#32 3月14日 知っていること/覚えていること/これまでとこれからの、私たちの日常と生活について
ひんやりとした湿気を感じる空気が漂っている。それを強調するように大学構内は静かだった。ちょうど春休み中で、しかも朝だから当然か。
とはいえ全く誰もいないわけではなく、明らかに学生ではない年齢の人間が散歩をしていたりもする。ここまで来る前は不審な目で見られるのではないかと不安だったが、この様子だと気にされることはなさそうだ。
それでも少なからず場違いを感じてしまって、やや足早になってしまう。できれば早めに通り過ぎてしまいたい。まして迷うなんて勘弁してほしいので、チケットに同封されていた構内図を確認しつつ指定された場所を目指す。
学校らしく道沿いのあちらこちらに桜の木が植えられていた。その枝先は赤みを帯び始めている。どことなく柔らかそうにも見えて、探せば小さなつぼみくらい見つかるかもしれない。
そんな景色を眺めながら落ち着かないままに歩き続け、指定された建物にたどり着いた。何度も見直したから間違いないと思うが、看板も何も見当たらないので確信が持ちにくい。入り口らしき扉は開けっ放しになっていて、建物へ踏み入る抵抗感は若干和らいだ。
入ってすぐのフロアマップで入場券に書かれた部屋を探す。すぐに見つかって、建物内を彷徨うことにはならなそうだ。
そわそわと向かったその部屋の入り口には一人の女性が立っていた。明るい髪色のショートカットで、やや小柄なシルエットだ。湊咲ではない。
拍子抜けしたような、安心したような。
私が近寄るとその女性も気がついたらしく、こちらを向いた。くっきりと整った顔立ちで、鋭い雰囲気。その目元は明らかに寝不足だったけれど、気の強そうな雰囲気は確かに感じられる。
外見で判断するのもアレだが、私にとってはあまり得意ではないタイプに見える。受付か何かだろうか。
「すみません、あの、招待されて……っていうか、これを」
他にやりようもなく、その女性へ声を掛けながら指先で握った入場券を差し出す。
彼女は私の差し出した入場券を一瞥してから、じっとこちらの顔を見つめた。明らかに疲れ切った顔つきだったが、釣り上がり気味の目には強い力がこもっている。
「本当に、いたんですね」
そんな彼女からどこか投げやりにそう言われて、反応に困った。
「えっと……何を」
想定していないかった対応で、こちらの返事は曖昧に濁る。
「あの子の妄想なんじゃないかと思ってました」
彼女の視線が動いて私を眺め回す。値踏みされているような、決して有効的ではない雰囲気。
「それは、どういう」
状況がわからず、不快感よりも困惑が先に出た。
彼女はそこで完全に唇を閉じ、瞼も閉じた。それからまた目を開けた時には、視線の強さは無くなっている。代わりにどこかバツが悪そうな表情で小さく顔を逸らす。
「私は帰って寝ます。あとはお好きにどうぞ」
そしてため息を吐くような調子でそう言われる。
「そう、ですか」
面食らったまま、そう返すしかない。この人の中では何かしらの結論には達したのだろうか。私の知ったことではないといえばそうだけれど。
「どうしても今日に間に合わせなきゃってあの子が言うから、寝てないんですよ」
あの子というのは多分、湊咲のことだと思うけれど。
「入ったら、中から鍵かけといてください」
最後にそう言い置いて、彼女は立ち去ってしまう。
その足音が消えると改めて静かだった。他には誰もいないのだろうか。
場違いと緊張感がぶり返す前に足を動かす。部屋に入って扉を閉め、言われた通りに鍵をかける。
天井がやや高い部屋だ。照明は少ない。目が慣れていないせいもあって薄暗く感じた。見上げると、天井付近には縦横にレールのような物が張り巡らせてある。そこから大きな布が床まで吊り下げられていて、部屋全体を見渡すことは出来ない。
