人生を小馬鹿にされたような就活中の面接を。


「うわぁ!きゅうりのサンドイッチ!」


 父親に怒っていたことなんて忘れて、一目散に駆けていく彼女を見つめた。そうしたら、彼女と嫌な気分とを分離させることができた。よしっ、と一呼吸おいて、朝陽も駆けてみる。

 サンドイッチもトマトも、どれも絶品だった。だけど朝陽だけがほんの少し、きゅうりが苦いような気がした。




 自宅に帰ってお風呂に入るころには、もうクタクタのぐでんぐでんだった。水道はしっかりと直っていて、きゅうりのサンドイッチをお土産に、喪黒もぐろさんにお礼を言った。

 雨丸がくれたムクロジの実で、エナは完璧なシャボンの泡を作り出した。まだ乾燥していないものは乾かして、石鹸の代わりに使うらしい。


 エナが浮かべてくれた泡風呂につかりながら、心地の良い疲れを感じた。


 目を閉じて、今日のことを思い出す。


 朝から、慌てた様子のエナを初めて見て、モグラの喪黒さんに出会って、雨丸のお茶を飲んだ。ムササビに乗って空を飛び、一生懸命トマトを収穫した。親に気を使うことなく、のびのびと自分の夢を語る少女をうらやましく思ったりもして。みんなで新鮮なきゅうりのサンドイッチを食べて、とれたてのトマトをかじった。帰りには、『ちっちゃいタクシー』として可愛いモモンガも迎えに来てくれた。


 ふと視線を下ろすとお腹のあたりにロープの跡が残っていた。


「落っこちないように、ぎゅうぎゅうに締めたんだったわ……」


 その間抜けな跡を見ると、ちょっと笑えた。ほんのちょっとの労働で、肩も腰も足もパンパンになって、体中が凝り固まっていた。すっかり退化してしまった自分の身体を、泡の中でのんびりと癒す。お湯はとても温かくて、溶けてしまいそうなほど気持ちがよかった。


「明日は筋肉痛だろうなぁ」


 朝陽はそれがとても嬉しくて、歌うように呟いた。


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