#11 9月21日 スーパーマーケット/路地裏/日が暮れるまで
あの、カレーの日から。
湊咲はもう何度か家に来ている。理由としては調味料が余っているから、
とか、そんなようなものが続いていた。
やってくるのは私の休前日で、頻度は隔週くらい。しかしその度にわざわざ出かけるような内容はお互いに見つからず、結局いつも家で食事をしていた。湊咲が泊まっていったのはカレーの日の一回だけで、あれからはきちんと終電までに帰っている。
彼女が私と一緒に居たがっているのはなんとなく察している。今年一人暮らしを始めたばかりだと言っていたから、ホームシックのようなものだったりするのかもしれない。未だ理由は聞けずじまいではあるものの。
何かしら事情を抱えている気配はあったが、一緒に居る時にそういった片鱗を見せることはあまりない。湊咲の作る料理は文句なく美味しいし、彼女がそれでいいのなら、私にとっては良いことづくめなのも確かだった。
そういうわけで、今日もまた湊咲が来る予定の休前日である。
一つ前の休日予定日は急な出勤によって潰れ、更に今週前半、つまり今日まではかなり忙しかった。人気漫画の新刊発売日が重なって、対応に右往左往させられていた。配本数は到底需要に届かず、私に言われたってどうしようもないようなクレームが飛び交い、もううんざりだ。
実際問題、雑誌の売り上げも含めれば私たちは助けられている立場である。とはいえそれで実作業の重さが変わるわけではない。客未満の相手からクレームを受け付ける謂われもない。
そんな日々をやり過ごして迎える休日。疲労と同じくらい解放感があって、そのために必要なものが脳裏に浮かんでいる。
それについて湊咲が今どう思っているのか、そういえば確認していない。
今日はいつもより早い時間に仕事を切り上げることにしていた。連勤のご褒美ということにさせてほしい。
ということで、今日は食材の買い物から同行することになっていた。普段は時間の都合で湊咲に任せてしまっていたが、たまには献立の相談をしながら歩くのもいいだろう。
湊咲との待ち合わせはいつもの駅前ではなく、常用しているスーパーマーケットの前だ。いつものようにお待たせと挨拶を交わしてから、二人並んで店に入る。
「そういえばさ」
1人ではあまり立ち寄らない野菜売り場を眺めつつ切り出してみる。
「最近はお酒って飲んでるの?」
キノコ類をためつすがめつしている彼女の隣から声をかけた。
舞茸のパックを手に取りながら、湊咲は苦笑いを浮かべる。
「あれからは、全然……ちょっと怖くて」
初体験があんなことになってしまっては、手を出しにくくなるのは当然だろう。
「また飲んでみたいとは、思ってるんですけど」
しかしトラウマのようにはなっていないようだった。
「じゃあ、試しにうちで飲んでみない?」
これ幸いと提案してみる。
「潰れたらそのまま寝れるし、まぁ、多少の面倒は見るよ」
ただ眠ってしまうだけなら何の問題もないし、様子を見てこちらからペースを制御することもできるだろう。
という建前も嘘ではない。しかし言い訳じみた言葉で、なんだか騙しているような気分になってきた。
「……今日は飲みたい気分だから、付き合ってくれると嬉しい、かも」
なので、率直に伝えてしまう。
すると湊咲は、可笑しそうにニッコリと笑って。
「じゃあ、おつまみをたくさん作りましょう」
そう言いながら、丸々とした茄子を手に取った。
買い物を終え家へと帰る途中。今日は酒を買ったせいで荷物がいつもより多く、湊咲と分け合って運んでいた。二人で持てば、水物もさほど辛い重さではない。
「ちょっといいですか」
家に向かういつもの坂道の途中で湊咲に訊ねられる。
「どうしたの?」
「寄り道、したくて」
珍しい申し出だった。この辺りになると住宅ばかりで、ほとんど店もないのではないか。
「最近ちょっと、この辺りの地図を見てたんですけど」
湊咲は買い物袋を手首に引っ掛けてから、スマートフォンを取り出す。
「景色の良さそうな場所があるみたいで」
高低差はそれなりにある土地だが、家屋が密集していて見通しは良くないイメージがあった。探せばそうでもないのだろうか。
「今日は天気も時間もちょうど良さそうで、綺麗なんじゃないかなって」
確かにいつもより少し時間は早くて、ちょうど暮れどきだ。
ビニール袋が手に食い込む感触がありつつ、そわそわとした湊咲の横顔を見ればダメと言う気にはなれなかった。
スマートフォンに表示された地図に従っていつもの道を逸れ、しばらく行ってから家と家の隙間のような路地へ入っていく。自転車はどうにか、バイクも通らないのではないかという狭い道だ。
湊咲は楽しげな足取りで躊躇いなく道を進んでいく。地図を見ているとはいえ、このまま迷子にならないだろうな、と初めて会った時のことを思い出す。
進むうち、左右に並ぶ家がやや古い雰囲気になってきた。暮れてきた空の色も相まって、無意識に刷り込まれたノスタルジーを感じる。そういった町並みに自身のルーツがあるわけでもないのに。
「たぶんこの先なんですけど」
そう言って湊咲が足を向けたのは、両脇を塀に挟まれた古いコンクリートの階段。先はカーブしていて見通せない。
軽快な足取りのまま階段を先に上っていく足首の細さが目についた。
そして、階段を上り終える。
ちょうど一番高いところに、広場とも言えないほどの空間があった。家と家、その塀の間にできた半端なスペース。
