第15話



 水が清く澄んでいた。


 

 夏の日差しを全身に浴びながら息を切らせて一目散に走る。


 木漏れ日のトンネルを抜け、森の奥にある秘密の場所へ。


 生い茂った木々の枝がポッカリと開いて覗く青い空。


 少女と共に歓声を上げて靴を脱ぐのももどかしく走り込んだのは、


 森の奥、岩場に湧き出る小さな泉。


 水の跳ねる音と辺りに漂う涼やかな森の息吹。


 足元に感じる冷たい水の感触とその堪らない心地よさ。


 そして――


 顔にかかった水しぶき越しに見た少女のこぼれるような笑顔。


 魅力的な鳶色の瞳がきらきらと輝いて、


 流れるような黒髪が水面を渡る風にそよぐ。


 鳥たちのさえずりと蝉の声。


 木々の枝の間から見上げた夏の青空の下、


 真っ白なワンピースの裾が水面の風を孕んで風に踊る。


 水が、


 水が清く澄んでいた。



 と――

 男は目の前に空中投影された電子書類から、おもむろに、たっぷりと時間をかけて顔を上げた。

 シャンパンの泡がグラスの中で弾け、目の前にはフルコースの前菜が並んでいた。

 糊の効いた真っ白なテーブルクロスと頭上に輝くシャンデリア。

 染み一つなく、たっぷりとくるぶしまで羽毛の立った真紅の絨毯が一面に引かれた豪華な会議室。

 居並んだ雑多な顔の連中の胸に燦然と輝く勲章。この国では限られた者しか着ることの出来ない高級スーツと明らかに兵隊たちの物とは使用されている生地からして異なる上質な仕立ての軍服。

 皆が、男の言葉を待っていた。

 男は、さらに数十秒、たっぷりと時間をかけて一同の顔を見回した。

 表情を務めて消そうとする者。

「分かっておりますとも、同志」とでも言いたげな、さも親密そうな表情を浮かべる者。

 そして、党のプロパガンダ動画に出て来る模範的プロレタリアートそこのけの綱領に忠実な党員を演じようとする者。

 男は、まったく表情を崩すことなく、胸の中で嘲笑を浮かべた。

 ここは、まるで舞台だ。

 党の書いた、否、男と男の書いた台本に合わせて道化を演じる愚か者たち。

 その互いの命を懸けた大舞台。

 だが、この舞台にはハッピーエンドも無ければ、輝くような舞踏会も美しい姫も白馬に乗った王子も出てはこない。

 演じられる演目の結末は、伝統的なオペラの結末がそうであるように最初から分かっている。

 ただ一つ分からないのは、誰がどの役を演ずるのか。

 否――

 誰が、ババ・・を引くか。

 そう、



 誰が悪役としてこの舞台から引きずり降ろされるのか、いう事だけなのだ。



 粛清か失脚か。

 どちらにしても、党内での『死』は確実である。

 とは言え――

 誰を下ろすか決めるのは、男自身。

 何も知らないのは、男以外の道化たちだけに過ぎない。

 演目の本当の結末を決めるのもいつだって男自身なのである。

 男の脳裏で冷徹な計算が、すでに自身に対して何度も繰り返したその問いへの解を無意識の内に繰り返していた。

 そんな男の醒め切った視線が、

 深い猜疑と人知れない思惑に満ち満ちたその目の光が、

 目の前の連中の胸の奥をえぐるかのように降り注いでいる。

 ひりつくような極寒の沈黙。

 じりじりと足元を火で炙られるかのように目の前の道化たちを冷たい焦燥が苛んでいるのが、男には手に取る様に分かった。

 表情を消そうと努める者も、

 親しさを装う者も、

 模範的プロレタリアートを演じようとする者も、

 その背中は、その表情は、その瞳の奥は空虚だ。

 否、

 ただ一つだけ。

 ただ一つだけ、そこにはある。

 そこにあるのは、たった一つの感情。

 そう。

 それは、『恐怖』。

 男に対する『恐怖』。

 次の瞬間に自身の運命が大きく変わってしまうかもしれない、否、男の胸先三寸で変えられてしまうかもしれない『恐怖』。

 この国の最高指導者である男への、書記長である男への『恐怖』だった。

 さらに数十秒、沈黙と言う名の暴力を十分に堪能してから、男は、ゆっくりと口を開いた。


「私は、同志ナカムラ委員長の意見に賛成する」


 一同の口から声にならないため息が漏れたのが分かった。

 安堵か。

 失意か。

 それとも――

 頭上のシャンデリアの明かりが、左右に居並んだ道化たちをスポットライトのように煌々と照らしている。

 張り詰めた沈黙が支配する室内を見回して男は言葉を続ける。

 窓の外に浮かぶ鈍色の空と吹きすさぶ雪。

 男は、重々しく言葉を綴りつつ、瞼に浮かぶ少女の事を再び想った。

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