待つ

西野ゆう

第1話 待つ人々

 我が家の時計は、十一時二分で止まっている。動かぬ時計と亡き義父母の写真を横目に、私は汽車の音を聞き、身体を起こして港へと向かう。

 だが、今日は船すらも来ない。日没の近づいた港からは、沖島へと大きく鳴きながら帰るカラスの群れと反対に、家路へと向かう人の波は、声を上げる者もなく一様に沈んだ顔をしている。

 もう終戦から二年が過ぎた。やっとこの地に人が降り立ち始めたのが半年と少し前。だが、私が待つ人物は未だ姿を見せていない。

杏璃あんりちゃん、今日は飯どうするかね? うちで食べてくかい?」

 一人の老婆に話しかけられた。

「ウメさん、今日はこのまま帰ります。ちょっと疲れたし」

「そうかい? 気を落とさずにまた明日……」

 老婆はそう残して港を後にした。私はただ同じ間隔で岸壁に打ちつけられる波を眺め、遠く大陸に残された夫を思っていた。

 私達は安息の地を求め、共に大陸へと渡った。軍の動きでそれとなく戦局が思わしくないことは知れていた。食料も満足に得られず、軍人ばかりか、若い男は次々に戦場へと旅立ち、そして帰ってこなかった。

 私の夫もその例外ではなかった。戦死公報こそ来ないまま終戦の時を迎えたが、一向に戦地から戻る気配はなく、夫を置いて他の多くの者と共に帰国せざるを得なかった。

 そして未だ何の便りもないままに、私はこうして彼方からやってきた波を見つめている。

「龍一さん……」

 打ち寄せる波と引き波とがぶつかって海面に描かれる白い線に、夫の顔を思い描く。私は夫が生きて帰ってくると信じられているだろうか。

 水面に描いた顔がどろりと溶ける。いつの間にか東の空から真円の赤い月が顔を出していた。沖島で羽を休める無数のカラスたちが、木々の上で時折羽ばたいているシルエットが見える。思わず見入ったその光景の不吉さに、私は両手で顔を覆った。

 私は月明かりに伸びる自分の影を追い抜く勢いで、待つ者がいない家へと歩みを進めた。

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