転生業務課は本日も大忙しです
通里 恭也
プロローグ
俺は猛烈に仕事に追われていた。白を基調とした手狭な部屋で次々と運ばれてくる書類に目を通し、仕分けに次ぐ仕分け。いくらか仕分けた分が溜まったら今度は、仕分けごとに処理していく。無論、その間にも書類は運ばれてくる。
一体なんの事務仕事をしているかと言うと、簡単に言えば生あるもの、特に“人”の転生をしている。
仕分けとしては、まず
当然だが、人力だけと言うわけではない。
天部の中心部にある巨大な樹木、
しかし、これは比較的に稀有な事象であり、膨大な数故に死んだ魂だけが来ることは良くあるものの割合としては決して多くない。では、何が一番多いのか。それは輪廻転生を拒んだ者だ。
壮絶な生の末に死を迎えた。生を満足してしまった。生に執着がない。などの理由から生まれ変わることを拒否してしまう者が非常に多いのだ。
こうなると悪魂だとしても
雑学だが『地球』に置ける一日の死亡者数はおよそ15万人と言われていて、これを一日の秒数である86400秒で割ると約1.7という数になる。二秒でだいたい三人。これが『地球』に置ける秒あたりの死亡者数にとなる。
地球の、それも人類だけでこれだけの数が亡くなっているのだ。これが各世界になってみろ。膨大な数だ。ソシャゲで0.0001%と聞けば果てしなく少ない確率に思えるかもしれない。だが、100万倍にすれば100%になる。つまり規模がデカければ稀有な事象だって極普通に起こるってこと。
実際に輪廻を拒む者は十万人に一人ってほどだろうが、大本の数が膨大なだけにかなりの数になってしまうのだ。とは言え、あくまで演算装置による輪廻を拒んだだけなので転生業務課で手続き(強制)をすればどうにでもなるんだがな。
これが今の俺に課せられた仕事だ。
こんな仕事を少なくとも『地球』計算で一月はぶっ通しで続けているが困ったことに、この天使としての身体は天部にいる限り休息を必要としないらしく、腹は減らないし、眠くもならない。
しかも天使は堕ちない限りは死ぬことまで無いと来た。
いやはや、イナンナがいくら美人と言えど許されないことはあるぞ。不眠不休で働き続けるとかペンタブラック(注、世界一黒い物質)もびっくりの黒さだっつーの。そりゃ職員も逃げ出すわ!
せめて一月前に知っていれば働く方を選ばなかったかもしれないのに…。
いや、どうだろうな。イナンナに至っては俺が初めてここに来て話をしたのが、いつぶりか分からない休みだと言うくらいには休んでないらしいから、それも知っていたら結局働いていたのかもしれない。
そう。一月前、俺が人生に幕を閉じた時から、そんな天使生とも言うべき新たな生が始まったのだ。
***
~一月前~
「先帰るぞ。いつまでも残ってないでお前らも早く帰れよ」
そんな言葉を残して数人の上層幹部達が退社していく。時刻は十七時過ぎ、所謂定時退社だ。
なんとも羨ましいもんだ。と言うのも俺たち平社員はほぼ毎日が終電間際だったり、徹夜や社内泊も日常的にある。かく言う俺も一週間前から家に帰っていない。
まぁ、帰ったところで飯を作る気力なんてないからコンビニ弁当を買って、後はシャワー浴びて寝るだけだが。
正直に言うと会社のロッカーに着替えはあるし、洗濯にしたって家でなくとも出来るのだからわざわざ家に帰る必要がない。
——なんて思うようになったのはいつからだろうか。
定時退社なんて入社して一週間の頃に一度だけあったきり、八人居た同期も半年しないうちに俺だけになった。
新生活に気が浮つく間も無く自宅は薄ぼこりのかぶった寝るだけの場所と化し、ここ二年くらいは休日ですら会社で寝てる始末。もはやどっちが自宅だから解らない。
とっくに気づいているさ、この会社は世に言うブラック会社、その中でも飛び抜けて黒い社会の闇だ。
働き方改革?ブラック撲滅?そんなのは世間へ向けた猫の皮でしかない。皮を一枚剥げばどんな会社だって闇の鱗片を持っている。
ちなみに十七時に帰っているのは会社の設立当初はから居る古狸どもで、他の上司は早くても二十時と定時には程遠い時間だ。
