一歩を踏み出す君に

古河楓@餅スライム

一歩を踏み出す君に

昼過ぎの13時を周った校舎、人っ子一人も声を出さない静けさ。教室の中でしか教師が声を出さない高校。その中に一人屋上に佇む金髪の少女、異質。煙草を吸うでもなくアルコールの入った飲み物を飲むでもなく、ただただ遠くを見つめて佇む少女。誰もいないその孤独の屋上に今日は一人の生徒が入ってきた。


「あん……? お前、授業中だろ。なんでここに来んだ」

「……君は。ヤンキーっていうやつかい?」

「どうとでも言え。アタシはただここに居たいからここにいるだけだ」

「そうかい……」


まるで生気がないような、いかにも不健康なレベルで痩せた男子生徒は少女から少し離れたところに座ると、フェンスによっかかり流れる雲を眺め始める。その間も少女は一点を見つめるが、しかしどうも落ち着かなそうだ。“ここから離れられない”ところに人が来て見られるのがイレギュラーなのだ。


「はぁ……」


男子生徒は頭の後ろに手を組み、片足を立ててまだ空を眺める。眼鏡に反射する雲は時間が過ぎるにつれてどんどんと形を変えていく。どの雲がどの形かなんていう考えもして、やがてそんな考えもどうでもよくなって、無心になっていく。

それがどんどんと少女を不快にさせていった。


「あー…そのままいられるのも鬱陶しい! アタシが話聞くからさっさと言いやがれ!」

「……は?」

「アタシは一人でいたいんだ。だからさっさと出てってもらいたいから話を聞いてやると言ってるんだ」

「……よくわからないな、それは」


少々怪訝そうになる男子生徒は、それでも視線を少女に移そうとしない。ただただ空を眺めて、何もしないことを思案するだけ。それをほんの少し横目で確認した少女はぎこちなく男子生徒のほうを振り向くと、歩いて彼のもとにやってくる。


「いいから早く言え。アタシは早く一人になりたい」

「聞いたってなんもない。俺はただ自分の記憶が一切ないだけだ」

「記憶が……ない?」

「ああ。家にあった手記には俺は3年前に中学校から帰る際に交通事故に遭って昏睡状態に。で、今年目覚めたら記憶喪失になっていた。家族は去年の今頃にこれまた交通事故で死んでる」


そういうと、男子生徒はブレザーを脱いでワイシャツの袖をたくって腕のある一点を少女に示す。そこは他の肌よりも少し赤く、ついこの間まで何かが刺さっていたような、そんな感じだった。


「点滴……」

「そうだ。早いうちに退院できたが今も点滴がないとすぐに倒れる。1,2年寝たきりだと歩行能力も何かを持ち上げるという行為もあまりできなくなる。そして、記憶も……」

「そうか。それは災難だ……で、ここを出てってもらうにはアタシは何をすればいいの?」

「なんも。気が向いたら出てく。強いて言うなら、俺は昔どういう人間で、どういう友達がいて何が特技だったのか。“個性”を思い出したいというだけか」


少年はそう言い終わると今度は寝転がって空を眺め始める。眼鏡越しに空を見つめる瞳はどこか寂しげで……そして若干の絶望が見えるようなものだった。何をしても思い出せない3年前までの記憶。仮に眠る前までに15年の時が経っていたならばそれ即ち15年の損失と同じ。今はもう居ない両親との思い出も一切なく、しかし家には両親の仏壇が1部屋を占拠している。悲しくも、嬉しくもない。ただ冥福を祈るだけ。それをどうにかしたいと思うのももしかしたら必然なのかもしれない。


「なるほどな。じゃあ家になんか特徴的な、趣味みたいなものはおかれてたのか?」

「……だろうな。俺の部屋“らしい”とこにはギターが置いてあったが、それだけだ。今はもう一切コードなんかもわからん」

「……確かに、アタシもそれは少し迷うかもしれないけど。でも別にそれはそれでいいんじゃねぇのか? 確かにその……親御さんとの記憶とかそういうのは戻ってこねーけど、戻ってこねーもんをいつまでもうだうだするんじゃなくて、“新しい自分”を始めたほうがいいんじゃねぇか?」

「新しい自分ねぇ……」


0の記憶から始まり、言語を覚えて、運動することを覚えて自立する。そしてその曖昧な記憶がある0の記憶。この差の大きさは誰もが理解しがたいものがある。それだから、男子生徒はこうして空を眺めるしかないのだろう。


