第8話

 この建物が革命前、何に使われていたのか定かではないが、もったいない物だとソコロフは思う。

 豪奢な造りの分厚い扉を通って招き入れられた広い部屋。

 第一七七民生委員会委員長執務室。

 ソコロフは、軍人らしい直立不動の姿勢を保ちつつも、そっと、周囲に視線を巡らせる。

 高い天井とその扉同様に磨き込まれ、鈍い光を放つ木製の壁板。

 足元の赤いじゅうたんは染み一つ無く、設置された照明や空調設備でさえもこの部屋を構成する重要な構成要因として一部の隙も無くデザインされ配置されている。

 この部屋を含めて全てが心地よく調和したこの建物は、党工業局お抱えの工業デザイナー連中には、死んでも思い付けないであろう二十世紀アール・デコ調建造物の傑作だった。

 招き入れてくれた参謀少佐が、冗談みたいに大きなマホガニーの机の向こうに座るひどく小柄な女性にそっと耳打ちする。

 因みに、金色に輝く参謀飾緒さんぼうしょくしょを付けた件の少佐は、若い女性だった。

 階級から考えて、十代や二十代前半という事はあり得ないのだが、そう思われても不思議ではないほどに幼げなその相貌。上級民族の女性には珍しい愛嬌のある大きな丸い瞳に穏やかな口元と頭の後ろで纏めた艶のある清楚な黒髪。もっとも、愛想も何にも無い冷たい表情とソコロフを見る際の醒め切った視線から彼女が紛れもなく上級民族の出身であるとすぐに分かるのだが。

 副官であり、秘書でもある参謀少佐の耳打ちから数分後。

 委員長は、ゆっくりと空間投影された電子書類から顔を上げた。


「こうして会うのは初めてですね、同志中尉」


 ソコロフは、踵を鳴らして姿勢を正し、最上級の敬礼で応えてみせる。

 丸みを帯びて短く整えられた白髪に上品な顔立ちと穏やかな所作。

 だが、それはあくまでこの人物の上辺うわべに過ぎない。

 その穏やかな相貌からは想像も付かない数多の血塗られた権力闘争を勝ち抜き、地下世界における国家人民軍の持つ権益の全て、その権力の全てをその手中に収めた人物こそが目の前の人物。

 そう、それこそが、




 国家人民軍第一七七民生委員会委員長 ユリコ・ナカムラ上級中将




 国家人民軍における数少ない劣等民族出身の将官である。

 目尻に柔らかな笑みを称えつつ、委員長は掛けていた丸縁メガネを外すと、布で丁寧に拭いながら世間話でもしているかのような長閑のどかさで、ゆったりと続けた。


「困ったことになった物です。量子転送兵器は、わが軍の極めて重要な兵器であると同時に国家や党、ひいては人民の貴重な財産です。これが反国家分子の手に渡るという事がどういうことを意味するか……分かりますね、同志中尉? これは、由々しき事態であると同時に――」



 ――国家の存亡に係わる事態なのです。



 静まり返った部屋の中を委員長の柔らかな声だけが、殷殷と響いていた。

 彼女は、ソコロフの返事を待っているのかいないのか、メガネを拭きつつ落ち着き払った口調で話を続ける。


「わが委員会の長年の努力は、日々着々と実を結びつつあります。先日の同志少佐を含めて多くの犠牲を払いながら、それでも、私たちは少しずつ、確実に前進して来ました。……ですが、五年前の大攻勢の影響は、やはり隠し切れません。同志中尉、あなたも第六八三民生委員会の参謀として従軍していたのですから知っている筈です」


 そう――


「『聖少女』――」


 大攻勢中盤での彼女の出現。

 いいえ――


「現『聖少女』への代替わりからでした」


 メガネを拭く手がピタリと止まり、不自然なまでに整えられた短い白髪の下から、その優し気な風貌をかなぐり捨てるかのように、彼女は鋭く光る眼をソコロフに向けてはっきりと、聞こえる声で呟いた。


「――我々が劣勢に立たされたのは」


 そして――


「その『聖少女』を追い続けていたのが、第六八三民生委員会であり、あなたの専従班でしたね?」


 同志中尉――


「我々は、当時確保していた五十一階層から遂に四十一階層にまで後退しました。もはや、なりふり構っていられる状況ではありません。オルタナティブ・エリア32の攻略を待っていたのでは、もう、間に合わないのです!」


 ――同志少佐っ!

 委員長の声に合わせて副官が、手元の操作キーをタップすると一枚の命令書が目の前に空間投影される。

 メガネを机の上に投げ出して委員長が叫ぶように言った。



 ――――命令っ!

 


「同志ミハイル・ゲオルギエヴィッチ・ソコロフ中尉は、可及的速やかにオルタナティブ・エリア32へ侵入し反国家分子及びその主たる構成員である劣等民族の精神的指導者『聖少女』を殺害せよ!」


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