Sanaghi

第1話

 ぱつん、ととても小さな何かが私のうなじを打った時、私は息を潜めて地面をじっと見つめていた。風がそよいで雑木林が揺れたかと思うと、その揺れはだんだんと大きくなって、ざぁ、と雨が降り出した。それに驚いて鳥が飛び立ったかと思うと、さらに上空の飛行機が、鳴き声をかき消すほどの凄まじい音を立てて飛行する。だから私はその時。飛行機がその両翼をぐんと伸ばして雨雲を引っ張っているのだと思った。


 かくれんぼで隠れている私を見つけたのは、鬼の子じゃなくて、犬だった。私の背丈よりも大きい、その身体で、私に覆い被さるようにして甘えてくる。公園で何度か会ったことがある、白い犬。名前はわからない。首からリードがだらしなく伸びている。彼の脇を抜けて体を起こす。きっと、また、あの飼い主のお姉さんから逃げ出したんだ、と思った。それはしばしばあることで、きまってすこし遅れて、お姉さんが「ごめんねー」と現れる。けれども、辺りを見渡せば、近くに誰かがいるとは考えられなかった。


「史花ちゃん。私のこと忘れちゃったみたい。一緒にかくれんぼで遊んでいたのにね——ねぇ、ワンちゃんもそうなの?」


 雨が降り出していることや、飼い主から離れてしまったことなんかを、ひとつも理解していないんだろう。私がもう一度、「ねぇ」と声をかけてみても、彼は能天気に広角を上げて、へっへっへ、と首を揺らして息をしている。雨がだんだんと強くなっていくのを感じて、私は犬のリードを握り、雑木林の中を通って公園広場まで向かい、その奥にある一番大きな木の下まで歩いた。友達みんなで輪になっても囲うことができないほど立派な幹から、無数の枝葉が伸びている。その木の幹の周りだけが土が乾いていた。犬がふるふると体を振り動かして、その地面に染みを作る。寒いのか、犬は私のそばに寄り添ってきた。獣っぽい臭いが鼻の奥をつく。少しだけあたたかい。その時はじめて、つめたくなっているのは私の方だと気づいた。


 代々木通りを抜けて原宿へと向かう途中、ふと、そんな古い記憶を思い出した。十二年も前の話だ。あれから、どうやって家に帰ったんだっけ。気づけば白い犬は私のもとから離れ、史花とも、ほかの友達とも会えず終いになっていた。


 私はカメラバッグを肩にかけ直して歩き出す。明治神宮前駅から表参道までいっぱいに溢れている人と人の間を縫うようにして私は進んで、大通りから一本外れた、波打つように伸びる細い通りに入る。旧渋谷川遊歩道、キャットストリート。古着屋が並ぶこの通りのY字路を右に曲がってすぐにある小さなカフェ。史花には何年も会っていなかったけれど、その店を待ち合わせにするのは、どこか彼女らしい選択だと思った。店先の花壇にはヤマブキが咲いている。店の入り口よりも高い天井が広がっていて、節電のためか、吊るされている明かりのいくつかは暗いままだった。スタッフに訊ねると、一番奥の方の席に通された。


「わぁ、久しぶり!」と彼女は私にふわっと抱きついて、ぐらぐらと身体を揺さぶる。柑橘系の香水の匂いがした。史花は私と同じ高校を卒業した後、服飾系の専門学校へと進学してからつい最近まで、連絡はパッタリと途絶えてしまっていた。彼女は最後に会った時にくらべてずっと大人びて見えたけれど、チャームポイントの丸い眼鏡だけはずっと変わっていなかった。


「久しぶり、史花ちゃん。連絡を見てびっくりしたよ。いったい今までどこにいたの?」

「二週間くらい前に帰国したばかりで。ねぇ、折角だから何か頼んでよ」

「帰国?」と、私は思わず眉をひそめた。

「ラオスにいたの。とある民族の取材で。本当はちゃんと連絡をするつもりだったんだけれど。信じられる? そこ、インターネットが通じないのよ」


 渡されたメニューを開くと期間限定らしい、バナナジュースとパンケーキが目に留まる。「タピオカってないの?」とあきは私に訊ねるから「もう。古いよ」と答えると、彼女は都合の悪そうな顔を浮かべた。「青春の味だったんだけれど」彼女はその代わりにアールグレイとケーキを注文した。ウェイトレスが私たちの注文をキッチンに伝えに行ったのを見送ると、史花は先程の話の続きを始めた。


