第51話 受胎
娘はまだ年端も行かない女だった。まだ顔も丸く、肌も艶やかだ。だが実にうつろな目をしていて、恋に現を抜かす年頃の娘には到底見えない。小さな体を引き裂かんばかりに膨れ上がった腹を抱えながら、それを隠すように布団を胸までしっかりとかけていた。
病室に入る折、ちらりと見たネームプレートには砂霧という名前が書かれていた。あの由良島のことだ、どうせこの娘の名前すら知らずに孕ませたのだろう。そう考えると、怒りが込み上げてきた。
印波は自治会長の隣に座り、ベッドの横で対面した。砂霧は印波の顔を見つめると、静かに呟いた。
「あなた誰?」
「僕は印波湘洋というものです。少しお聞きしたいことがありまして」
そうは言ったものの、なかなか切り出すことが出来なかった。なにせかなりセンシティブな質問だ。どう切り出していいか分からなかった。
印波はそれでも勇気を振り絞り、重い口を開いた。
「由良島天元という名前を聞いたことがありますか」
「いいえ、知らないわ」
「そうですか」
この村に訪れたのが本当に由良島だったとしても偽名を使うだろう。由良島という名前はただでさえ有名なのだ。姿を変える度に名前も変えるはずだ。
「なら質問を変えます。あなたはその、お腹の中の子供も父親を愛していますか」
あまりに突っ込んだ質問をしたため、隣にいた自治会長が驚いた顔をした。恐らくそれは誰も聞かなったことなのだろう。自治会長もばつが悪そうに、咳払いをすると、「印波君……」と言って、その場を鎮めようとした。
しかし砂霧は思いもよらぬ返答をするのだった。
「愛してはいません」
この返答には自治会長もさぞ驚嘆したことだろう。その場が凍り付き、自治会長は勢いよく立ち上がった。
「それなら、なぜ産むんだ。中絶は別に犯罪ではないんだぞ!!」
あまりに大きな声を出したため、廊下を歩いていた看護婦が病室を覗き込むほどだった。だが印波はこの言葉を聞いて、少し納得した。やはりこの女は何をか知っている。出産を断行する理由が他にあるのだ。
印波は落ち着いた声でその真意を聞いた。
「復讐ですか、それとも希望ですか」
うつろで光が無かった砂霧の目に光沢が現れる。目が見開き、印波を凝視した。
「恐らく僕が先ほど言った由良島という男と、君が一夜を共にした男は同一人物のようです。僕はその男の暴走を止めに来ました」
すると砂霧は自治会長に席を外すように言った。禅問答のような会話に戸惑いつつも、自治会長は病室から出て行く。
二人きりになったことを確認すると、砂霧は由良島のことを語り始めた。
「あの男には何かがある、そう確信したわ。まるで人を人だと思っていない。女を道具のように扱い、男の踏み台のように扱い、そして全人類を家畜だと思っている」
「だからその子供に未来を、希望を託そうとしたのですね」
「ええ、これは復讐よ。あの男が残していった遺産がきっとあの男を苦しめる」
「僕たちに出来ることはそんな希望を持つことしかできない。もしあなたが良ければその希望の一端を僕にも担わせてほしい」
その数か月後、東北の大型病院で彦根桐吾は誕生した。彦根砂霧の息子、そして由良島天元の息子として。
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