私はおばけ研究家

一之森 一悟朗

おばけ発見 編

第1話 私はおばけ研究家

 「もしもおばけが本当にいたら、世の中はもっと優しくなっていたかもしれないな」

 これは、私の恩師である「高木一郎」名誉教授の言葉である。


 高木先生はもともと生物学を専門とする「細胞の代謝とエネルギー」分野の著名な研究者であったが、現役を退いた晩年になってからは、「おばけ」を題材とした子供向け童話作品の発表に尽力した多才な人物でもあった。

 温厚な性格で、現役時代から多くの学生に慕われた高木先生の描くおばけ像は、いたずら好きでおちゃめな性格だったりするのだが、困っている人がいれば助けてくれる、そんなやさしいおばけが多かった。そこには、先生がよく口にしていた「困っている他者を思いやることのできる人物であれ」という想いが込められており、童話の中のおばけを通じて、子供たちにその想いを届けたかったからなのかもしれない。

 

 高木先生がまだご存命で精力的に著書を執筆されていたあの当時、おばけはこの世の中には実在しないとされていたので、「空想の中だけの存在である」というのが世の常識だった。だからもし今、高木先生が私の研究室にふらっと立ち寄ることがあったなら、研究室の中をふわふわと飛び回るおばけを目にして、さぞや驚いたことであろう。

 

 私は研究者である。所属学会は、御化亜氣(おばぁけ)学会、研究テーマは「おばけの生態と病気に関する研究」である。計測機器が進化を遂げ、「おばけ」という存在が明らかにされたのは、ほんの10年ほど前の話である。それからというもの、多くの研究者がこぞっておばけについて調べ始めたが、実際に私たちはおばけについてどれだけのことを知っているのだろうか。彼らはいわゆる「幽霊」とよばれているもの ― 現代の科学では説明しきれない現象や、しばしば脳の錯覚や脳の器質的障害に伴う幻視や幻聴によるものを含む ― とは全く異なる。形や色も様々で、それぞれが得意とする能力をもつようだが、この10年の間におばけについて分かったことはまだほんの一部に過ぎない。

 私自身は、おばけは「生物」に分類できると考えている。それは、おばけも病気になるからだ。


 私の友人であるN大学の倉持教授は、おばけの体の構造そのものについての研究を行っている。彼の研究によれば、おばけそのものはアミノ酸やタンパク質、脂質などの一般的な成分から構成されており、我々人間とよく似ているようだが、違う点もあるという。それは、体を構成する物質の分解や再構成を瞬時に生じさせ、体の変形や再現を迅速に行うことができる点にある。すなわち、この現象を応用することで、おばけ達は自分の意志で体の形を変えたり、姿を消したり現したりすることを可能としているらしい。この能力のおかげだろうか、おばけ達は長い間人間生活のすぐそばに存在しながらも見つかることなく、これまでひっそりと暮らすことができていたのである。

 ところが10年ほど前、なぜおばけが人前に姿を現すことになったのか、そのきっかけとなった出来事を私は今でも鮮明に覚えている。


                  *


 あれは夏も終わりに近づき、秋の気配を感じる涼しい風が吹き始めた9月のある日のことだった。

 当時の私は、准教授としてT大学に勤務していた。その日は、自身が担当する生物学の講義を午後の早い時間に終えてから、研究室の学生3名と共に野外調査へ行くことになっていた。

 主宰者として研究室を立ち上げたばかりだった私は、何もない所から研究に必要な最低限の物品をそろえたところで、年度の途中にも関わらず研究資金が底をついてしまっていた。研究者が応募できる外部資金はことごとく不採択となり、当時はポケットマネーを投じて消耗品を購入するという、なんとも悲惨な状況にあった。研究室の財政が破綻寸前だったこともあり、学生には申し訳ないが、実験計画もなるべくお金のかからない方法で組むほかなかった。


 当時の研究テーマである「気候変動が土壌中の微生物叢に与える影響」について調査を行うために、私は採取地点を定め、大学周辺の土壌サンプルを定期的に採材していた。土壌サンプル中に含まれる微生物を集めて標本を作り、学内の生物学実習室にある顕微鏡を使ってその形態を学生たちにスケッチしてもらうことで観察記録を残していた。その記録をもとにして形態学的な特徴から図鑑と照らし合わせて微生物種の分類を行うという、なんとも地道で昔から続く古典的な手法の研究ではあったが、自費を投入した場合でも必要経費が比較的安く抑えられることで継続して調査を行うことができた。長い期間をかけて得られる連続性のある結果というものは、それなりに貴重な研究成果でもある。  

 調査した地域に普段どのような種類の微生物が生息しているのか、基本となる微生物の種類やその多様性について調べ、気候変動による影響の有無を明らかにするべく、日々の研究を細々と続ける毎日を送っていた。

その日も土壌調査を行うために研究室に集合した3名の学生と共に大学の敷地を出て、その地域ではいわゆる「鎮守の森」と呼ばれている森林を抜けた先にある杉ノ山神社へと向かった。