その布が通路を形成するようになっていて、入室した位置から見える絵は1枚だけだ。ぽつりと単独で立てられたパネルに絵が掲げられ、その1枚だけを照らすように強い照明がつけられている。
雨が降っている絵だ。降りしきる雨によって彩度の落ち着いた、どこかの街路。ぽつりと覗くように咲いた紫陽花が鮮やかで、そこが決して暗い場所ではなかったことを主張している。
何が描かれているのか理解して、皮膚が粟立つ。さざめくような寒気が背筋を滑り落ちて、室温と混じった。
大きく息を吸って、舌に触れる空気の見知らぬ味を確かめる。
粘膜に触れたものとは別に、コーヒーの香りと雨に濡れたアスファルトの匂いを錯覚した。
私がこの景色を完璧に覚えているのかと聞かれたら、言葉を濁らせるしかない。もちろん、一枚の絵として成立させるために手が加えられている部分もあるだろうし。
それでもこの空気の肌触りを知っていて、思い描ける。
そんな確信を持って、視界に映る雨で煙った静けさに集中した。
1作目をできる限りに鑑賞し、次の絵へ向かう決意をして周りを見回す。薄暗い通路の先に1枚だけ、今私の立っている位置からも見える絵がある。
その前に立って2作目を鑑賞し、また見渡すとそこでも次の作品だけが照らされて見えた。無言で行き先を示されている。
灯された明かりに従って、湊咲の絵を手繰っていく。
それらはいつかの食卓であったり、高台から見下ろす夕日の町並みだったり、雪に埋もれた町並みだったり。
中には私にとって見覚えがないものもある。広い芝生の庭がある家、長く伸びる白い砂浜、鉄骨がむき出しになったビル。きっとどこかで湊咲が見たのであろう風景が、率直な雰囲気で描かれている。
先日調べてしまった際に見た作品はかなり装飾感があったが、それとはずいぶん作風が異なっているように感じた。
意外なことに、と言っていいのか、画材も作品ごとにまちまちだった。水彩、素描、デジタルあたりが入り混じっている。検索をした時に出てきたのは水彩画ばかりだった気がしたけれど。
どの絵にも共通して感じるのは、明暗と言うより光の存在そのもの。そこに存在した眩しさを、明るさを、鮮やかさを訴えかけてくるような。
描いた人間がそれをどう感じていたのかが読み取れる、なんて。傲慢な思考だと自覚しながら、描かれたその光の印象を辿る。
人気のない駅前、どこかの路地裏、一人暮らしのワンルーム。それ自体はどこにでもありそうな景色の奥行きを確かめて、咀嚼しては通り過ぎていく。
よく見覚えのある喫茶店を描いた一枚は、窓際で自然光に照らされる形で展示されている。柔らかく素朴な居心地の良さや、コーヒーカップとソーサーの触れ合う感触を肌の表面で思い出す。何度も味わったはずの感覚が、これまでにないほど鮮明な質感で思い起こされる。
知っているのに、気づいていなかったこと。それを一つ一つ教えてもらうような気分で。
また次の作品へ向かう。これまでと違って次の灯りは見えなかった。長めに取られた通路を先へ進む。
そして次の光はこれまでと違う形で見える。通路の左右から紗幕がカーテンのように吊り下げられ、その隙間から光が漏れていた。他に進む方向は分からず、紗幕を手で掻き分けるようにしてくぐり、作品と相対する。
これまでの法則に逆らって、3作の絵が横並びに展示されている。
その全体を視界に納めて、一瞬思考が麻痺して。
次の瞬間には息を呑んだ。
――あの日の、桜の絵。
他の作品よりも広めに取られた空間で、同じ構図、しかし色合いの大きく異なる3枚の絵が並んでいる。左から順に夜、明け方、そして朝の光へと。
暗く静かな夜、橙の強い光が支配的な明朝、空色と薄紅が柔らかな朝。
描かれた3枚が切り取っているのはせいぜい数時間。その強烈な光の変化に思考が揺さぶられる。
この表現に、そこに描かれた鮮やかさに嘘や誇張は含まれていないことを、きっと湊咲と私だけが知っている。何も誇張されていないと感じるのに、記憶の中にあるものよりもずっと美しい。