溜息をつきながらもキリが良いところまでデスクワークを続け、気づけば終電時間もとうに過ぎた午前一時前。大半の社員は帰ったがそれでも社内には俺を含めて数人が残っていた。
空腹と眠気を栄養ドリンクで誤魔化そうと考えた俺は社内に設置された冷蔵庫を開くが、私物の栄養ドリンクは入っていなかった。
考えてみれば約一週間も社内に閉じこもっていたようなものなのだからなくなりもするか。
体は重いが流石に栄養剤もコーヒーも無しじゃ三徹目は切り抜けられないので仕方なくコンビニまで買いに行くことにし、残っている同僚に一声掛けてから財布だけ持って会社の外に出る。
外は身を裂く様な寒さで、雪までちらついていた。
携帯を開いて日付を見ると今日は
そんな事を思いながら道にたむろっている若者達を尻目に脇を抜けながら目的のコンビニへ向かう。
コンビニに着いたら取り敢えず適当に栄養ドリンクと缶コーヒーを買い物カゴへ放り込み、レジへ持っていく。レジを通す際に店員から哀れみの目を向けられたが、こんな日に働いている時点で同類だろと思ったので薄く微笑んでやった。
外に出ると、再び肌を撫でるように冷たい風が吹き付けゾワっと毛が逆立つような感覚を覚えた。早く家に帰ろうなんて思う残念な自分の頭にまた溜息をつきながら
重い体を引きずりながら会社への道を歩いていると先ほどたむろっていた若者達がまだ道端で騒いでいた。俺は邪魔だと思いつつも行きと同じように脇を抜けようとする。
その時だった。
若者達がふざけあっている反動で誰かが俺に後ろからぶつかった。普通なら軽くよろけつつも転ばない程度の些細な衝突。しかし既に二徹している俺の身体は突然の事態に対処できず道の横、車道へ向かって倒れ込んでしまう。
倒れこむ寸前、視界は何か白いもので埋め尽くされ、耳には大きな音が響く。それが何であるかを判断する前に俺の思考は断絶した。
夜の静寂を切り裂く悲鳴が薄く白化粧をした住宅地に
若者がぶつかりよろけた男は運悪く通りかかった大型トラックになすすべも無く轢かれた。
白くなった大地に真っ赤な鮮血を飛び散らせ、その身体はかろうじて原型が留まっている程度で、もはや誰であったかなど確認が出来ないほどに潰れていた。
クリスマスの夜に起きた悲しい事故。それを見て誰かが呟く。
「事故も事故。大事故だわ……」
その声は誰の耳に入るわけでもなく、寒空の風に吹かれて闇に消えた。
***
目が覚めた俺はどこかの建物で椅子に座っていた。手にはコンビニの袋ではなくバーコードリーダーの付いた番号札が握られており、辺りには忙しなく動きまわる人が多く居て、番号を呼ばれた人が窓口に居る職員らしき人物の方へと向かっていく。
この場所に見覚えはないが、どうやらどこかの役所に居るらしい。
いや、やたらと白い場所だから病院かもしれない。
いずれにせよ。なんで俺がここに居るのかは判らずに眉根を寄せていると自分の持つ番号札と同じ番号が呼ばれた。
とりあえず状況に流されて窓口へ向かい、番号札を渡すと職員の男性が俺の番号札に付いていたバーコードを機械で読み取り、それから血相を変えてパソコンを弄り始めた。
数分ほどそのまま待たされた後に、男は一枚の紙を差し出して“二番の窓口”へ行くようにと言った。
言われるままに紙を二番の窓口に持っていくと、またしばらく待つように言われたので椅子に座って待つ。十数分ほど待たされた後に今度はクリップで纏められた何枚かの紙を渡されると共に“五番の窓口”に書類を渡すように言われ、俺は何となく嫌な予感を感じ始めた。
予感が外れる事を祈りつつも五番の窓口に書類を出して待つ事数十分。渡したはずの書類を返されて“三番の窓口”へと言われ俺は溜息を吐いた。
それからもやれ“四番”へ行け、“七番”へ行け、“二番”へ行け、“四番”へ行けなどと続き、最終的に“九番の窓口”へとたどり着いた。
どうせまたたらい回しにされるなんて考えながら書類を九番の窓口に出して椅子に座る。しかし残念なのはどうしてここに居るかすら判らないのに流されるがままになってしまう日本人の習性だろう。
急ぎではないとは言え
もう何でも良いから早く終われと思いながら名前が呼ばれるのを待つと、今回は数分で名前を呼ばれた。
