第7話 懇願
有栖視点
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「こんばんは。
柔和な笑みを浮かべた細身の男に声を掛けられた。
「田中さんですか?」
私の言葉に、男は無言のまま頷いた。
彼の名前は田中一郎。多分、偽名。
ここ最近、この街で若い女の子を食い物にしている悪人、らしい。
「サキちゃんから紹介してもらったアリアです、初めましてー」
私がぎこちなくそう言うと、彼は人の良さそうな笑顔を浮かべて、優しい声で言う。
「初めまして。でも、緊張しなくて良いですよ。お互いにとって楽しい時間を過ごしましょう」
私が緊張をしている理由を都合よく勘違いしたようだ。
初めてのパパ活に緊張しているわけではない。
美人局としてこれから彼を騙さないといけないから、どうしたって緊張をしてしまう。
私は、田中を見る。
年齢は30前後くらいだろうか。
紺のスーツ、綺麗に磨かれた革靴、丁寧にセットされた髪の毛。
そして、優しそうな笑顔。
例えば事情を知らずに彼と街中をすれ違っても、決して警戒をすることはないだろう。
「そう言ってもらえると助かりますー」
私は作り笑いを浮かべて応える。
田中は、外国メーカー製の腕時計に視線を落としてから、問いかけてくる。
「晩御飯はもう食べた? 実を言うと今日、仕事が立て込んでいてお昼を抜かしていて、お腹がすいているんだ。まだご飯を食べていないなら、まずは食事をしませんか?」
「あ、まだ食べてないです」
私の言葉に、田中は「それは良かった」と呟いてから、
「何か食べたいものはあるかな? もちろんご馳走するから、どこでも好きなところで良いよ」
「それなら――美味しいパスタが食べられるお店に連れて行ってください」
私の言葉に、彼は頷いてから言う。
「パスタだね。最近あんまり行っていなかったけど、近場で美味しいお店を知っているんだ。案内するよ」
そう言ってから、田中はゆっくりと歩き始めた。
私は後をついて行きながら、ゆっくりと周囲を見渡す。
ぱっと見では分からないけど、どこからか先輩が今の私たちを見張っているはず。
食事に行くことも事前に想定していたから、見失うことはないと思うけど、少しだけ不安になった。
「……周りを見て、どうしたんだい?」
「え、っと。……こういうの、初めてなので。大人の男の人と一緒にいるの、周りの人がどう見ているのか気になって」
私が考えた言い訳に、田中は嬉しそうに笑った。
「可愛いね、アリアちゃんは」
「……揶揄わないでください」
可愛い、と言われるのが私はあまり好きじゃない。
だけど、不機嫌な態度を極力表に出さないように、気を付けながら言った。
「
「すごく優しくて……羽振りが良くてお手当をたくさんくれるって聞いたので。だから、会ってみても良いかなって思ったんです」
「正直なんだね。でも、どうしてお金が欲しいんだい? 何か、困っていることがあるの?」
「……家出、してるので」
嘘を吐くときは、真実を織り交ぜるとリアリティが出ると聞いたことがある。
私が家出をしたと聞いた途端、柔和な表情は相変わらずの田中の瞳の奥に、いやらしさが垣間見えた。……ような気がした。
「親と喧嘩でもしたのかい?」
「……言いたくないです」
「そうだね、あんまり深く聞かれてもウザイよね。ごめんごめん。今日は二人で楽しく過ごす日なんだから、もう聞いたりしないよ」
田中はそう言ってから、足を止めた。
「まずは二人で楽しくお食事をしようか」
彼はそう言いながら、お洒落なレストランの扉を開いて、私を先に店内に入るように促した。
私は「どうも、ありがとうございます」とお礼を言ってから、お店の中に入った。
☆
「パスタは美味しかったかい?」
先に店外に出ていた私に、会計を済ませてお店を出てきた田中がそう声を掛けてきた。
「はい、とっても」
贅沢に海鮮が使われたペペロンチーノは、とても美味しかった。
ただ、私の口臭がにんにく臭いはずなのに、田中が嫌な顔一つしていないことは残念だった。
「それじゃあ……ホテルに向かおうか」
いやらしさを微塵も感じさせないような態度で、田中はさらりとそう言った。
「あの、一つお願いがあるんですけど」
「お願い? 何だい?」
少しだけ警戒をしたように、田中は言った。
「この辺に、部屋に岩盤浴のあるホテルがあるって聞いたので、そこに行ってみたいなって思いまして……」
これは、先輩からお願いをされたことだった。