 いつものように神社の境内の中央付近に集合し、それぞれの学生におおよその採取場所を割り当てた後、皆で土壌サンプルを採材していた時だった。社殿の裏側で調査をしていた学生が何かにつまずき、「うわっ」と叫んで地面に手をついた。すぐにかけ寄って学生を助け起こしながら、彼がつまずいたものを確認した私は自身の目を疑った。そこには淡い萌黄色の半透明の球体が横たわっていたのである。大きさはバレーボールくらいだろうか。日が傾いた午後の日差しが、神社の木々に茂る葉の間から木漏れ日となって様々な角度からその物体に向かって降り注ぐ。複数の角度から差し込むやわらかな光が物体の中で反射したおかげか、半透明の球体がうっすらと色づいて質量をもち、周囲の空気との間の境界線をかろうじて浮かび上がらせることに成功していた。

「先生、これは何でしょうか?」

 起き上がった学生が首をひねりながら、それに触ろうと手を伸ばした。

「いや、さわらない方がいい」

 ちょうど、サンプル瓶に入れた各地点の土壌サンプルをまとめて入れようと持ってきていた大きなビニール袋を開く。なぞの物体に近づいた私は、一気に上から袋を物体にかぶせ、すくい上げるようにして持ち上げた。軽かった。何も中に入っていないかのように軽い。学生は本当にこれにつまずいたのだろうか?様々な疑問を胸に抱えながら、そっと袋の中をのぞいてみると、半透明の物体は確かにそこに入っている。

「危険かもしれないから、私は念のために実験室でこの物体が何なのか、解析をしてみようと思う。君たちは採材した微生物のサンプルをいつものように実習室で処理した後で、顕微鏡で観察をしながらスケッチをして観察記録を作成してくれるか。終わったらそのまま帰宅してかまわない」

 大学へ戻り、生物学実習室の前で学生たちと別れた後で、私は袋に入った謎の物体をもったまま、新しく建てられたばかりで昨年度から運用が開始された生物学部研究棟の1階にある実験室へと向かった。

 この実験室は、外から野生動物を搬入する際に使用される「検疫室」として使われているもので、空気が外へ漏れ出ないように陰圧に調節された室内に、実験台が置かれていた。私はマスクと手袋を着用してから、実験台の上にステンレスのトレイを置き、袋を逆さまにしてなぞの物体をトレイの中に出してから外観をよく観察する。

室内に移動して日光が当たらなくなった物体は、ところどころに不透明感を増した不整形な領域があるようにみえ、その部分には白く毛羽立った微細なうぶ毛のようなものが生えていた。注意深く不透明な領域に生える白いうぶ毛のようなものの表面をスパーテルでカリカリと削り取って、スライドガラスに垂らした生理食塩水の中に溶いた。上からカバーガラスをかけて作製した標本を顕微鏡で観察すると、そこには、糸くずのような菌糸が網目状に張り巡らされていた。

 「これは、カビの菌糸のようだな、白いうぶ毛のようにみえていた場所は真菌か」

 「この物体の不透明な部分には真菌が繁殖している可能性が高いな」

 次に生じる疑問として、真菌に感染しているこの物体は植物なのか動物なのか、という話が重要になってくる。

さきほどのサンプルに染色液を2滴ほどたらして、数分待ってから顕微鏡で観察してみる。するとそこには、細胞膜に囲まれた核をもつ人間の細胞とよく似た構造が染色液によって染め出されていた。

 「形態学的特徴からみれば、これは植物の細胞ではないと思う。しかし、これは本当に動物の細胞と言えるのだろうか?」

 「それにこの物体の全体の外観はおおよそ球体にみえるけれども、半透明の部分と不透明な部分がまだら状になっている。これは一体どういうことなのだろうか」

 さらに驚くべきことに、構造物の輪郭を目で追っていくと、輪郭線が途中で途切れている部分があることに気が付いた。長さでいえば2cm程度であるが、自分の目では認識できないとしてこの物体に存在している。しかしその領域に人差し指の腹をそっと押し当てると、「羽毛」のようにふわふわとした軽い触感をわずかに感じることができた。一方で、暖かいとか、冷たいといった温度感覚は一切感じられなかった。

 「透明」という言葉が脳裏に浮かぶ。

 触れることができる以上、そこには実体があるはずだ。だが、どんなに目をこらして見ても視覚だけでは感知することができない。だからそこには「肉眼では見ることのできない透明な何か」が存在するとしか考えられないのである。

 私は腕を組み、頭をひねって考え込んだ。

 一部に透明な部分をもつ謎の物体がそこに存在する。そしてまた別の領域に不透明化している部位があり、そこにはおそらく動物細胞から構成される組織が存在している。さらに、不透明化した部位の組織の一部には、白いうぶ毛状の真菌が繁殖する部位が認められる。これらの事実を総合すると、謎の物体は何らかの生物で、我々と同じように細胞から構成された体を持っていることになる。不透明化していて目で見える部位は、真菌が感染・増殖している病変部位であり、仮に、透明な部位の方を「正常な部分」として捉えると、少しは納得がいく。だが、こんな変な話をすぐには誰も受け入れてはくれないだろう。この物体が生物であることを証明するためにはもっと多くの証拠が必要だ。根拠となる計測データは従来の方法に加えて、より多角的な方法を用いて集めた方がいいだろう。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る