「……そろそろ2時になるが?」

「そうか。じゃあ俺は病院で点滴でも打って帰るか」

「……もう、来ないのか?」

「気が向いたらまたここに来る……まだ答えは出ていないしな」


そういうと、男子生徒は立ち上がって再び校舎に消えていった。


    〇 〇 〇


夕方、高層ビルのガラス越しに夕焼けは反射して地上に赤い光が落ちてくる。高架を走る京成線の8両の電車のドアからも車内に光がスッと入ってくる。病院で点滴を受け、さらに病院食をパックに詰めてもらって家に持ち帰る。記憶がない彼にとってはこれがルーティーンと化していた。それまでの日常と比較すると“非日常”の日常。名前すらわからなかった自分にとって失ってしまうものは何か。そして得るものは何か。


「ただいまー」


京成船橋の近くにある部屋はたいていの場合彼の言葉に返事を返すことはない。心配になって見に来る祖父母が諏訪から来るくらいで、親戚からは腫物扱い。存在意義の頭文字さえその価値に値するかわからない彼にとって記憶がない人々から陰口を叩かれるのは拷問に等しいものであろう。


2階建ての一軒家、リビングの奥にある空間には男子生徒の“記憶にない”両親の仏壇が存在感を出しながら置かれている。他の家よりも若干小さい“家族団らんの場”に向かって視線を送る中年の男女はまるで“一方的に”男子生徒を見守っているようだ。しかし、逆に言えば彼からしたら知らない2名にリビングにいる間はどこに言っても監視されていることになる。


「……さっさと部屋、戻るか」


一人だけ生き残り、しかも“生命保険”や“慰謝料”で億単位の財産を手に入れた彼にとって親の存在は負い目になってしまった。


それもまた、彼の悩みとなっていく。


  〇 〇 〇


さらに1週間が経過しても、男子生徒は授業がある日は毎日屋上に通っては少女と空を眺めた。日によって天気が変わり、雲が空一面を覆うこともあれば、澄み渡って空を眺めるのが眩しすぎるときもあった。そして、今日は雨だ。

さすがにいないと思った男子生徒だったが、決まって自分が行くときには既にいる彼女が今いた場合、濡れてしまって風邪をひくかもしれない。だったらと思った男子生徒は3階にある自身の教室を出ると折り畳みの傘を持って屋上に向かった。


どこの学校も屋上に続く階段というのは薄暗くて不気味であるが、昭和の後期に建てられた彼の通う学校の校舎はさらに怪しさが増していた。一歩一歩を確実に前に出した男子生徒は屋上のドアを開ける。外は午前と同じ土砂降りで、梅雨をほうふつとさせるような激しさであった。


が、そんなときでも少女は変わらず外のある一点を見ているだけだった。


「おい……風邪ひくぞ」

「……あんた、今日も来たのね。大丈夫よ、アタシは雨なんて一切関係ないんだから」

「関係なくねぇよ。風邪ひくだろ。ここに居たいなら止めないからこれをさせ」


そういうと、男子生徒はそんなにでかくない折り畳み傘を入口の近くから下手で少女の足元に投げる。あまりにも筋肉がなさそうな彼の投擲はもちろん少女まで届くわけがなく、少々手前で止まってしまう。


「じゃあな。今日は帰る」

「あ、ちょっとこれ――」


少女が声を上げた瞬間、男子生徒はドアを閉じる。そしてすぐに教室へ引き返していく男子生徒の足音が遠ざかっていく。


「……どうしたらいいのよ、これ」


そして、少女も“させないから”困惑するしかなかった。


  〇 〇 〇


その日の夜、男子生徒は家に帰り普段と同じように生活していた。強いて言うなら濡れて帰ったからいつもより長く風呂に入ったというだけ。眠くなり2階に上がって自分の部屋に行こうとするが……寝ぼけて違う部屋に入ってしまう。そこは“父親”だった人が使っていた書斎と聞かされているところで、それなりにいい机と本棚が並んでおり、机の上に手記のようなノートが置かれているところである。特に用事がないところ故に彼は入ったところがないところ。でも、今日だけは机の上に乗せられた手記に引き寄せられるように入っていった。


「これは……」


特に用事があるわけではないが、一度開いてしまったからにはある程度のところまでは読まないと気になってしまう。そんな精神で手記を読み進めていると、彼はとある一文を見つけた。


『子供が産まれた。医者の私はほぼ安定を……決められた線路の上を走ってきたにすぎないが、この子にはそのようなことをさせたくはない。妻ともよく話し合って“一(はじめ)”と名付けることとする』

『一は小学生になった。少々お調子者だから友達はすぐにできるだろうが誰かに迷惑をかけないかが心配だ。学校というものはまた人生のレールを作ってしまうところだが、一には個性を大事にしてほしい』

『人はみな、違う。”個性“は人それぞれ。自分と他人は違う。自分は他人になれないし、他人も自分になることはできない。寄り添い、共に歩むことはできても根本は違う。これを今度出す著書にまとめよう。そして、これがわかる年になったら一にも読んでもらおう』


そういえば、と彼は手記を机に置いて玄関へ。電気をつけると靴箱の上に観葉植物と一緒にとある本が置かれていた。表紙には白衣を着た男性が笑顔で写り、でかい文字で「有名精神科医、大瀬良誠が語る“個性”とは何か」という題名が赤字で書かれている。


「……読むか」


まだ新しそうな本を手に取り、男子生徒は眠気を抑えながら再び書斎へと戻っていく。200ページくらいの本は“実の父が残したメッセージ”のように感じた彼は夜通し本に目を通したのだった。


  〇 〇 〇


翌日、すっかり雨が収まり青空が広がる昼下がり。男子生徒は今日も迷わず午後の最初の授業が始まる時に屋上に現れた。しかし、今までのような悩みが多すぎて青白い不健康そうな顔ではなく、迷いがなくなって自信がある、青白く不健康そうな顔をしていた。


「……あら、今日は悩みはないのね」

「ああ。もう答えが出たからな」

「へぇ。じゃあ聞かせてもらおうじゃない」

「もちろんだ」


そういうと、男子生徒はまたいつも座っているところに行くと、濡れてないことを確認そして、会談にからゆっくりと腰を下ろす。それからまた雲を眺めるように上を見つめてから口を開いた。


「個性っていうのは探すもんじゃない。だから今、記憶を無くした俺のそれも個性になるってことさ」

「……なるほど?」

「お前もそうだ。ここにずっといるのが個性。俺は記憶をなくしてるのが個性。俺は他人になることができないし、他人も俺になることはできない。だから俺とお前は違う。それが答え。元から探すもんじゃなかったんだ」


ここまで言うと、男子生徒は一瞬目を閉じる。そしてすぐに目を開けるとまたゆっくりと立ち上がる。そして、少女の横に来てまた一点を眺め始めた。


「俺は、変化が怖かった。今までの時間を捨てるのが怖かった。だが、それは絶対に捨てるもんじゃない。自分の強さにできる。だから、俺は俺らしくやるだけだ」

「……そう」

「だから、お前が“どんな存在”だったとしても、それは個性だ。だから、否定するわけじゃないが、一度外に出てみたらどうだ。話を聞いてくれた例もある、俺でよければ案内しよう」

「……あんたって、調子がいいのね。あんなに悩みっきりの陰キャなのに。まあいいわ、考えておくから」

「わかった。それじゃ、俺はまた病院で点滴でも打ってくるとするか」


ここまで言い終わると、男子生徒はまた屋上から校舎へと戻る階段のほうに歩いていく。そして、最後に階段に続くドアを開けると片手をあげて「じゃあな」と手を振って下に降りて行った。いつもは閉じていくドアも開けっ放しで。


「……フフッ。外に出てみないか、かぁ。あれだけ清々しい顔されちゃあ、アタシがここにいる“執着”もなくなっちゃったじゃない。年貢の納め時ってやつね」


  〇 〇 〇


昼過ぎの13時を周った校舎、人っ子一人も声を出さない静けさ。教室の中でしか教師が声を出さない高校。校舎の屋上は誰もおらずただただ燦燦と太陽の光を浴びるだけ。誰もいない孤独の屋上に今日も一人の生徒が入ってきた。


「……あれは」


清々しい顔をした、いかにも不健康なレベルで痩せた男子生徒は、屋上にポツンとおかれた一つの折り畳み傘のところにやってくる。雨に濡れておらず、男性生徒がいつだか“少女”になげた時と同じまんま。しかし、いつも一点を見つめている少女の姿はなく、少女がたっていた場所にはガムテープで×印が書かれていた。


「あの時のまんまか……」


彼はそれを拾い上げると、またいつものフェンスの場所に行き腰を下ろす。今日はまだ来ていないのかもしれない。そう思って待つこと数分。開けはなっていた階段に続くドアから現れたのは少女――ではなく、教師だった。


「おい、なんで屋上にいる。授業をサボるのにも問題はあるが、ここは立ち入り禁止のはずだぞ」

「立ち入り禁止……そんなの書いてなかったはずですけど。そういえばあそこになんか×印あったような」

「そうだ。ちょうど1年前にここから飛び降りた女子生徒がいる。再発防止のためにここは立ち入り禁止だ。早く教室に戻って授業を受けたまえ」

「……わかりました」


何かに気づいた男子生徒は、一度フェンスで身体を支えてから立ち上がると、まっすぐに扉の所に歩いていき……扉を閉めるときにまたいつも少女が立っていた場所を見つめる。


「やっぱ、お前はそういう存在だったか」


目を閉じて、また開ける。それでも少女はいない。ただただ日差しを浴びる緑色をした屋上。しかし、それははじめの一歩を歩みだした彼の最初の記憶になったはずだ。


「俺は、俺らしく」

『そして、アタシはアタシらしく』

「何かが変わっても……その変化が怖くても」

『それがたとえ理解されなくても、見失いそうになっても』

「『自分は、自分らしく』」


歩んでいく。

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