#9 8月9日 カレー/火傷/落ちる

 

 早番の日である。パソコンと向き合う時間が長い日で、肩と目に疲れが溜まっていた。


 日が傾いた頃に職場を出て、待ち合わせ場所である駅へと向かう。今更ながら緊張と警戒心がじわじわと湧いて来た。往生際が悪いと自分でも思う。


 駅前で佇んでいる羽鳥湊咲が1人であることを遠目に確認して、ひっそりと安堵した。


「お待たせしました」


 声をかけると、彼女は私を見て嬉しそうに笑った。


「全然です。ちょっと早めに着いたので、買い物済ませちゃってました」


 袋越しに赤や黄色といった鮮やかな色味が見える。自分が食料を買った時とは大きく異なる様相だ。


「ありがとう、持つよ」


 スーパーの袋の持ち手へ手を伸ばし、有無を言わせず受け取ってしまう。


「あっ、ありがとうございます」


 彼女は恐縮した風に肩を丸める。


 受け取ったついでに袋の中を覗き見てみる。見覚えのある長方形の箱が入っていた。


「カレーにしました。ベタですけど」


 私の視線を追いかけていたのか、隣から補足される。なるほど間違いがない。


「調味料とか、どのくらいあるか分からなかったので」


 賢明な判断である。基本的に直接つけたりかけたりするような調味料しか常備していない。


「あと、パプリカがすごく良い色をしていたので夏野菜カレーです」


 季節感もバッチリだった。期待は高まる。そのまましばらく並んで帰路を歩き、ゆるく長い上り坂をしばらく歩いたあたりで。


「あっ」


 何か重大なことを思い出したかのように、羽鳥湊咲が突然声を上げた。


「白いご飯、あります……?」


 そしてそっと窺うように尋ねられた。


「いくらなんでも、それくらいはある」


 ほとんど自炊していないとはいえ、米くらいは自分で炊いている。今現在、炊飯器の中は空だけど。


「冷凍してるのもあるけど……せっかくだし炊きましょうか」


 カレーだったら10分20分でできるものでもないだろうし、先に仕掛ければ調理中に炊きあがるだろう。


「よかった……あと、余った分は置いていったら食べてくれます?」


 家にあるのはそこそこの大きさの行平鍋だが、いっぱいに作ったら今晩だけでは食べ切れない。カレーを少量で作るわけにも行かないだろうし。


「もちろん、喜んで」


 2日目のカレー、なんてこともよく言われる。自分で作らないので、実家を出てからはそういうのもご無沙汰だ。


「じゃあ作り置き分も考えて作っちゃいますね」


 そうやって話しながら、羽鳥湊咲に合わせていつもより狭い歩幅で歩く。無意識にでも歩けるような道だから、歩く速度の違いを如実に感じた。





  

 調理器具と調味料の場所を教え、棚や冷蔵庫を漁る許可を出し、炊飯器のスイッチを押してしまえば、私の作業はもう無さそうだった。もとより狭い台所で、二人で立つのは非効率だ。


 ということで家主でありながら台所に居場所を失った私は、シェフの許可を得た上でリビングスペースで時間を潰すことになる。ちょうど読みかけの本があったので、順当にそれを手に取った。


 読みながらも紹介文を書くことを見据えて、印象に残ったページには付箋を貼る。時折その付箋にコメントも書き加えつつ、ページをめくっていく。


 調理器具の立てる音が穏やかに流れている。音に澱みはなく、手際が良さそうな気配は十分にあった。


 時間が経って読書とメモに意識が集中するほど、自分以外の誰かがそこにいる気配が遠ざかっていく。けれど決して消えはしない。遠くにぼやけるように、空気と混じる。


 意識に引っかかるセリフを見つけて、付箋に手を伸ばした。一言コメントを書き付けてから貼り付けて、また行間に戻る。手慣れた流れ。


 ある意味、純粋に本を読む機会は減ってしまった――どころか、もうほとんどないだろう。どこかで絶対に、今読んでいるこれは紹介できるのか、どう紹介するかという思考がよぎる。完全に仕事と切り離した状態で文字を追うことは、きっともう不可能だ。