窓口へ行くと、どうやら場所を移すらしく役所の奥の方へと連れて行かれる。
しばらく歩いた後に通された部屋は会議室や応接室とはほど遠い書類の散乱した部屋で、中には書類の山に挟まれた妙齢の女性が一人だけ居て、部屋に入った俺のことを見ていた。
その姿は目元に大きな隈があり、長い髪はボサボサに広がっており、疲労が全身に見て取れた。
なんとなく会社の同僚達を思い出す姿に思わず苦笑いが漏れそうになるがぐっと堪えて、案内してくれた職員と目の前の女性のやり取りを待った。
やがて話が終わったのか案内してくれた職員の方は部屋を出て行き、俺とボサボサ髪の女性だけが残された。どうすればいいかわからないので女性の方を見ると、女性もまた俺の方を見ていた。
数分ほどそのまま時が過ぎ、このままでは埒があかないと思った俺はどうしたら良いかと問いかける。すると、女性はそのまま立っていてほしいと答えたので仕方なく立ち尽くす。
再び静寂が生まれ、見つめ合う時間が訪れる。営業などで女性と顔を突きあわせることも多いので照れたりはしないけれど、訳も分からないまま見つめ合うというのはなんとも言えない気まずさがあった。
沈黙の間と化した部屋は女性が口を開くまで続いた。ようやく発声された言葉は女性の「見えた!」という言葉だった。何が見えたのかは謎だし、いきなり大きな声を出すものだから驚いて少し身体が跳ねた気がする。
「……えっと、何が見えたんですか?」
「ちょっとね」
女性はそうはぐらかすと、案内してくれた人にこの場所の事を聞いているかと聞かれた。当然無いと答えると女性は深い溜め息をついた。
「ちなみにここがどこかわかる?」
「わかりませ―」
「——だよねー。連中は不親切だもんねー。うんうん」
女性は俺の答えを最後まで聞くことなく勝手に納得して頷いた。頼むから俺にも説明してくれ。
「じゃあこの場所にいる理由も知らない訳だ」
「……はい。流されるがまま連れてこられました」
そう答えると、女性はわざとらしく「はいはい。ぜーんぶ解りました」と明後日の方向へ向けて言った。その後小さく「アイツらめ…」と呟いていたのは聞かなかったことにしよう。
女性の放つオーラが完全に同僚と重なったように思えた。
「はぁ…。OKOK、全部説明してあげるわ」
女性に促されるまま、手近な椅子に腰掛けるとマグカップが一つ差し出された。中には湯気を立ち上らせたコーヒーが入っており、礼を言ってから口に含むと程よい苦味が頭を冴え渡らせる。どうやら良い豆を使っているらしく、俺が普段会社で飲んでいる安いインスタントコーヒーとはまるで別物だ。
「さて、まずは」
そう前置きをして女性は長々と話し始める。
「ここは、というよりこの世界は貴方の居た“地球”ではないわ。地球とは根本的に次元が違う位置に存在する場所よ。ちなみにここは
次元が違うとか地球じゃないとか、突拍子もない言葉に眉根が寄る。
「天部……?」
「そうね。貴方でも聞き馴染みのありそうな言葉で言うならば天国かしら?ここには君達人間から天使や神と呼ばれるような存在が働いているの」
「では、やはり私は死んだのでしょうか…」
薄々予感していたとはいえど、ショックは拭いきれなかった。死んだんだと自覚した途端に頭の中にはいくつもの後悔が過る。
ロクに遊びもせず、仕事ばかりだった事。特に俺は酒も煙草も好まず、女遊びなんてしたことすらなかった。
「残念だけど、その通りよ。貴方は脇見運転していた大型の運送用トラックに轢かれて死んだわ。信じられないなら死ぬ瞬間の映像も見せてあげられるけど、どうする?」
何事でもないように聞かれたが流石に自分の死ぬ姿は見たいと思わないので丁重に断ると女性はつまらなさそうに「そう?」と言って、説明を続けた。
「とにかく貴方は死んだわ。そして何故ここに居るのか、それは死んだ者の魂を天部で管理しているためよ。一般的には善き魂は新たな魂に生まれ変わり、悪き魂は地獄の業火の燃料にされる。だから善き魂である貴方は生まれ変わり、輪廻、つまり転生する
ここまで言うと女性は深いため息を吐いて俺の書類と思われる紙を縦に割いてから丸めると、部屋の隅に置かれたゴミ箱へ放り投げた。
「予定だった。と言うのはどういうことですか?」
