第35話 ともしびよ、どうか消えないで(2)

ハルトはずっと人差し指の第二関節を噛んでいた。

何時間そうしていたのかわからない。本人の意識もそこにはない。ただ何かで口を塞いでおかないと、震え上がって、叫びだしてしまいそうなのだ。

(わかっているんだ、アキラのいる家に帰って、彼から裁きを受けなければいけないことはわかっているんだ)

わかっているのにできない。そうしようとしている自分を想像するだけで怖ろしくてたまらない。怖い、という感情で理性のあちこちが塗りつぶされていく。

――最初の予定通り、処分場で処分されてしまえば戻らなくていい。

――アマービレからアキラに連絡が行っていたとしても、ここまで来れば彼が追いついてくることはない。

――この恐怖を、不安を、早く止めてほしい。だってこんな状態で何を話せっていうんだ!どうせ死んでしまったほうがマシな人生なんだ、今死んでも後で殺されてもたいして変わりはしないじゃないか!嫌だ、ああ、ああ、嫌だ嫌だ嫌だ怖い怖い怖い早く楽に誰かねえ誰か怖いんだ、ねえ。


…………。

意識が途切れて、また浮かび上がる。目覚めてしまったことに落胆する。

(……こんなに死にたいと思ったこと、前の人生ですらなかったのに)

前の人生は続ける意味がないと思った。テレビの砂嵐をずっと見ているだけの時間に意味などないと。さっさと電源を切ってしまおうと。……それだけだった。

でも今は。

「…………ッ……」

血の味がずっとしている。指からの血だろう。それでも歯を離せなかった。


「――なんで戻ってきたんだよ」

「もう顔も見たくない、大嫌いだ」

「絶対許さないからな」

「あんたさえいなければ、俺はもっと長く生きていられたのに」

「あんたの巻き添えで死んで、家族も悲しませて」

「なのにあんたは俺の前にのうのうと現れて、普通に生活してて」

「死にたきゃ1人で死ねよ!俺を巻き込むなよ!!」



……耳の奥に、ありったけの罵倒が聞こえてくる。

恐怖が、不安が、それを己の中に響かせている。

「そう言われて当然なことをしたのだ」という確信が、また新たな罵倒幻聴を生んで、ハルトを苛んでいく。


ごめんなさい。……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

やっぱり死んで償うしか思いつかない。でもその前にアキラに言いたいことを全部言ってもらったほうがいいんだよね?アマービレもそうしろって言っていた。

だから帰らなきゃ、生きて帰らなきゃ。どんなに怖くても帰らなきゃ。

でも、でも、

「うるさい。……そんな目で俺を見るなよ、気持ち悪い」

…………うん。

………………ごめんなさい。君の人生に関わってしまってごめんなさい。何の関係もない他人だったのに。最悪の形で交わってしまってごめんなさい。

何の役にも立てなかったのに、最後の最期まで人に迷惑をかけて。

挙句の果てに、君と――……。



(ほんの一月の間だけでも、友達になれたのが、嬉しかったなんて)



――早朝。イファF4区、273番駅。

疲れ切った思考の中から、『処分場』という車内アナウンスでかろうじて引き上げられる。

電車を降りて、エレベーターでまだ太陽が上りきらない薄暗い空の下に出る。真正面に巨大な建物。迷う余地すらなかった。そこまでまっすぐ進み、入口前の車いす用のスロープを登って、ガラス扉の前に立つ。扉は開かない。

『夜間・早朝受付はこちら』と書かれた呼び鈴に気づくまでに5分かかった。


「……委任状を確かに確認しました。処置室に移動します」

「ひとつ確認したいのですがこの方はいつお亡くなりになったのですか?死斑も固まって、死後硬直ももう完全に進行している。おむつをしていたので外には漏れていませんでしたが排泄物も体外に出ていましたし……。この状態でトファ区から運んできたんですか?」