理由を聞いたら、そこのフロントにいるスタッフは、お金を握らせれば大概のことには目を瞑るから、ということだった。
話をするたびに、先輩の反社会的な言動に面食らう。
「岩盤浴、僕も好きだよ。良いね、今日は二人で楽しむ日だから、是非そこに行こうか」
「それじゃあ、地図確認しますね」
そう言って私がスマホを取り出し、操作する。
――その横で、田中は私のスマホを遠慮なく覗き見ていた。
「ああ、あの店の近くにあるのか。道のりはもうわかったから、スマホは見なくても大丈夫だよ。歩きスマホは危ないからね」
道を確認したかっただけ、そんな風なもっともらしい理由を、聞かれてもいないのに田中はしゃべる。
多分、私がスマホで外部に連絡を取らないか、警戒をしていたんだろう。
「それじゃあ、案内をお願いします」
私が言うと、彼は迷うそぶりもなくホテルへの道を歩いて行く。
それから、数分後。
ホテルに到着後、一番広く一泊の値段も高い部屋を田中は取った。
エレベーターで借りた部屋のある最上階へと到着。
田中が部屋の扉を開けている後ろで、私はスマホを取り出し、念のため先輩と通話状態にしようと操作をしようとして――。
「アリアちゃん、今日は二人で楽しむ日だって言ったのに。どこに電話をしようとしているんだい?」
振り返った田中が、私からスマホを取り上げた。
突然の出来事に思考が停止した私の腕を、細身からは想像もできないほど強い力で田中が引っ張った。
田中は扉を閉めてからも私の腕を引っ張り続け、乱暴にベッドの上に押し倒した。
「……やめてくださいっ!」
ようやく自分の身が危険にさらされていることを理解した私は、田中の身体を押し返し、抵抗をする。
先ほどまでの紳士的な態度はなりを潜めていた。
彼は下卑た眼差しで、私の太ももや乱れた胸元を見ていた。
「こんな風に乱暴にされるなんて、聞いていないです。……もう、帰ります!」
私は震える声で田中に向かって言う。
それからベッドから起き上がろうとして……再び、強い力で押さえつけられて、押し倒された。
「いい加減にしてっ!」
私はそう言って蹴り上げようとしたけど、田中は私に馬乗りになっていて、上手く抵抗が出来ない。
彼は嬉しそうな表情を浮かべて、私の両手をまとめて片腕で抑え込んだ。
「離せ……ってば!」
恐怖を振り払うように叫んだ私に待ち受けていたのは――。
バチンッ
頬の痛みだった。
一瞬何が起こったかわからなかったが、私は田中に平手打ちをされていた。
キッと睨みつけてから、私は田中に向かって叫ぶ。
「女を殴るとか、マジでサイテー」
私が言い終わると、田中は下卑た笑みを浮かべながら、もう一度私の頬を打った。
「一つ、ルールを教えようか。アリアちゃん、君がしゃべるたびに、俺は君の顔を思いっきり平手打ちをするよ。……ああ、大丈夫、泣いてくれるのは構わない。そっちの方が興奮するから」
私はその言葉を聞いて絶句した。
頬の痛みと、田中の醜悪な表情に恐怖を感じていると――もう一度、頬に痛みが走った。
「あともう一つ教えるけど。黙ってても打つから」
怖かった。
後悔をした。
覚悟が足らなかった。
最低だと思った。
――そんな感情を抱いていたと思うけど、私はそれらの感情を何一つとして言葉にすることができず。
「ごめんなさい、助けてください……」
涙を流しながら、震える声でそう懇願した。
「やっぱ、泣いても殴ることにするねっ、良いよねぇ!?」
そう言って、大きく腕を振りかぶる田中。
私は衝撃に備えて目を瞑り、ギュッと身体を強張らせていたけど――。
衝撃は、来なかった。
「……は、はぁ!? な、何なんだよ、お前ぇ!!?」
慌てた様子の田中。
振り上げらた彼の腕は、突然現れた彼(・)に掴まれ、動く様子がなかった。
「い、痛い、痛いって言ってんだろー、離せよー!!!」
田中は彼に抵抗をするものの、あっけなく彼の手によって、私の上から引き離された。
彼は田中を無言のまま睨みつけ、田中は彼を怯えた様子で見ている。
「な、何なんだよ、なんで部屋の中に入れるんだよ、どうなってんだよ。……なんか言えよ、お前マジよぉー!?」
田中の言葉に、彼――桜木仁先輩は、
「俺の女に手を出しやがって……絶対に、タダじゃすませねぇからな!!」
そう叫んでから田中一郎の顔面に、固く握りしめた拳を叩きつけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます