16.「最後に、一つだけ望みを聞いていただけないでしょうか」




 上官が言っていた栄転とは、これか。


 湖に張った薄氷のように脆く壊れやすくなっていたミーシャの胸中にピキッと大きなヒビが入る。昔、母から貰った大切な櫛を弟に壊された時の感覚に似ていた。


 隣で呆然と辞令を聞いていたシャルルが膝の上に置いた拳を震わせ、自分たちよりも一段高いところから見下ろす輩を憎々しげに見上げた。


「お、お待ちください!自分は聖女ミーシャの護衛です!」


「無論、兼任はできぬ。だからな。即位の儀ではノアの隣を任せることになるであろうから、そのつもりでいろ」


「では彼女はどうなるのですか!?」


に護衛を付ける必要があるのかね?それとも、王からの栄誉に何か不満でも?」


 全く取り合う気のない大臣に、シャルルは奥歯を噛み締める。こんな作為的な人事、まさか王の独断ではないだろう。誰の謀略だ?ミーシャを徹底的に孤立させる目的は何だ?


 膝と両手を床に着いたまま視線を赤い絨毯に落とす血の気の引いた横顔と震える指先を見たシャルルは、意を決してこの腐った王政に牙を剥くために立ち上がろうとしたが、騎士団の肩掛けの外套をミーシャが弱々しく掴んでそれを制した。ちらりと交差した黄土色の瞳は、一瞬で逸らされる。


「シャルル卿は誰よりも優秀な護衛騎士でした。きっとノア様の助けになるはずです」


「ミー、シャ……?」


「……よいのかミーシャ?そなたにとっても心の拠り所だったのだろう。異論はいくらでも聞き入れるつもりではあったが……」


「お借りしていた物を本来在るべきところへ返すのは当然です。彼は私が賜った恩赦の中で、一番の心尽くしでした。感謝してもしきれないほどに……」


 ミーシャの気持ちを汲もうとする王へ恭しく赤茶色の頭が下げられる。その様子に言葉を失ったシャルルは、すっかりと抜け落ちた牙を拾うことも忘れて苦渋で顔を歪めた。


 年齢や立場を気にして頑なに気持ちを受け入れようとしない彼女は、このまま自分を遠ざけるつもりだとわかってしまった。まだこの想いの半分も伝えきれていないのに、それを言葉にする猶予すら与えてくれないということか。


「……最後に、一つだけ望みを聞いていただけないでしょうか」


「この期に及んでなんと強欲な……」


「良い、申してみよ」


 大臣の小言を遮った王が、床に額が着きそうなほど深く下げられたミーシャの頭を上げさせる。血の気が引いて化粧が浮いたさめざめしい顔は普段の利発さや強かさがすっぽりと抜け落ち、無力な少女のような脆さが漂っていた。


「褒章も栄誉も地位も金紙も、何も望みません。私が持っている全てをお返しします、だから……継承の儀が終わったら、故郷に帰らせてください」


 青白い頬から顎を伝い、床に揃えた指先に涙が落ちる。


 集団的な理不尽の連鎖に、ミーシャの心は完全に屈してしまった。全てを放り投げてでも逃げたいと思ってしまった。強くあらねばと常に張り詰めていた糸が切れて、彼女の長年の戦いで傷んだ鎧をガラガラと崩していく。


 反撃の気力も消え失せ、ただ一方的に嬲られるだけだ。この悪意しかない世界から逃げたい。情けないと笑われて指を差されても、もうこれ以上、ミーシャは戦えない。


「……相分かった。その望み、しかと聞き入れよう。誰か、彼女を離宮まで送ってやってくれ。これ以上は酷だろう」


「っ自分が、」


「即位の儀について詰める話がある。シャルル卿はここに残るように」


「しかし……!」


 入り口に控えていた城の兵士が王の一声で駆けつけ、一人では立つこともままならないほど衰弱したミーシャの肩を二人がかりで支えて立ち上がらせる。涙を拭うことすらできないでいる悲嘆な顔を見上げて、シャルルは唇を噛んだ。


 自分の傍から引き剥がされる頼りない背中を支えてやることもできない。この魔窟の中で二人は余りにも無力だった。


 一方、兵士に支えられながら歩いていたミーシャは王座を抜けると「もう一人で大丈夫です」と、付き添う彼らから距離を取り、ふらりと歩き始めた。乾いて頬に貼りついた涙の跡を引き攣らせながら、嗚咽を噛み殺して城の外へと黙々と足を動かす。


 人前で泣いたのは、シャルルにすっぴんを見られて以来だった。弱い姿を見せたら付け入られる。そう思いながら災いが続いて苛立つ国民の受け皿としてずっと生きてきた。聖女はそうあるべきだと、無意識に自分に暗示をかけていたのかもしれない。「ただのミーシャ」は、そこまで強い人間ではなかったらしい。


 気がかりだったのは、王座の間に残してきたシャルルだ。あの性悪な化け狸たちに食い物にされないだろうか。若いのに真っすぐで律義な男だから、馬鹿正直に魔物に噛みついて無用な敵を作ってしまうかもしれない。聖女ノアの騎士として新たな花道が拓けたのだから、その辺は自分で上手に立ち回ってほしいものだ。でもよかった、これでミーシャの脳天に刺さりかけたフラグは完全に折れただろう。


(……なのにこんなに苦しいなんて、馬鹿じゃん、私)


 常に目に映る物は、失ってからその価値に気づくことが圧倒的に多い。ミーシャにとってシャルルはそんな存在だったらしい。好きだったんだと気づいた時には、もう何も手元に残っていなかった。


 誰もいない通路で立ち止まって、ひやりとした石壁にふらつく身体で寄りかかりながら口元を手で押さえる。自分の気持ちをようやく自覚したらまた涙が溢れた。いつもなら何も言わなくても駆けつけてくれる彼は、もうミーシャを助けに来てはくれない。自分から手放したのだから。また空っぽになってしまった。この人生はどうして何も手に入れることができないのだろう。


 ループなんてクソ喰らえと思っていたが、やり直したいと願うヒロインたちの気持ちが今なら少しだけわかる。もし本当にループすることができるなら、絶対に聖女にはならないとミーシャは魂に誓った。聖女の使命も国も民も何もかもどうでもいい。貧しくても平穏で心地の良い場所で、誰かのために犠牲になることも理不尽に傷つけられることもなく、自分の幸せだけを考えて生きていきたい。欲を言えば、ループではなく転生が良いのだけれど。




 年明けの継承の儀まで約三カ月、来月のノアのお披露目が終わってからが本当の地獄だ。今まで押し込めてきた不安や悲しみが完全に戦意喪失したミーシャに襲いかかる。独りぼっちでは耐えられる気がしない。国民の前に姿を見せなければならない恐怖に喉を震わせた彼女を傍で支えてくれる人は、もう誰もいなかった。



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