「そのままの意味よ。つまり転生はしない。正確にはまだ出来ないのよ。貴方は本来はまだ死ぬべきでは無いのに死んでしまったから、生まれ変わるための条件が整ってないのよ」
「輪廻に条件なんてあるんですか?」
「有ってないようなものなんだけどね。たまに居るのよ。貴方みたいな不運な奴が」
そっぽ向いて吐かれた女性の言葉に、ただただ苦笑いするしかなかった。
「私達は死んだ者の魂を管理してるって言ったでしょ。でも誰かが死んでから対応したら後手後手で仕事にならない。そのために寿命の予測を立てて、決まった時間に決まった数を転生させているの。そもそも一度に転生出来る定員数もあるしね」
「つまり今の俺は員数外ってことですか」
「それもあるけれど、一応、定員についてはなんとか出来るの。貴方が転生できない理由はね。貴方、死んでないのよ」
…この人は何を言っているのだろうか。ついさっき『貴方は死んだ』と言ってたのに、今度は『死んでない』と来たか。
「失礼ながら、貴女の言っている意味がわかりません。私は死んだのではないのですか?」
「ああ、ごめん。えっとね。確かに“肉体的”には死を迎えているわ。でも、魂は死んでいないのよ」
更に意味がわからない。これは俺の理解力が足りないからなのか、などと思っていると女性は察してくれたのか頭を掻きながら解りやすく説明してくれた。
生には“肉体”と“魂”の二つがあり、この二つの生が途絶えて初めて“死を迎える”のだそうだ。
魂だけが死を迎えた場合は、二度と覚めぬ眠りに落ちる。魂の無い肉体は始めこそ時を止めたようになるが、やがて緩やかに死へと向かい始めるらしい。おそらくは植物状態に近いものだと思われる。
そして肉体だけが死んだ場合、生きた魂は行き場をなくして地上を彷徨う。この時、魂に刻まれた“業”によっては生者を脅かす
ちなみに器の無い魂は、龍脈などの影響を直接受けるためすぐに死んでしまうらしい。のだが、何故か俺は肉体が死んで早々に天部に来てしまったため、魂が死んでいないのだと言われた。
転生は肉体と魂、両方の死を迎えたものしか出来ないため、魂が生きている俺は転生することが出来ない。というのが今の俺の状況だ。
「本来なら魂が死を迎えるまで待てば良いんだけど、この天部は時間の概念が無いから死ぬに死ねないのよね」
「時間の概念が無い?あれ、だって―」
「『決まった時間に決まった数を』云々の話かしら」
女性は俺の疑問などお見通しとばかりに割って続ける。
「あれはね。各世界の時間の事で天部のことではないのよ。そもそも世界によって時間の流れは違うわ。それなのに管理をする
「時間の概念が無い。と言ったんですね」
今度は意趣返しとばかりに俺が女性の話に割って口を出す。
「まあ、そういう事」
少しムッとした様子で素っ気なく呟く姿を見て、ちょっと大人気なかったかなと思った。
「……最後のは少しあれだったけど、理解力は悪くないし話もしっかり聞いてる。悪くは、ない。か?」
拗ねたようにそっぽを向いた女性は俺に聞こえない程度の声量でぼそっと何かを呟いた。
「質問なんですけど」
と断ってから俺は口を開く。
「ここに居る限り私は死ねないのですよね。でも死なないことには輪廻、転生も出来ない。俗っぽい言い方ですがひょっとして詰んでませんか?」
「詰んでないわ。一応、私の力を使えば魂を地上へ縛ることが出来るのよ。
「その様子だと、何か不都合があるんですね」
「大いにあるわ。天部にとっても、貴方にとっても、ね。実は強制的に地縛霊にする方法はね。その土地に縛るのではなく、その場所に縛ることになるの。だから地上では一切の浮遊が出来ない。しかも、縛る場所は必ず霊道などの力場でなければならないから、通常の魂よりも強い“業”を受けてしまうの」
「魂が業を受け続けたら妖怪になる…」
「そう。だから世界を管理するものとしてそうした不浄の物を意図的に作るような真似はしたくないのよ」
女性は肩を落としてため息を付いてみせた。初対面の俺でも解るくらいわざとらしく。
「まあ、一応は貴方が取れる選択肢が二つあるのよね」
「二つ、ですか?一つは私の地縛として、もう一つはなんですか?」