 別に、嫌じゃない。そういう思考をするようになったからこそ気づけた魅力はたくさんある。それに感想を言語化しようとすれば自分自身の印象も深まる。そういう意味で、こういう立場の書店員というのは私の性には合っていたのかもしれないと思う。仕事と趣味が繋がっても、楽しみは損なわれない。


 結果論になるが、それなりに幸せなのかもしれなかった。だからといって職を吟味することが無駄だとも思わないけれど。


 ふと強く漂ってきた香りで、紙面から意識が浮いた。カレーのルゥが鍋へ投入されたらしい。もうすぐ出来上がるのだろうか。


 強い香りに空腹を呼び起こされて、集中を見失ってしまった。それはそれで悪くない。体勢は変えないままページを捲る手を止め、目で文字を追うこともやめた。


 羽鳥湊咲の料理が本当に上手いのかどうかも、そういえば未知だ。カレーなら余程のことがない限り失敗するようなこともないだろうか。


 ちらりとキッチンを眺める。ガスコンロに向かう羽鳥湊咲の横顔はどことなく楽しそうに見えた。思いつめたような表情の印象が強かったから、なんだか安心したような気分になる。


 油の弾ける音が聞こえてきた。それから少し間を開けて。


「おまたせしました、できました」


 言いながら、羽鳥湊咲がサラダの載った皿を持ってこちらへやってくる。さすがに私も読書の姿勢を中断して、食卓の準備を手伝う。


「意外とすぐ出来るんだね」


 私が台所を離れてから1時間もかかっていない。カレーは長時間煮込むのがセオリーなのかと思っていた。


「売ってるカレーのルゥって優秀だから、あんまり頑張らなくても美味しいんですよ」


 そう言いながら運ばれてきた皿は、色鮮やかに火の通された野菜が乗ったカレーライス。飲食店で働いているというのは伊達ではないのか、盛り付けもきちんと考えられているみたいだ。彩度の高い華やかさで、口に運ぶ前から気分と食欲を高揚させてくれる見た目だった。


 食器を並べ終わり、羽鳥湊咲と向き合うように食卓に着く。一人暮らし用の小さいローテーブルだから、二人分の食事で色の密度が高い。


「たしかにこれは夏っぽくて、いいね」


 家でこんなに丁寧な料理を眺めることはまずない。もはや何の感慨もない、見慣れた部屋の風景や食器とのコントラストは思っていたよりも楽しくて、頬が緩んだ。


「……珍しく語彙力なくないですか?」


 意外そうな顔で、正面からそんなことを言われる。


 珍しく、と言われるほどあなたと会話していないのではないかと思った。が、店のSNSアカウントを見られていることを忘れていた。仕事の一環としてそれなりに考えて書いているから、その差かもしれない。


 それにしても、語彙力がある方だと思われていたのか。それはまぁ、悪い気分ではないけれど。


「……いつも言葉を積めばいいってもんでもないし」


 苦し紛れに返した。適当なだけでもある。


「なるほど、確かに」


 それでも、なんだか納得したような顔でうなずかれる。なにか認識がすれ違った気もしたが、訂正するのも億劫だった。


「まぁ、食べましょう。お腹も空いたし」


 騙してしまったような気分が形になる前に意識を次へ進める。自宅で誰かが作った料理を食べるなんて、ずいぶんと久しぶりだった。


「いただきます」


 とりあえずサラダに手を伸ばす。ドレッシングが掛かっているのではなく、オイルが全体にまぶしてあるようなサラダだった。


 他に音のない部屋に、しゃりしゃりと二人でサラダを咀嚼する音が響く。適度な塩味の奥から葉野菜のほのかな苦味が感じられて、こういう食べ方も良いなと思う。


 そして次にカレールゥとともにパプリカを拾い上げ、さっそく口に入れようとする。


「野菜、特に熱いから気をつけてくださいね」


 かぶりつく寸前に正面からそう声をかけられた。ぎりぎりのところで口元からスプーンを放し、繰り返し息を吹きかける。念のため十二分にそうしてから、改めて口へ運んだ。


 しゃくりと小気味よく歯が食い込んで、パプリカの肉厚な断面から汁気があふれる。まだしっかり熱かったが、火傷はしないで済んだ。カレーの香りの上に華やかな香りが混じり、口いっぱいに明るい甘みが広がる。


