狐花
藤村時雨
1話 怪異の前の静けさ
今日も東虹橋市に夜の帳が下りる。
派手なネオンの色彩が贅沢に乱反射をして液晶画面をジャックする。人々の喧騒が混じる大通りはすっかり夜景に魅入られていた。
擦れ違う自動車の走行音。薄暗い街灯に照らされる街路樹。
気怠そうになる小夜の香り。
普段の世界を反転させたような裏側の光景に誘われて、慣れてしまった大人達が羽目を外す場所。快楽と欺瞞が交錯する、混沌が蔓延る場所だ。
足を踏み入れてはいけない。
群衆の歪んだ叫喚が現世に放たれたとき。
肩掛けの竹刀袋を背負い、白いイヤホンを着けたメガネの男子高校生、宮代蓮は二人の警官に絶賛補導されていた。
「……東虹橋市在住の虹橋高等学校一年生。宮代蓮くん、だね?」
警官の発する言葉を横切るクラクション。
生徒手帳は懐中電灯の淡い光に照らされていた。死んだ魚のような目をした少年の写真が補導も相まって薄気味悪さをより助長させる。
蓮の不注意だった。
まさか、こんなタイミングで自身の醜態を赤の他人に晒すとは。
警官に補導された高校生。当然群衆の冷ややかな視線が集まる。しかも物珍しさに窺う猟奇的な視線だ。怖いもの見たさに形のない噂を垂れ流す野次馬。
正直目障りだ。虫酸が走る。
そんな義憤の衝動を抑え込み、一旦ここは冷静に、あまり聞き取れなかった警官の言葉に蓮は適当に頷くことにした。
補導される見覚えはないけれど。
どうやら今日は特別運が無かったということか。
なんて気紛れ程度の現実逃避をしていると、何事も無かったかのように生徒手帳が手元に返ってきたではないか。
(補導される意味……。今までの時間はなんだったんだろう)
中途半端な拍子抜け。迸る無駄な緊張に肝を冷やす。勝手に呆然とした男子高校生の様子を余所に柔軟な対応を示す警官の方は至って真面目で、申し訳なさそうに詫びる姿勢が逆に罪悪感に苛まれてしまいそうだ。
内心謝る始末。皮肉にも余計なお世話が誰も幸せにならない結果に。
「いやー、呼び止めてゴメンね。本来は深夜徘徊の補導対象外なんだけど、最近東虹橋市で物騒な事件が多いでしょ?」
個人的なイメージになるが、二十代後半の警官が弱そうに見えてしまう。相対的に外見が隆々の四十代警官を比べてしまうとやはり迫力に欠ける。
「……まあ、よく耳にしている方だとは思いますけど」
置かれている現状を察して、態度を改める蓮は理解した上で口を濁す。
気分が悪くなる。あまりにも胸糞悪い話題だ。他人事のように話す部外者の空論はとうに聞き飽きていた。
そこにあった日常風景がある日を境に殺伐とした焦土に変わる。
戯言で台無しにされる。第三者の分際で自分だけは分かりきったような態度が鼻に付くばかりだ。倫理の欠如じゃない、モラルの思考が足りないだけ。
生きる証明の為に。
彼等は恐怖という名の刺激に依存しているだけだ。
物騒な話題がトレンドになる末の世。
憂うことも致し方ない。警察署による街頭活動の強化が顕著になる。犯罪抑止に向けた総合対策に蓮は素直に感心するものの、
謎は拭えない。
「……要するに、未成年による犯罪傾向が事件の頻発に繋がっている、と」
左腕に着けた腕時計が指し示す数字の意味。
針は午後8時を過ぎていた。だがしかし、補導になる対象時間とは少々異なる。
正確な深夜徘徊の補導対象時間帯。
つまり午後11時だ。
救いようのない素行不良低能野郎は別として。
一般的な学生の間にはご時世の都合で門限が決められていることが多い。なのになぜ警官が深夜徘徊の対象時間外で街頭活動及び補導を兼ねているのか。
理由は『俗』でしかない。
「……野郎学生を補導する以前に、不純異性行為未成年売春女共を補導した方が、多少は虹橋市がクリーンな都市になるんじゃないんですかね」
快楽と欺瞞の証拠を指差し、他人を見下す冷淡な目付きに変わる。
待ち合わせにピッタリな広場。信号待ちの人々に紛れ込む日常の異端。
それは成人に満たない女子高生だった。一見スマホの画面をスワイプしたり覗いているように見えるが、実際は人生という時間を潰しており、欲求不満を満たしてくれる都合の良い王子様を探しているだけなのだ。
要するに援交活動。
泥に浸かる途端。沼に嵌まる途端。
金銭感覚は狂い、肉の刺激に溺れ、砕けた心は二度と治らない。
残念なことに彼女達を出迎えてくれるのは都合の良い王子様ではなく、そもそも都合の良い王子様なんて所詮は現実逃避の絵空事であり、獲物に群がるのは油汗の浮いた小太りの俗漫画に出てきそうな猛獣だけだ。もはや混沌を極めている。
ある意味では病気の一種なのかもしれない。
裏顔満載の欲望に満ちた、法を掻い潜ろうとする禁断の男女関係。
虚勢を張る化粧。中途半端に大人びた服装。
オシャレに扮しているつもりなのだろうが、詰めが甘過ぎる。校則が学生を守る限り、在校生が黒髪を染めることはほぼ不可能だ。
社会問題は加速するように。
にわかに信じがたいが、待ち合わせをしている女子高生は一人だけではない。
「待ち合わせをする黒髪の女性。あれ、全員ホシですよ」
「マジか!?」
目の色を変え血相を変える警官。肩にある無線で増援を要請しているようだ。
この後現場が修羅になる。大量の検挙の始まり。その刺激的な光景を蓮は眺めることは出来ないが、せめて記憶に収めようとガラケーで写真を撮る。
日常の中に蠢く下半身事情の三文芝居を見れて。
「風情があってウケるな」
気怠そうに呟く蓮は終始呆れていた。
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