「進学して、三年生になった時かな。海外の民族衣装に興味を持ってね。その中でもハク族という人たちのところで研究というか、勉強のようなことをさせてもらったの」

 それは、ある共通文化を持った民族の総称であり、ベトナム、ラオス、タイ、中国などの東南アジア諸国に点在しているらしい。説明しながら史花は、紙ナフキンにボールペンで文字を書いた。中国では「白」に「巾」と書いて「ハク」と表記されている。その漢字を見て、私はピンときた。


「この漢字、シルクって意味でしょ?」

「そう、帛族の人々はシルク——正確には絹絣を用いて服を作るの。こんな風にね」

 そう言って彼女はテーブル下のキャリーバッグから何着か服を出して、テーブルの上に広げた。茶色、藍色、白——洋服そのもののデザインに派手さは無い、しかし絹特有の光沢と、縦糸と横糸の染め方によって浮かび上がる文様と折り方に驚いた。幾何学的模様から、鳥や猿などの動物をあしらったものまで、服に描かれたデザインは多岐にわたる。


「緻密だ。これ経糸と緯糸は違う糸を使っているの?」

「うん、ただ、それだけじゃないよ。経糸と経糸でも、違う素材が使われているの。同じ染料を使っているけれど、わずかにムラがあるの、わかる?」


 史花が指さしたところを確認してみたが、ほとんどわからなかった。「まぁ、私もはじめの頃は全然、見えなかったんだけれどね」と彼女は苦笑いを浮かべる。


「つまり、絹だけではなく、他の繊維も混ぜて織っているのね?」

「そう、だけれど帛族にとって重要なのはそこではなくて——」


 史花が言いかけたところで、気まずそうな顔をしてウェイトレスが現れた。彼女の持つプレートでは、注文した料理が私たちを待っていたが、テーブルは帛族の民族衣装が広がっていた。私たちはそれをいそいそと畳んで、カバンに詰め込んだ。


「とりあえず、私はその民族衣装の写真を撮れば良いのね——でも、私じゃなくてもっと良いカメラマンが居たんじゃない?」

「たかが卒業研究に、プロのカメラマンを用意することはできないよ」彼女は笑いながらそう答えた。「それに、お金にそれほど余裕があるわけじゃないし。メッセージでやりとりしたように長期間、付き合ってくれる人じゃないとダメだから」


 史花はケーキを口に入れて満足そうな笑みを浮かべたあと「美味しいよ。一口いる?」と訊ねた。私は首を振る。しばらく会っていなかったが、彼女の外見は変わってはいなかったものの、心の距離はずっと遠くへ行ってしまったような気がして、寂しさを覚えた。彼女は自分の知らない世界の奥の方へと、どんどんと進んでいっている。私だけが地元にぐずぐずと足を取られているような気分だ。後ろめたさのせいだろうか、パンケーキはやけに甘ったるく感じて、どうも胸焼けがする。


 お鈴の、きぃんと鳴る音が頭の中を駆け巡る。生まれ育った2DKのアパートの、西のまだ薄暗い和室で、母は仏壇の前に座って手を合わせていた。三人で住むにはきっと狭い。子供が大きくなったら、郊外のもうすこし広い部屋を買うか借りるかしよう、という話をしていたのだろう。私が幼い頃に父が亡くなってから、その機会は永久に失われてしまった。私に遺されたのは、数着の洋服、カメラ、生前の父が好んで読んでいた——それはもはや蒐集していた、と言っても過言ではないほどに大量の——古い小説と古い技術書だけ。そんな父の部屋は、そのまま母の部屋になっている。


「出かけるの? こんな朝から」

「今日から撮影なの。夕食は食べてから帰るから用意しなくていいからね」

「そう、がんばってね。今日はなんだか肌寒いから、これ、首に巻いていきなさいよ」


 そう言って母は私の首に青色のストールを巻いた。彼女は私に対して、いつもお節介に感じるくらい、私のことを気に掛けている。かえって私はどれだけ彼女の期待に応えることができているだろうか。アパート一階のエントランスで史花が待っていて、近くのコインパーキングまで私を案内した。古い年式の、クリーム色のスズキ・アルトラパンが彼女のマイカーだった。後部座席に私の撮影機具を積む。


