第40話 ウォズニアック

 古くから天才の陰にはそれを支えた人物がいたとされている。ホームズの隣にワトソンがいるように、バッドマンの隣にはロビンが居るように、ヒトラーの隣にはゲッペルスがいたように、そしてジョブズにはウォズニアックがいたように、天才やヒーローは一人では戦えない。その脇で支える影の立役者は必ずいる。

 大抵、そのような人物にはスポットが当たることなく、歴史の狭間に押しつぶされてしまうが、この者が天才にとってはいかほどの重要な存在かは知る人ぞ知るのだ。


 彦根はストリップ劇場で出会った老人、印波湘洋に誘われ、向かいのバーに入った。大きなカウンターがあり、寡黙なマスターの背後には数百種類の酒がずらりと並べられていた。

 印波はダイキリを頼むと、彦根にも何か頼むように目で合図した。彦根はあまり乗り気ではなかったが、渋々ギムレットを頼んだ。


「こちらギムレットです」


「ありがとう」


 出てきたカクテルグラスの端に舌を付け、ジンの香りを舐めるように楽しんだ。


「ここで提供されるものは人工オートミールではない。本物の酒だ」


「まだこのような資源があったなんて驚きです」


「環境が崩壊しても、人の技術も共に廃れてるわけではない。考古学や文学や芸術のように食や酒も過去を保管したまま我々を楽しませるのだ」


「ええ、そのようですね」


 この者が何かを知っているのではないだろうか。印波がAR革命の革命児であることは事実だ。ならあの一連のゴーストの関わる事件、恵奈が掲示した渾沌という組織のマスターを名乗る男について何か知っているのではないだろか。

 彦根は残りのギムレットを飲み干した。空のカクテルグラスを奥にスライドさせ、背筋を伸ばした。


「あなたは印波博士ですよね。AR技術の実用化を発表した後、失踪した。あなたは約百年の間、ずっとここに居たんですか」


「何のことかな」


「惚けないでください。百年間を鮮明に思い出すと仰っていたではないですか」


「確かに僕は由良島と研究を進めた、そして奴の片棒を担いだ。だがAR革命の先任者として挙げられるのは僕ではない、天才科学者由良島天元だけだ。僕の名前は歴史には残らない」


「あなたが由良島にも及ぶ天才であることは周知の事実です」


「私は名前をAR革命を起こした印波と呼ばれるわけにはいかないのだ。それは残らない影の過去であるから、君も私のことは一人の老人として呼ぶんだ」


「分かりました印波博士、では私も一人の科学者としてのあなたに質問したい」


 印波は何も言わずに、ただダイキリに口を付け、正面向いたまま、何かを考えているようだった。


「あなたは今回の事件について何か知っている、違いますか」


 すると印波はその言葉を遮るように、手のひらを差し出した。


「その話をするには時期尚早だ」


「では知ってはいるのですね」


 すると印波はダイキリのお代わりを貰い、それから一言も喋らなかった。この男はやはり何を掴んでいる。だがここでしつこく聞きだすのは得策ではない。彦根はマティーニを頼むと、カウンターに肘をつき、口の前で手を組んだまま黙っていた。

 他に客はいないバーは時間が止まったように、静かだった。

 

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