「…………」

「……あの、ちょっと、聞いてますか?」

「……すみません……」

「いや謝らなくていいんですけど、いつお亡くなりになったんですか?」

「昨日の朝です……ごめんなさい、もう少し早く運べればよかったんですが……」

「…………」

「ごめんなさい……」

「…………」


職員が顔を見合わせていたのも、頭を下げていたハルトの視界には入っていなかった。とにかく謝っていた。すべて自分が悪いのだから。


「……書類は委任状の住所に送付します。あなたはお帰りになってください」

「あ、待ってください、僕も……」

「帰ってください。出口はあちらです」

「……はい。…………ごめんなさい……」


厳しい口調の職員に出ていくよう強く言われ、ハルトはそれ以上食い下がれなかった。重いガラス扉を開けて、ゆっくりと入口の階段を降りる。たった三段なのに、足が重くてたまらない。


自分もここで死にたいですと頼むことすら、わがままな罪だったようだ。

そうだ。罪なのだ。だって、死にたいと願ったせいで人を殺してしまったのだから。

だとしたら死にたいと願うことも間違いなのだろうか。生きている価値すらないのに?生きているだけで誰かを苦しめて、自分も苦しむのに?

生きているのも罪。死んでしまうのも罪。なら、一体、どうすれば――。


「――――ハルト……!」



…………聞こえた声。地下に通じる階段から見えた姿。近づいてくる。

何かの間違いだと、思った。そうに違いない。中央からここまで、どんなに急いでも一日半はかかる。アマービレから連絡を受けて来たとしてもまだ半日。だから、ここにいるはずがないのだ。

幻聴だけじゃなく、とうとう幻覚も見えてきたらしい。副作用?後遺症?離脱症状?なんだっけ、なんでもいい、とにかくあれは、本物じゃない。

僕を罵倒するために現れた、僕の罪のだ。


「ハルト、待って……!」


だから、逃げるのに躊躇いはなかった。広い通りを、中央と比べるとずっと人の少ない通りを走り出す。

だってあれは本物じゃない。本物のアキラがこんなところにいるわけがない。

ああ、視界があてにならない。聴覚もあてにならない。何を信じればいいのか。何も信じることなど許されないのか。許されないのならもう終わらせてほしい。どうしてまだ走っているのだろう。どうして手足が動くのだろう。息ができるのだろう。さっきまであんなに重かった足が、どうして今になって動くのだろう。わからない。わからない。何もわかりたくない。何度も呼ぶ声がする。アキラの声が聞こえる。聞こえるはずがないものが聞こえている。狂っている。もう嫌だ、嫌なんだ。僕が全部悪い、悪かったんだから、もうそれで終わりにしてくれ。お願いだ、そんなに苦しそうな声で、僕を呼ばないで――……。


「―――――――――」


…………声が、聞こえなくなった。

ようやく幻聴が終わった、……のだろうか。ならもう、振り返っても誰もいないのだろうか。

おそるおそる、僕は振り返った。


「…………あ」



アキラの姿はまだそこにあった。ずいぶん遠く。百メートルは離れたところに、地面に、倒れている。



「あき、……ら?」



動かない。

これも幻覚?何かの罠?それとも、本当にあれは、本物のアキラ?


「…………え?」


転んだ?それにしては長すぎる。手をついて起き上がる様子がない。

耳鳴りがうるさい。何も聞こえない。もう追いかけてこないのなら、このまま走って逃げられる?

でもあれが、本物のアキラだったら?

ありえない。そんなことはありえない。ここまで来られるはずがない。だから本物じゃない。そう、思うのに。


「…………アキラ……!」


……怖かった。

怖かったから、僕は駆け出した。

アキラが倒れたまま動かなくて、そのまま死んでしまうのではないかと。

あの夜、窓のそばで吐瀉物にまみれて目を見開いたまま動かないアキラを見たときのように。

怖くて、怖くて怖くて怖くて。

だから駆け出した。本物でも偽物でもいい、無事であってほしい。

そう思いながら、彼の身を抱え起こした。


「アキラ、……っ、アキラ……!!」

「――――……」



彼はゆっくりと目を開けて、……微笑んだ。

暁の光を頬に受けて、きらきらと。

僕がこれまでに見たひとの笑顔の中で、一番、かがやいて――。


「…………やっぱり、……やっぱり、優しいよ、ハルトはさ……」

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