「かわいいでしょ。この車」

「普段から乗ってるの?」

「実家とは別に、作業場を借りているの。そこを往復するために車のほうが楽だから」


 小一時間ほど走って八王子の小さな一軒家の前で車は止まった。史花に案内されて部屋の奥に進むと、そこには部屋の半分を埋めてしまうほど巨大な織り機が鎮座している。日本の文化を紹介するテレビ番組の中でしか見ないような光景が、すぐ目の前で広がっている。彼女は得意げに「安く売ってもらったの」と織り機を撫でた。部屋のカーテンが閉じていて、やや薄暗いせいで、しっかりと確認をしたわけではないが、木材は節から黒く変色していて、かなり年季が入っているように見えた。


 彼女は織り機の前に座ると、黙々と作業を開始した。慣れた手つきだった。ヤマ、と呼ばれる整列した経糸と経糸の間を、緯糸が滑り込む。足元のペダルを踏むと、織り機は口を閉じるように、ガクンと動く。彼女は巨大な櫛のようなものを操って形を整えていく。古いコピー機のように、すこしずつ、茜色の模様が浮かび上がっていく。


「ぼぅっとしてないで、ちゃんと写真、撮ってね」


 彼女に促されるまま、私は作業の様子を画角に収める。

 カメラからギギ、と調子の悪そうな音がした。

「帛族の人たちの居る地域は——」彼女は織り機と向かいあったまま、話を始めた。「——裁製が盛んでね。っていうのも彼らにとって服に織られた文様は、その人の『家』を示すものとされているんだって。『彼らは、古くに恐るべき侵略者たちから村を守った、勇気の一家である』とか、『多くの困っている人を導いた者の末裔』みたいないくつもの伝説やテクストが服に織り込まれている。彼らは自分の持っている服から自分たちの歴史を知ることになるの」


 彼らにとってテクスト(文書)とテクスタイル(織物)は同じ言葉で表現される、と史花は付け加えた。ラテン語もまたテクストの語源は「言葉による織物」という意味でテクスタイルと呼ばれている。きっと単なる偶然ではないんだろう、と私は考えた。


「それとはもう一つ、帛族の服作りには仕掛けがほどこされているの。彼らは自分たちの服の偽装を嫌った。それは歴史の改竄にあたるわけだからね」


 そう話すと彼女は私を織り機の前に座らせた。それから、窓のそばに立ってカーテンを上げる。陽の光が布に落ちる。糸は反射してきらきらと輝いている。「ピンとこない? もっと近づいて角度を変えて観察してみるとわかりやすいかも」そんなヒントを受けて、ようやく私は、同じ色で染められている糸の中にも、光を反射しているものと、していないものがあることに気づいた。糸そのものの材質が違うのだ。


「一種の『バーコード』になっているの。光沢を持つ生糸が0、それ以外は1、という風に。すごいよね。バーコードが発明されるずっと前から、帛族は同じシステムを築いていたの。今、こうして糸を整列させているから、辛うじて私たちも判別することができるけれど、織られた服からコードを読み解くできる人はほとんどいない」

「そこまで凝って、いったいなんのために?」ひどく凝ったつくりに、私は訊かずにはいられなかった。返ってきた答えはひどくシンプルだった。彼女は笑う。

「親から子のためだよ」


 そんな調子で、史花の衣装作りの資料制作の手伝いをしていたある日、数枚、実際に衣装を着た写真を撮りたいとメッセージが届いた。表参道やキャットストリートの通りは都会の街並みを生かすことができるフォトスポットとして有名だったが、その答えに彼女は満足いかなかったようだ。洋服に対して背景が派手すぎるし、ストリートっぽさは求めていないようだ。それからしばらく考えて代々木公園の広場にしようと決めた。あそこならば撮る場所が無い、ということはないと思った。やや曇っていたが、あとから修正できるからそこまで問題ではなかった。テレビで天気予報を確認すると、降水確率は四〇パーセントと表示されている。降るのか降らないのか曖昧な数字だ。「折り畳み傘を持っておくといいかもしれません」とアナウンサーはどことなく案じるような調子で告げる。


