耳たぶかして

くるみ

第1話 倉田大樹の思い出

「耳たぶかしてあげる。」

田中はそう言って隣に座っていてくれた。

太陽がゆっくり沈んで、周りはオレンジ色に飲み込まれていく。恥ずかしくて田中の顔は見れなかった。田中も俺の顔をのぞき込んだりはしなかった。田中は、小さな手で長い髪をすいっと左耳にかけると、言った。

「耳たぶにつかまってると、涙とまるんだって。」

「…弟が言ってたから。」

言い訳するみたいに早口で付け加えた。


小学校4年生の5月。転校生だった俺は、鍵を持っていくのを忘れ、玄関の前に座り込んでいた。ランドセルを椅子にして、膝小僧を見ていると、目からなまあったかい水が後から後から落ちてくる。4時間授業で早く帰ってきたのに。友達もいないし、どこにも行けない。はらへった。宿題の漢字ノート、いつもより1ページ多いのに。早く帰ってきたのに。友達もいないし…、頭の中でリピート再生される。

その時だった。膝小僧から少し目をずらすと、なまっちろい足が2本見えた。ピンクのスニーカーに、小さな蝶のチャームがついている。見上げると、近所に住む田中成海だった。長い髪でよく顔が見えない。引っ越してきた時に、母さんとあいさつに行ったきり会っていなかった。「同じ小学校なんですよね?よろしくね~」と母さんが、高めの声で言っていたっけ。

「どうしたの?」

田中が聞いてきた。俺はびしょぬれの顔をあわてて腕でこすり、何か言おうとした。でも、何を言えって言うんだ?鍵忘れて?家に入れなくて?転校生で?さみしくて泣いてたって?言ってたまるか!そんなはずかしい事。田中の家は、たしか俺の家を通り過ぎて、4、5件先の緑の屋根の家だ。黙っていれば、そのまま帰るだろうと思っていた。しかし田中は、俺の予想に反して、そのまま横に座り、言ったんだ。


「耳たぶかしてあげる。」


田中がじっと座っているから、俺は恐る恐る、耳たぶをつまんだ。初めて触った女の子の耳たぶは、やわかくて頼りなく、どれくらいの強さで持ったらいいのかわからなくて、腕に変な力が入った。でも不思議と落ち着いて、さっきまでのざわざわした気持ちが波のように引いていった。

どれくらい、耳たぶを持っていたのかおぼえていない。あたりが薄紫色になってきた頃、遠くに母さんが小走りで帰ってくるのが見えた。

「あ。かあさん」

俺が呟くと、田中はさっと立ち上がって。そのまま帰っていった。


あの時から、田中は、俺の特別になった。


でも、あれから何度話しかけても、あいつは目も合わせてくれない。

無視したりはしないけど、軽く会釈して、いつも足早に行ってしまうんだ。

…泣き虫の男なんて、かっこわるいよな。


『かっこいい男になって、田中とともだちになる。』


いつしか、それが俺の目標になった。

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