私たちの登ってきた階段の反対側は、そのまま急な下り階段になっている。上り階段と下り階段の間、踊り場のような場所だ。どうやらこの辺りで一番高い場所らしい。私たちから見て正面の視界が大きく開けて、住宅街が見下ろせるような角度だった。
そしてその向こう、ちょうど暮れかけの西日となった太陽が正面に見える。一日の終わりに足掻くように強い光を放って風景を照らしていた。
「すごい、ほんとにありましたね」
湊咲はほんのりと高揚した声で、他人事のように言う。
このまま待っていれば、まさに沈んでいく夕日が見られるだろう。知る人ぞ知るようなスポットになっているのか、隅のほうにはささやかながらベンチまで置いてあった。
「ここ、ひっそり地図上にレビューつけられてたんです。景色がきれいってコメントと、1枚だけ写真が載ってて」
それだけを頼りにここまで来てみようなんて、私なら思わなかっただろう。その嗅覚の鋭さと行動力は尊敬できる。
塀の隙間を抜けてきた風が緩やかに流れて、湊咲の長い髪を揺らした。
「今日、急いでる?」
陽の光から目を離せないまま、隣で同じようにしているであろう湊咲に聞いてみた。
買った食材のラインナップ的に、そこそこ調理作業は必要なのだけれど。そして、決してお腹が減っていないわけでもないのだけれど。
時間と天気さえ合えばいつだって見られると、頭では理解しつつも。
この光景を逃すのは、あまりに惜しいと思った。
「いいえ、全然」
湊咲はすぐに、柔らかい声でそう答えた。
ここでのんびりしていったとしても、酒を飲む時間はいくらでもあるだろう。きっと夜は長いから。
「じゃあ、沈むまで見ていこうよ」
そう言って、ベンチの端へ腰掛ける。隣に湊咲も座って、小さなベンチの上で身を寄せ合うように。
ぼんやりと光を眺める合間の箸休めのような気分で、けれどこのまばゆい空気は壊れないように、小さな声で湊咲へ話を向けてみる。
「地図に載ってたって言っても、こんなところどうやって見つけたの?」
本当にこの辺りに住んでいる人間しか通らないであろう道だ。私だって引っ越してきた直後は何度も地図を見ながら歩いたけれど、まるで気が付かなかった。どう見ても、何年も前からあったような場所なのに。
「最近、地図を見るのが好きでたまたま……ええと、そもそも散歩が結構、好きで」
湊咲は途中で首を傾げるようにしながら言葉を続ける。
「ほんと、暇つぶしの散歩なんですけど」
それくらいしかやることがなくて、と自嘲気味に漏らしてから。
「気になった路地とか階段とか、坂道とか入ってみるの、好きなんですよね」
そこまで聞いて、やっぱり合点がいった。
「そうか、それで迷子になったんだ」
言いながら思わず笑ってしまう。
「まぁ、そう……ですね」
ひどく言いにくそうに肯定されて、更に私の笑いを誘った。
「今日はわざわざ探してきてくれたの?」
「えぇと、実は、梅雨のあの時以来ちゃんと反省して」
喫茶店で助けを求めてきた時のことだろう。もうずっと前の事のように感じる。
「ある程度目星をつけて、調べるようにはなりました」
それはなんというか、少し安心する話だった。
「そうやって調べたから見つけられる場所もたくさんあって、ここはそういう感じです」
湊咲がちらりとこちらを向く。
「ある意味、あの時助けてもらえたからというか」
声の焦点が、明らかに私へと合わされて。ここまでよりも少しだけ輪郭を強めて届けられる。
「たぶんあの時、あのまま一人だったら、散歩することも苦手になっていたと思うので」
些細なトラウマや苦手意識が心に小さく突き刺さって、いつまでもストレスがわだかまるような。ふとよぎる記憶に水を差され続けてしまうような。そういうことだと思う。
私の方も、彼女を助けた当時の心境をぼんやりと思い出す。声を掛けてくる前から困りきった様子だった湊咲を積極的に助けしようとしたわけではないし、実際の行動に関しては大したことをしたわけではないけれど。
「それは、まぁ、なんか、良かった」
そんな行いに改めて感謝を向けられて、どうしていいか分からないまま返す。
「照れてます?」
そう言いながら、湊咲は身を寄せるようにして顔を覗き込んでくる。
肩を押し返して、見ないでほしいと避けた。
彼女は楽しげに笑って、されるがままに離れる。
もちろんここは生活道路なので、ちらほらと通り過ぎていく人はいる。
聞かれたら恥ずかしいようなやり取りだ。
けれど頬の熱さは西日の温度と混じって、外からは分からないだろう。
そんな安心もあったりして。
この子と会ってから、大体3ヶ月。季節1つ分くらい。その中で奇妙な距離の縮めかたをして、今はこうして二人で一緒にいる。
大半の友人よりも距離感が近くなってしまったような気がするけれど、きっとお互いに言わないでいることはあって、心を許しきっているとは言い難い。いびつな関係と言えばそうだろう。ふと振り返って、いったい自分は何をしているんだろうかと思う瞬間もある。
それでも今、この景色を見られて良かったと思っている。
私はそんなことを、考えるでもなく反芻しつつ。
狭いベンチの上、二人で身を寄せ合って。
朱と紺が混じり合った空に時間が融けていく様を、静かに眺めていた。
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