「お母さん、家の折りたたみ傘ってどこに置いていたっけ」

 玄関そばの傘立てには長傘と日傘、それから大学のサークルに所属していた時に作成したポスターが丸くなって刺さっている。けれども折り畳み傘はそこになかった。そもそも、そんなものが家にあるのか無いのかさえ不確かだった。


「さぁ——捨てたってことはないと思うけれど。いや、ちょっと待っててね」

 そういうと母は自室から飾り気の全く無い、黒い傘を差し出した。

「これ、お父さんが使ってたやつ。デザインはまったく可愛くないけれど、ほとんど新品のようなものだから。せっかくだから使って」

「ありがとう。でも、いいの?」


 私の問いかけに母は、不思議そうな顔をした。父が私たちに遺してくれたものはそこまで多くはない。スカーフはほつれ、本は日焼けして、色は褪せ、カメラはだんだんと具合が悪くなっていく。それは時間と私が、父が居た証をすこしづつすり減らしているような気がした。だから、ちょうどこの傘を借りるように、父が遺しているものに手を触れることさえ億劫になっていく。

 代々木公園に来るのはずいぶんと久しぶりのことだった。身近すぎて、かえって行く機会に恵まれなかった。それは史花も同じようで、待ち合わせ場所で合流するなり「懐かしいね」と言って笑った。平日の昼間だから、他にひとはほとんどいない。本当に小さな子供が母親の手を引っ張って、蝶々を追いかけている。原宿門からパノラマ広場を左に曲がって五分ほど歩くと、鳥のような奇妙な石像が現れる。史花はそれを指差し懐かしむ。


「あ、ここだよ。かくれんぼしたのは。これを目印にして『もういいかい』『もういいよ』って、でも史花ちゃん、声が聞こえなくなるまで遠くに行っちゃいけない、ってルールを無視して遠くまで行っちゃって——一回だけ、とんでもなく大騒ぎになったよね」

「覚えてるの?」


 思いがけない話が彼女の口から飛び出して、思わず大きな声を出す。彼女は私にすこしたじろいでから、ひとつひとつ確かめるように話を続けた。


「雨の日のことでしょう? 大人の人とみんなで傘をさして探したけれど、ぜんぜん現れなくて。日が暮れそうになって『警察に連絡したほうがいいんじゃないか』って話をしたときに、ふらっと戻ってきたんだよ。あの時、いったいどこにいたの?」

「たしか——雑木林を抜けて、大木のところで雨宿りをしていた気がする」


 言いながら、本当にそうだっただろうか。という疑問が浮かぶ。史花もあまり納得がいっていないようだった。なぜならかくれんぼの目印にしていた像から雑木林まで何百メートルも離れているからだ。それに、雨をしのげるほどの大木が雑木林のほうにあっただろうか。子供の記憶はひどく朧げなものだから、何か勘違いを起こしているかもしれない。たとえば違う日の記憶や、夢の中のこととごちゃごちゃになっていないだろうか。


「でもたしかに白い犬が私のそばにいたんだよ。そう、ちょうどあんな——」


 そう言いかけて、言葉を失った。あの時とまったく同じ白い犬がイチョウ並木のほうからとことこと歩いている。あの時と変わらず、リードを首からだらしなくぶらさげて。私は思わず駆け寄った。思わぬ光景に、一瞬ばかり我を失ってしまったせいで、視界の隅の、私の側面から来る自転車に気付けなかった。強い衝撃が腹の当たりに走る。鈍い音とともに、私は道路を二、三回転転げ回って、茂みのほうに投げ出された。


「大丈夫ですか!」

 自転車の運転手が咄嗟に立ち上がり、私の方へと駆け寄る。私よりもすこし年上の男の顔だった。やや痛むが、肘を軽く擦っただけで立ち上がれないほどではなかった。

「ごめんなさい。周りを見ていなくて」


 私が頭を下げると、男の方は大丈夫そうですね、よかった、と胸を撫で下ろす。お互いに無事であることを確かめると、特別なやりとりもなく、男は立ち去った。史花の胸には白い犬が抱きかかえられている。「きっと、迷子だよ」と私は彼の頭を撫でた。リードは古く、ところどころほつれているが、その色は私の記憶のなかにあるそれと、全く同じだった。犬はへっへっへ、と口角をあげて笑っている。自分が迷子になっていることを理解していないようだった。


「ごめんなさい!」


 スポーツウェアを着た女性が謝りながらこちらに駆け寄る。


「本当にありがとうございます。この子、目を離すとすぐ飛んで行っちゃって」

「ほぅら。お姉さんだよ」


 史花は犬に話しかけつつ、女性に渡した。やや恥ずかしいのか、飼い主の女性は足早に立ち去ろうとしてしまう。ここで機会を失えば、永久に知ることができなくなってしまうような気がしてしまい、思わず彼女を呼び止める。


「あの、すみません。その、彼の名前を教えてくれませんか」


 彼女は足を止めてこちらを見る。


「十年以上前の話なんですけれど、雨が降っている時に、今日みたいにあなたからはぐれたその犬と雨宿りをしたことがあるんです。」

「ソラを知っているんですか?」

「その子、ソラくんっていうんですね?」


 彼女は首を横に振った。


「この子はアメです、女の子で。ソラの娘です。

 ソラは——彼は、数年前に老衰で亡くなりました」


 不意打ちを喰らったような気分だった。私は口を開いたまま、なかなか閉じることができなかった。犬の寿命は十年ほどとよく言われている。あのことがあったのは十二年前の話で、生きているほうが不自然な話だが、今の今までそんなことを考えたことはなかった。それからしばらく考え込んで、感慨深い様子で私の目を見る。


「一回だけ、逃げ出したまま、いつまでたっても見つからない日があったんですけれど、きっとそれが、あなたの言う日なんでしょうね」

「その、ごめんなさい。思い出したく無いことを思い出させてしまって……」

「いいんです。彼女は初め、おとなしい女の子だったんですけれど、ソラと一緒に散歩をしているうちに、彼の影響を受けて脱走癖が付いてしまって——だからあなたが彼女をソラと勘違いすることも仕方ないのかもしれません。

 ありがとう、教えてくれて。私の知らない彼の一面が知れて、とても嬉しいわ」


 彼女がその場を去った時、アメは抱えられていて、手足をだらんと伸ばしていた。

 写真を撮ろうとあらかじめ決めておいた場所に着いた。雑木林の中。あたりは誰もいないようで風の吹く音しか聞こえない。史花が衣装を着替え、さぁこれから写真を撮ろうとなった時、私は「あれ」と声が出た。カメラはレンズが割れ、電源がつかなくなっている。うんともすんとも言わない。


「電源がつかない?」

「きっとさっき、自転車とぶつかった時に砕いてしまったみたい。レンズは買い換えることができるし、データはなんとかなるけれど、カメラそのものが壊れちゃうと」


 私と史花は顔を見合わせる。撮影はこれで中止となった。

 お鈴の、きぃんと鳴る音が頭の中を駆け巡る。カメラを治すことは難しい、と言われてしまった。寂れた2DKのアパート。西の暗い和室。私は父になんと言えば良いのだろう。母はどんな顔をするだろう。玄関の扉が開く、仏壇の前に座っている私を母はめずらしく思ったのだろう、目を丸くしてこちらを見ていた。


「ごめんなさい。お母さん。お父さんのカメラ、壊しちゃった。私の不注意で。大事なものだったはずなのに」

 沈黙が気まずい。母は砕かれてしまったレンズをそっとなでている。

「私ね、最近、お父さんの声が思い出せなくなっているの。顔はお仏壇から写真を毎日見ているけれど、声ばかりはねぇ。でも、それはきっと仕方のないことなのよ。人間は忘れてしまう生き物だから」


 そう言って、母は私の涙を拭った。


「あなたもいつかわかる日が来るわ。時間は、記憶は、親から子へと流れていくの。その子もやがて親になって——そうして時間は巡っていく」


 母の言葉を聞きながら、私は帛族のことを思い出した。親から子へ、服の文様は受け継がれていく。


「今度、新しいのを買いに行くんでしょう? 私も一緒に行っていいかしら?」


 晴れやかな顔で、母は私にほほ笑んだ。



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Sanaghi @gekka_999

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