私、夫に殺されました

御角

第1話 私、夫に殺されました

「ただいまー」

 暗く静かな我が家に、自分の声だけが虚しく響く。朝も夜も、電気のスイッチを押すのはいつも自分の役目だ。そうわかっていてもつい、期待して口を開いてしまう。

「今頃は仕事かな? それとも……」

 私の夫、今野こんのたけしはそこそこ名の売れたIT企業に勤めるサラリーマン。朝は早いが残業も少なく、比較的ホワイトな会社だというのが一般認識だ。そう、つまり彼が夜遅くまで帰ってこないのには仕事以外の、別の理由がある。


 鞄を開け、私は書類を机にばら撒いた。彼が他の女と手を繋いだり、キスをしたり、ホテルに入ったり……。見ているこちらもいたたまれなくなるような写真ばかりで我が夫ながら恥ずかしい限りだ。

 そして極めつけと言わんばかりに、署名捺印済みの離婚届を思いきり目の前に突きつけてやる。青ざめる夫の顔はさぞかし見ものに違いない。

 よし、予行演習は完璧だ。夫がここにいればもっと良かったが、今更期待するだけ無駄なことはわかっている。浮気に気がついて、探偵に依頼して、この証拠を貰った時からずっとわかっていたことだ。彼が私の期待に応える機会は、多分もう二度と訪れない。

「浮気するくらいなら、始めからプロポーズなんてしないでよ……」

 仮面のように貼り付けられたファンデーションが涙に溶け込み、手元の紙切れを汚す。握りしめた離婚届に走るシワと仄かな肌色に染まるシミがやけに醜く、まるで惨めな自分を写しているかのように見えて、私は一人静かに泣いた。


 どれくらい時間が経ったのだろう。書類を鞄に戻し、涙と化粧にまみれた顔、乳酸が溜まりに溜まった全身、それらをシャワーで丹念に洗い流す。それでもやはり、彼は一向に帰ってこなかった。

 薄暗い室内で、熱された電気ストーブだけがぼんやりと私の髪を照らす。触ればほんのりと温かく、何だか気分が落ち着いた。

 いつものように睡眠薬をぬるい水で流し込む。やっぱり喉につっかえて、気持ち悪くて、それでも大量の水で、その違和感を無理やり胃に押し込んだ。嫌な汗をかいたのはきっと、ストーブにあたりすぎたせいだ。

 じんわりと熱をまとうその唯一の光源を切って静かに暗闇に横たわる。ベッドが私の重みに呼応するように小さく軋んで、そのまま吸い込まれるように私は眠りについた。離婚届は起きてから突きつければいい、そう思った。

 まさか明日が二度と訪れないなんて、この時は夢にも思わなかった。


 何処かから、けたたましいサイレンが鳴り響いている。目覚ましにしてはやけに騒がしいその音に、私は思わず目を開けた。

 崩れ落ちる天井、激しく燃え盛る壁、そして轟々ごうごうと音を立てて燃え尽きていく、私の、体。

 部屋全てを覆い尽くす程の炎の中で、私は一人佇み、灰と化した自分の死体をいつまでも、いつまでも見つめていた。夢ならば覚めてほしい、そう思っても……黒焦げの我が家に警察がやってきても、夫が部屋を去り葬儀の準備を始めても、私の死がくつがえることはなかった。


 現実だ。この光景は、紛れもない現実。半透明となった私の存在を写すものは、もうこの世には存在しない。

 必死に集めた書類も、自分の生きてきた人生も、何もかも水の泡だ。悔しい、私は結局天国にも地獄にも行けず仕舞い。彼はそんなことも知らずにのうのうと、浮気相手と愛を育んでいくに違いない。許せない。許せない……。

「あー、やっぱりあなたも殺されちゃったんだ」

 不意に空から聞き慣れない声が降り注ぐ。ハッと顔を上げ辺りを見渡すが、崩壊寸前のこの部屋には私以外の誰も見当たらない。

「こっちよ。こっちこっち」

 急に引っ張られるような感覚がして、気がつくと私は家の真上、遥か空中にふわりと漂っていた。あんなに広く感じた我が家が、今はこんなに小さく見える。

 眼下に広がる現実離れしたその景色に思わず身震いしていると、自分と同じように漂い浮かぶ二つの影がゆらゆらと私を取り囲んだ。


「あの、あなた達は一体……?」

 私が恐る恐る話しかけると、二人は白いワンピースをひるがえしてにっこりと微笑んだ。

「私はあいつ、武の最初のお嫁さん。と言っても7年前に死んじゃったんだけどね」

 ショートカットの女性は明るい表情でそう言った。

「私は武さんの2番目の妻。死んだのは……そうね、3年ほど前かしら」

 長髪の女性はその綺麗な顔を傾けそう言った。

「そして……あなたが3番目。私達はずっとあの人に取り憑いて、何もかもを全部見ていたの」

 その言葉でようやく私は、彼女達が夫の元妻であることを確信した。何より恐ろしいのは、私が彼のプロポーズを受けた時期が前妻の死期と一致しているということだ。つまり……。

「つまり、私は元々浮気相手だったってこと、ですか……?」

 全身が震える。気がつくことが出来なかった自分への悔しさと、同じようなことを繰り返す夫への怒りが、拳を握りしめる度に増幅していく。

「そう、私達の共通点は2つ。みんな武に浮気されたってこと。つくづく最低な男だよ、あいつ。そう思わない?」

「ええ、許せない。せめてあと1日あれば、彼を問い詰めることも出来たのに……」

 私が口惜しそうに呟くと、二人は少し困ったような顔をして俯いた。

「逆よ……。あなたが浮気に気がついて、離婚まであと一歩というところだったからこそ、あなたは焼死したの」

 その言葉の意味がよくわからず、私は首をかしげる。そういえば、どうして私は火事で死んでしまったのだろうか。火の元の扱いには十分気をつけているつもりだったし、寝る直前、確かに電気ストーブのスイッチも切ったはずだ。あの夜一体何が起こったのか、その全てを私は未だに把握出来ていない。

「さっき、共通点は2つあるって言ったよね。1つは浮気、もう1つは……」

 一瞬の沈黙。それが生者の存在しないこの空間に重くのしかかる。最初の妻だった女性はしばし逡巡し、ゆっくりと顔を上げた。

「もう1つは、みんなあいつに殺されたってこと」

 満を持して紡がれたその真相は、私を青ざめさせるには十分すぎるほどだった。

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