懐かしいとは思わなかった。今この瞬間に、あの日の空気をそのまま感じている気がして。
そしてこの絵を観たことで、ここまでうっすらと感じ続けていた感情が急激に膨れ上がる。
彼女と会わなくなってから感じていたような、穏やかな思いつきや郷愁ではなく。
臨界を超えたような、強い衝動で。
どうしようもなく、今すぐに、会いたくなった。
見回しても次の作品は見当たらない。きっとこれが最後なのだろう。
一呼吸置いて、鑑賞に向けきっていた意識を視覚以外にも行き渡らせる。どこに隠れているんだ。
ここまでしておいて本人がいないはずはないだろう。そんな願望みたいな推測を、微塵も疑うことなく信じられた。
先へ進むと、通路は出口の扉へとつながっている。
そして、そこに。
出口の手前でパイプ椅子に座り、項垂れる姿勢。
ぐったりと座り込んでいるけれど、今日は街灯に照らされていなかった。
こちらへ向けられているのは久しぶりに見る形のつむじ。髪を切ったようで、肩上くらいのボブカットになっている。服はスウェットにデニムという動きやすさを重視していそうな格好だ。入り口にいた女性と同じように夜通し作業していたのだろうか。
その姿を視界に収めて、そこにいてくれたことに安心する。この子が寝崩れている姿なんて、もう見慣れたと思っていたのに。
すぐ側まで近寄るとはっきり寝息が聞こえる。近づいたら起きるかと思ったけれど、姿勢も寝息のリズムも変わらないままだ。
ならば、と手を伸ばす。
直前でためらって、一度止まって。
それから、まぁいいか、と思い直して。
伸ばした指先で、座ったまま眠りこける湊咲の頬をつまんだ。
記憶にある通りの柔らかさで、皮膚と筋肉の弾力が伝わってくる。
「……ん、ぅ」
小さなうめき声がこぼされて、顔が上がる。
私の指先は、湊咲の頬の形を変えたまま。ぼんやりとした寝起きの顔が歪んでいる光景に、思わず笑ってしまう。
「あ……」
私を認識した湊咲の目が見開かれる。髪型を除けば、私のよく知る彼女のままだった。
「おはよう」
言ってから、湊咲の頬から手を離す。
「おはよう……ございます」
湊咲は私に摘まれていた頬を触りながら、眠たげな声で返してくる。
こんな当たり前の挨拶を交わすのも久しぶりで、なんだか不思議だ。
「来てくれたんですね」
そう言って、まだ寝ぼけた湊咲の瞳がふにゃりと笑う。
「そりゃあ、ね」
いざ面と向かってみれば特に気負うこともなく、普通に会話できた。平然とした様を多少は意識しているけれども。
「湊咲も徹夜してたの?」
「うん、さっきまで作ってて……本当は起きてるつもりだったんですけど……」
湊咲は若干バツが悪そうな様子で。
「座ったら寝ちゃいました」
「本当は明日からだったんでしょう?」
チケットの記載は印刷の上からわざわざ訂正されていた。
「そうなんですけど、どうしても奈緒さんに見てほしかったんです、一番最初に」
湊咲はうなずいて、迷いも衒いもなさそうにそんな事を言う。
「それで、えっと……」
言葉を探すように、湊咲の視線がさまよう。
「どう、でしたか?」
そしてあまりにも単刀直入な質問を投げかけられた。
私はどうにか答えようとして、自分の喉から溢れそうなものが何なのか把握できていなくて。一度飲み込む。
「ちょっと恥ずかしかった。見覚えのあるところが、結構あって」
飲み込んだものの代わりにそんなことを言ってしまって、すぐに後悔した。
「……嘘。ちゃんと、言うね」
深呼吸を挟む。息を吐く喉が、自分でも驚くほど震えていた。
もちろん、この展示に対する感想はたくさんあった。その作品にしても展示方法にしても、言えることはたくさんあるだろう。
けれど……細かいことは後回しにしたかった。今すぐに納得のいく言葉にできる自信もなかったし。
じっとこちらを見上げる湊咲の目から、視線を逸らさないようにしながら口を開く。
「湊咲の目には、あんなに綺麗に見えてたんだなって」
見つめ合った大きな瞳に映っていたものを、ここまで確かめた。
「それを、私にも見せてくれたみたいだった」
私の喉が発したものはうまく声に、そして言葉になっているだろうか。内側に渦巻くものがあるのに、どこにでもありそうな言葉にしか変換できない。ここまで見せてもらったものに見合う気は到底しないけれど、それでも続けなければいけない。
流石にそれくらいは、私の義務だろうから。
「去年と一昨年と、湊咲と過ごして」
静かな空間だから、私たちの間に自分の声だけが響いていることを強く認識させられる。
「世界の綺麗なところを見つける方法を、教えてもらったような気になってた」
言ってから、大げさな言葉選びだったような気がして。けれどそれ以上に適切な言い回しも見当たらない。
湊咲の生活の一端を隣で眺めるうちに、自分一人では見逃していたものを見られるようになった。ここ1年で、何度も実感したこと。
その価値がいかほどのものか、うまく量れてはいないけれど。
「でも……湊咲には、もっと綺麗に見えてたんだ」
どうして私が今日ここに呼ばれたのか、はっきりとは分からない。
「それも今、見せてもらって」
それでもここが作られた理由のうち、いくらかは私にも関係があることは分かる。
一方で、湊咲の正確な意図なんてどうでもいいくらい掻き立てられている感情がある。それに急かされるまま、ここに立っているような気がして。最低限の格好はつけていようなんてことも考えていられない。
「羨ましいって、思った」
情けなくも正直な、ここまで作品を見て抱いた最も強い感情。同じものを一緒に見ていても、見え方はこれほどまでに違う。
勢い込んだまま、まだ唇が動く。同時に視線が外れた。私が顔を逸らしたからだ。
「もしくは……」
この1年、自分のささやかな感情に、たくさんの理由を被せて抑えてきた。それが間違いだったとまで言うつもりはない。
けれどここまで来たのなら、こぼれてしまったとしても。
それはそれで、悪くないんじゃないか。
そんな自分に都合のいい考えに抗えなくて。
顔は逸らしたままだ。言い切るまで、湊咲の反応を確かめたくなかった。
「もしくは、また……もっと、教えてほしい」
いよいよ口にしたことを後悔するかもしれない。
それでもいいから。
「湊咲の見え方、知りたくなっちゃったよ」
どうにか言い切って。
引かれたりしないだろうか。何を言っているんだという目で見られたりしないだろうか。
引き伸ばしたって仕方がない。
果たして、と覚悟を決めて湊咲の顔を確かめる。
彼女の顔には、とろりと溶けてしまいそうな笑顔が浮かんでいた。
「……嬉しそうだね」
音がしそうな勢いで、私の肩の力が抜けていく。
なんだよ、もう。
もうちょっと自惚れてもよかったみたいだ。
「うん」
湊咲は小さくうなずいた。ほんの短い返答でも伝わるほど、甘く熱っぽい声。
「嬉しいよ」
言葉通りの感情が、こちらにまで押し寄せてくるような。
「すごく嬉しいです」
湊咲は笑顔を少しだけ整えながら繰り返す。
それから湊咲は椅子の上で身じろいだ。何度か試すようにもぞもぞと動いている。
「……立てないかも」
そして呟くようにそう言った。
「は?」
突然の宣言を受けて、間抜けな声が出る。
「脚に力入んなくて……」
顔を赤くしながら湊咲はそう続けた。
腰が抜けてしまったとか、そういうことだろうか。
「……そんなに?」
諸々を吐露している間は色々考えていたのに、驚いたのは私の方だった。
「そんなに、でした」
湊咲はまた項垂れる。薄暗い中でも分かるほど真っ赤になった耳が、髪の毛の隙間から見えていた。
「もうちょっと座ったままでいいですか」
そんなことを言われると私の方も更に気が抜けて、自然と頬が緩んだ。
「いいよ。そもそも疲れてるでしょう」
眠ってしまっていたとはいえ、湊咲だって早く帰って横になりたいような状態だろう。
本当ならそう勧めた方が良いのかもしれないが、それはそれで惜しいと思ってしまう。今話したいことは、話せるだけ話してしまいたい。ここで半端に間を開けるのは勿体ないような気がした。
という新たな悩みを浮かべていたら、湊咲から次の話題を切り出してくれる。
「会ってすぐの頃、写真展に行ったじゃないですか」
頷いた。あの時のポストカードはまだ見えるところに置いてある。私にとってはある意味で未練みたいなものだったかもしれない。
「あの時から、ずっと思ってたんです」
遠くを見るように目を細めて。
「私の絵を見たら、この人はなんて言うんだろうなって」
湊咲は振り返るようにして、最後に展示されていた絵の方を見る。
「あの頃、見せられるような絵なんてほとんど描いてなかったのに」
そう言いつつ、ちょうどその時期の景色も描かれていた。記憶を頼りに描いたのだろうか。時折スマートフォンで撮っていた写真を元にしたのかもしれない。
「また描き始めてから今日までの動機、それだけでした」
清々しいくらいに、そう言い切る。
私はもう、あの写真展で自分が何を言ったのかも正確には覚えていない。それに湊咲がそれをどのように受け取ったのか知る術もない。
だから湊咲の言葉の意味をそのまま受け取ることを余計に躊躇してしまいそうだった。私にも私の言葉にも、きっとそんな価値はない。あくまで自分の感覚の上ではだけれど。
そして、それはそれとして。
痺れるような、熱のある嬉しさがあるのも確かなことだった。無視できないほどに、他の思考を押し流してしまいそうなほどに。
自分の単純さをどうしようもなく自覚する。それすら嫌ではなくて、呆れてしまいそうだった。
「あ、」
突然そんな声を上げて、湊咲が立ち上がる。
「立てるようになりましたよ」
両手を軽く広げるようにしながら報告された。
立ち上がった湊咲の顔は、私よりもやや高い位置にある。
この年になって大きく身長が変わることもないので当然だけれど、改めて気づいたような気分になる。忘れていたわけではないものの、印象は薄まっていた。
今改めて認識したから、もっと強く覚えていられるだろうか。それともまた日常として継ぎ足していかなければ薄れていくのだろうか。
「私からも話したいことがあって……たぶん長くなるんですけど、聞いてもらってもいいですか」
「もちろん」
うなずく。それも来た理由のうちだ。
湊咲は私の来た道を戻るように、展示の方へ向かう。私は黙って着いていく。
そして先程の桜の絵の前で立ち止まった。二人で並んで絵に身体を向ける。
「前に絵を描いていたときは、目に見えているものがもう少し綺麗だったらいいのになって、いつも思ってて」
暗い中へ浮かび上がるようなライティングがなされた自身の作品を前に、湊咲は話し始める。
「だから、私の思う理想の世界みたいなものを描いてて」
先日調べた、調べてしまった時に見た絵を思い出す。演出や装飾の強い、描いた本人の主張が爆発したような数枚。
「だけど、奈緒さんと景色を見るようになってから」
湊咲は両手を広げ、鳩尾の前で指先同士を合わせる。
「そのままでも、それはすごく素敵で」
ありのままの描写は作品からも確かに伝わってきた。実際に言葉にされたことで、自分がこの展示から読み取ったものに対する答え合わせをしてもらったようで、どこか安心する。
「だから、どこかに残しておきたくて」
湊咲にとっては、写真よりもずっと正確に記録できる方法なのかもしれない。
「自分がそれを描けるのかどうかも、気になったりして」
俯瞰するような位置から作品を眺めながら話が続いていく。
「いくら気持ちが薄くなっても……ずっとやってきたから」
体の前で掲げられたままの湊咲の腕。スウェットの袖はまくり上げられていて、手先はあらわになっている。
「私は絵が描けないわけじゃないと思ってて……画材さえあれば、手は動かせるし」
その手は記憶にあるよりも更に使い込まれているように見えた。
「今も、昔みたいに描くことへの勢いはないんですよ」
湊咲の横顔には苦笑が浮かぶ。
「でも、やれるはずだって思いながらやってみない自分を許せなくなってきて」
他人事として、難儀な話だと思う。
「描くか描かないかであれば、描くほうがマシなんじゃないかって。それくらいは思えるようになって」
言葉が一度途切れる。湊咲が体をこわばらせるような、何かを張り詰めさせるような気配があった。深く息を吐いて、軽く吸い込んで、それから。
「……でも」
湊咲がちらりと顔を傾けるようにして、小さくこちらを向く。こちらも同じくらいのささやかな角度で、横目に視線を合わせる。
「描けるようになったら、一緒にいてもらう理由、なくなっちゃうかなって」
弱々しい声で、そんなことを言う。
静かな空間に染みを作るような、その発言の意味を理解して。
「学校に戻ってから、途中で気がついた」
どうしてそんなことを、と思ってから、私も同じようなものだったと気づく。
つまり私たちは二人とも、色々なことが足りていなかったのだ。
考えも、会話も、自分たちに対する理解も。
「私はもう大丈夫って言ったら、それっきりになるんじゃないかって」
口を挟もうかと思って、留まる。湊咲の話を最後まで聞いてから、改めて話すべきだと思った。
「ほっとけなくて危なそうだから、なし崩しで一緒にいてくれたんじゃないか……とか」
まぁ、それも丸っきり否定できる内容ではないけれども。特に最初の頃はそういう部分も少なからずあった。
「でも、見てもらいたいのも確かで」
私にとっては、そんな葛藤の中に自分が組み込まれていたことが不思議だ。
「どうしていいかわかんなくて、とりあえずひたすら描こうって思って」
湊咲は口元に笑みを浮かべようとして、途中で止めた。
「そうしているうちに連絡の仕方もわからなくなって……もしダメになってたら、今度こそ私、何もできなくなりそうで」
過去の自分を笑い飛ばそうとして、失敗して諦めたように見えた。
言葉は続く。
「それでも忘れられなくて……見てもらいたくて、色々考えて」
湊咲はぐるりと周りを見渡すように振り返る。
「こうなりました」
極端に視界の制限された会場ではあるけれど、彼女は覚えているのだろう。
「最初に考えたより、ずっと大規模になっちゃったんですけど」
湊咲は改めて、今度こそ穏やかに微笑んで、そっと唇を閉じた。
想いの強さという点で、私と湊咲は明らかに非対称だ。
それでも、私の抱いているものが湊咲より弱い想いでも、言わなければいけないことはある。だから口を開いた。
「絵をまた描き始めるのも、ここまで作るのも……どのくらい大変だったのか、私にはわからないけど」
どうやったらここに至ることができるのか私には分からない。もちろん、楽なはずがないのは確かで。
以前の彼女が描いていた絵についても、何か語れるほど知っているわけではない。PCのディスプレイ越しに見た小さい画像が数枚。それだけだ。
だから今と昔のどちらが魅力的なのかは答えられない。
絵に対する意識の変化が良いことだったのかどうかも、私に判断する術はない。
だから、確かに伝えられることだけ。
「去年、湊咲と桜を見ていた時、この瞬間がずっと続いたら、それはすごく幸せだろうなって思ってた」
いい思い出だと思っていたのに。
思い出と呼ぶには、輪郭がはっきりしすぎてしまった。
私たちの眼の前で、ずっと鮮やかなままに佇んでいる3枚の絵。
「この絵を見てると、今、本当にそうなっているような気になる」
あの時触れていた温度や色、音や光。思い出としてではなく、そのものがここにある気がしている。
「もう1年も経って、記憶は整理されちゃってるはずなんだけど」
時間の流れの中で欠落していったであろう感覚や心情。
良くも悪くもそうやって時は経過していく。湊咲がまた絵を描き始めたのだって、そういった側面もきっとあるはずで。
「でもそういうの、湊咲の絵が全部埋めてくれたみたいで……むしろ、それよりも幸せだった」
そしてそれが彼女の手から生み出されたことが嬉しかった。勝手な話だけれど、羨ましいという感情の次くらいにはそう感じている。
「他の絵も、言えばキリがないんだけど、全部すごく……なんていうか、良かった」
私には、湊咲のためにここまでなにか行動できる自信はないけれど。
「だから、呼んでくれてありがとう」
その先をどう切り出そうか考えて、やっぱり考えても無駄だった。
「私は」
出てくるままに口を開くしかない。
「湊咲といて、何もしてなかったなって思ってた」
こればかりは完全に事実だろう。
「そうして欲しいのかなって、思ってたところもあるんだけど」
振り返れば、その推測に甘えていたという見方もできる。そこまで言ってしまうのは自分を責めすぎにも感じるけれど。
「でもまぁ……ただそこに居ただけだった」
ここまで来てこんなことを言うのも、と思いつつ。
「だから、私じゃなくても良かったよなって」
卑屈な自覚だと思われるだろうか。それでも、私にとっては確認作業だ。
そういうことを怠ってきたから、こうなったんじゃないかとも思うし。
「むしろ……最適からはずいぶん遠かったんじゃないかと思う」
結局いつまでも湊咲の抱えていたものに共感をすることはできなかった。私にできたことは、彼女の言い分をただの知識として共有するところまでだ。
「だから今の湊咲が大丈夫なんだったら、そのままのほうが良いんじゃないかって、勝手に考えてた」
私の言葉を咀嚼するような間を空けてから、湊咲は頷く。
「奈緒さんの傍にいて居心地が良かったのは、その通りですね。なんでもなく、ただ一緒にいてくれる人が欲しかったから」
今もあんまり変わらないんですけど、と付け足して。
「しかも、そんな時に助けてくれちゃって」
そう言って、懐かしむような呆れるような形に唇を緩めた。
「……それは縋っちゃいますよ」
言い訳するような、拗ねてみせるような気配を少しだけ滲ませる。
それから照れ隠しみたいに、湊咲は息を吐いた。そしてまた呼吸を挟んでから。
「だからもし何かが少しずれていたら、確かに他の人だったのかもしれないです」
少し体を傾けて、軽く覗き込むような角度で、湊咲は私と顔を合わせる。その視線は、間違いなんてなかったと言わんばかりに満足げで。
そんな表情はずるい。先手を取られたような気分になってしまう。
「でも、奈緒さんだった」
そして、逃げようのない率直さで。
「それで、私にとっては奈緒さんになっちゃった」
あっさりとそんな断言をする。
「もしかしたらもっとちょうどいい人がいたかもしれないし……奈緒さんには迷惑だったかもしれないけど」
そんなことない、と私が返すよりも、湊咲の次の言葉が早かった。
「私は、良かったと思ってます」
シンプルな宣言で、清々しさを手渡されたような気分になる。押し付けられたと言ってもいいくらいだ。
そんなことを言われて悪い気分になろうはずもない。持ち上げられすぎて、足元が不安定になりそうではあったけれど。
誰でもいいと求めていて、その“誰か”になった一人。
まるで刷り込みだ。たまたまその場にいただけの私と、途方に暮れた迷子だった湊咲と。そう認識した上でそれを選ぶのなら、悪いことではないのかもしれなくて。善悪や正否を考えるような問題でもないのだろうか。
そんな事も考えながらまた私も口を開く。
「湊咲が一緒にいてくれるような過ごし方をして、それからまた元の生活に戻って」
彼女と出会ってから半年ほどの間に、非日常が日常になっていった。それからまた手の届かない非日常まで遠ざかった。
「私は、まぁ、一人でも普通に生活をしていくんだなって」
この1年も、湊咲と出会うより前も。生活していく中での不便や渇望はほとんど感じていない。私は多分、そういう人間だ。
「それでも」
偽らざる感覚として、確かに感じていたこと。
「湊咲が一緒に居てくれた方が楽しかったよ」
そう言葉にしてしまったら、自然と口の端が持ち上がった。
「最近でも、何か良いことがあった時とか」