俺の問いかけに女性は満面の笑みを向けてきた。
美人に笑顔を向けられているというのに、何か企んでいるのが見え見えでちっとも嬉しくない。だってこの笑顔は、あれだ。古狸共が仕事を押し付けて来る時の笑顔によく似ている。
「もう一つはここで働くことよ」
ほれ見ろ。
「えっと、それは……」
「嫌なら貴方を地縛するしか無いわね。不浄の物は大抵祓われて魂ごと地獄で焼かれてしまうのだけど、ここで働きたくないのなら仕方ないわよねー」
俺の合意はほぼ関係ない。と言った所か。この強引さは営業で何度か経験したこともあるが、実質的に一択しか無い状況を覆すのはまず無理だ。
流石に俺だって消えたいわけではない。それにここで働くと言ってもまだ悪いと決まったわけではないしな。
…わかってる。ボサ髪に大きな
折角、天国らしき場所に居るんだ。せめて生前よりはマシな状況で働ける事を祈るとするさ。
「わかりました。ここで働かせてください。ええと……」
そういえば、これだけ色々な話をしていたはずなのに俺はこの女性の名前を知らない。今更聞くのも間が悪い気がして言いよどんでしまう。
「イナンナよ。イナンナ=エデン。無理言ってしまってごめんなさいね。
「あれ自分、名乗りましたっけ?」
疑問を感じた俺は、女性が名乗ってくれた事を無視して聞き返してしまう。すると、
「聞いてないけれど、貴方がここに来た時に過去を覗かせてもらったからね」
とんでもない答えが帰ってきた。
「ゔぇ…」
思わず、苦い声が漏れる。
あの時の『見えた』ってそういう意味だったのか…。
なんとも言えない不快感が背筋を駆け抜け、俺は無意識のうちに身震いしていた。
過去を覗かれたと言うことは、誰にも話したことのないあんな事やこんな事も全て目の前の
「ごめんなさいね。できたら恨まないでほしいわ。これも仕事なのよ」
「人の過去を覗くのがですか…?」
「覗くこと自体が目的ではないけどね。善悪がどっちつかずな魂を分けるためだったり、今回の長瀬君みたいに判断が付かない場合とかは覗くわ」
そう言われてると確かに理にはかなっている様に思える。読んでいることだって相手に伝えなければいい話だし。
「普段は読んだなんて言わないんだけど、長瀬君にはこれからここで働いてもらうからね。内緒にしてても仕方ないでしょ?」
すっかり俺は働くことになっているようだ。別にいいけど。
イナンナがここの責任者であるのはほぼ間違いない。では他の職員は?…おそらくは居ないだろう。
俺に出されたマグカップはお客様用らしき綺麗なセット物で、お茶汲み道具がある付近に似たようなものがいくつかあるのが見える。と言うかマグはそれしか見えない。イナンナが使っているような私物らしきマグが見当たらない。
そして机の配置もだ。責任者用の大きなデスクがドンと奥に据えられている以外は、書類置き場になっている長机があるだけだ。一応、種類分けはしてあるのか書類棚がいくつか乗っているけれど、一人で捌ける量じゃないのは火を見るよりも明らかである。だが、俺は確信を持って言える。ここの職員はイナンナ、彼女一人だと。
常人なら部屋の光景を見るだけで回れ右したくなりそうなお世辞にも良いとは言えない異常な職場環境。でも、なぜだろうな。ここまで色々な考えを巡らせているのに、あまり嫌って気がしないのは。
「折角だからもう一度名乗るわね。私はイナンナ=エデンよ」
仕切り直しとばかりにイナンナは名乗ると右手をこちらに差し出してきた。
それを見て俺は小さくため息を付いてから、同じ様に右手を差し出す。
「改めて、自分は長瀬、
「騙すような感じでごめんなさい。こちらこそよろしくね。長瀬君」
「それは別に大丈夫です。…それよりなんですけど」
「ん?」
半分くらい流されて働くことになったけれど、今更ながら俺は働く上で最もと言っても過言ではない情報を聞いていなかった。
「ここの仕事ってなんですか?」
「あー。そう言えば、言ってなかったわね」
イナンナはふふんと鼻を鳴らすと得意げに言い放った。
「天部、
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