私には、私たちにはこれだけで十分だったのに。
「湊咲に話そうかな、どんな風に伝えようかなって、考えちゃうんだよね」
そんなどうでもいい繋がりを求められていると思えなくて、結局しまい込んでばかりだった。
「最初はまぁ、ほっとけないと思うことも多かったけど」
今の湊咲はどうなんだろう。あの頃より、少しはしっかりしてくれただろうか。していなくてもそれはそれで嬉しいとか、私は思ってしまうのだろうか。
「結局、湊咲と一緒にいるのは楽しくて幸せで、一緒にいたかったんだと思う」
あまりにもシンプルに言い切れてしまって、もっと何か言うことはないだろうかと自問する。しかし何を言ってもそれ以上に表せそうにない。重ねても、ただ濁ってしまうだけになりそうで。
「だから、一緒にいようとしなきゃいけなかったんだよね」
精一杯、前向きに言ってやろうと思って。ため息の代わりに笑ってみせた。
「さっきの……湊咲の見え方をもっと教えて欲しいっていうのもあるし」
それでもこらえきれない呆れが滲んだのは仕方がないところだ。
「私の気持ちはこれくらい」
謙遜ではなく、私が提示できるのはこれだけ。
「ごめん。多分、湊咲が私に向けてくれるものよりずっと弱いと思う」
当然のことだけれど、私たちの間には差も違いもあって、それはそれで認識しなければいけない。なにもかも、その上でのことだろうから。
「でも」
腹に力を入れるように。せめて勢いよく。
「できれば一緒に居たいとは思ってる」
共感までは至れずとも、共有できる日常があるのなら。
「それでもよければ」
勝率の高さを認識してからこんなことを言う自分は、ずるいと思うけれど。
「そのくらいでもよければ、また一緒にいてくれないかな」
さっき湊咲が言っていた通り、出来ることをしないでいるのは、確かに嫌だった。
湊咲は何か言おうと口を開きかけて、途中で止める。そして何も言わずにまた唇を引き結んでから、乱暴なくらい強く頷いた。
私もその先は浮かばなかった。どうしようか迷ってから、まぁいいか、と思う。
さっき触った様子からほぼ化粧はしていなさそうだったし、大丈夫じゃないだろうか。
念の為に耳を澄ましてみる。他の誰かの気配はなさそうだ。
一歩近づいて、湊咲の肩と頭に手を回す。
これもまた、勝率の高い選択ではないか。都合よく考えすぎかな。
抵抗はなく、引き寄せた力に従って湊咲の体がこちらへ傾く。
嫌がられなくてよかったと安堵しながら、湊咲の顔を自分の肩に押し付けるように抱きしめた。音もなくそこに収まった身体が華奢なのは相変わらずだ。
湊咲はされるがままで、しばらくじっとしてから。
「奈緒さんが前に言ってた」
私の肩口に顔を埋めたまま、湊咲が言う。
「言葉を積めばいいってものでもないって」
服越しに吐息の温度が伝わってくすぐったい。
「それって、こういうことですか?」
そんなことを自分が言ったことも、私は覚えていない。
けれど湊咲は覚えていたらしい。
「どうだろう」
言うべきことは、まだいくらでもある気がしたけれど。
「なにか伝わってる?」
腕に込める力を少し強くしてから訊ねてみる。
「……あったかい」
そのまま湊咲はくすくすと笑う。
「それはよかった」
湊咲の腕も私の背中に回る。彼女のほうが上背があるから、鏡で見たら奇妙な姿勢になっていそうだ。
それはそれで、私たちの関係そのままでもある。
器用にはなれなくて、そのくせたまにずるくて、バランスの悪いところもあって。
時間を重ねても、歩み寄れているのかどうかも分からないけれど。それでも手を伸ばしたいと努力はしていこう。
そして思いつく限りにきれいな景色を見て、美味しいご飯を食べて、ゆっくり眠ろう。
これからは成り行きでなく、なし崩しでもなく。
お互いが望む限りに。
私たちは、一緒にいよう。
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