「おいしい」


 味わって飲み込んでから、率直に。


「でも、危ないところだった」


 しっかりと息を吹きかけた後でも十分に熱かった。これだけ肉厚であればそうだろうと思いつつ、指摘されなければ歯を立てるまで気が付かなかっただろう。


 羽鳥湊咲はにこにこと楽しそうに笑いながら、次の一口へ向かう私を眺めていた。


「……食べないの?」


 私だけ食べ進めているような状況だけど。


「作ったものを美味しそうに食べてもらうのって、嬉しいんだなって」


 彼女はくすぐったそうな声でそう言う。


「アルバイトの時はそうじゃないの?」


「バイト中はキッチンにこもりっぱなしだから、お客さんとは会わなくて」


 だから選んだんですけど、と言いながら、彼女はようやく自分のカレーへスプーンを差し入れる。


「そもそもほぼマニュアルだから、自分が作ったっていう感覚も薄くて」


 彼女のスプーンの上にはきれいに焼き目の付いたナスが乗っかった。


「まぁ、今日も全然特別なことはしてないんですけど」


「私にとっては十分特別だからね」


 自分ではまずやらないだろう。もしも仮にやってみたとして、せいぜいカレールゥの箱の指示に従うところまでだ。


 羽鳥湊咲は目の前で照れたようにはにかんだあと、躊躇いもなく大きな一口を頬張って。


「っ!」


 口を押さえ、おそらくその熱さにもだえ始める。


 自分が言ったことを一瞬で忘れていたらしい。


 本日の迂闊1つ目と、頭の片隅でカウントした。





 

 それからは火傷に気をつけつつ、お互いが目の前の食事を平らげた。


 空いた皿を見て、満腹感に心が鈍る前に立ち上がる。


「洗い物はさせて、流石に」


 羽鳥湊咲はやや迷うような間を空けてからうなずいた。


「じゃあ、お願いしちゃいます」


 適当に皿を重ねてキッチンまで持っていく。流しがいっぱいになるほどの皿を一度に洗うのも久しぶりで、普段は億劫でしかない皿洗いもどこか新鮮だった。


 この調理のために買ってきてくれたのであろう調味料の小瓶が数本並んでいる。それなりに余っていて、またこうやって来るのだろうか。そうだとしたら、きっと楽しみにできる。そのくらいには美味しかったし、いい時間だった。


 リラックスした非日常とでも言えばいいだろうか。彼女とは話が弾む瞬間もそれなりにあるけれど、話題が見つからない時は自然な無言でいられる気がしている。無理に会話をし続けようとしないで済むのは気楽だった。


 水切りかごのキャパシティをやや超えた分の皿を、崩れないようにうまく立て掛けた。吊したタオルで手を拭ってから、机を拭くための濡れ布巾を持って戻る。


 すると、羽鳥湊咲はベッドの側面にもたれかかるようにして眠っていた。


 そこで寝るんかい、と驚きの混じった突っ込みが脳をよぎる。これも迂闊といえば迂闊だろうか。それとも。


 眠った顔を眺めてみる。目元の隈は相変わらずだった。


 お腹が一杯になったら眠くなるなんて子供みたいだ、なんて。


 微笑ましい気持ちになっていいものだろうか。


 家に来たいと言った時の様子といい、消える気配のない隈といい、楽観的な解釈を素直に飲み込めないところがある。休学していると言っていたのも、何か関係があるのだろうか。


 放っておけない気もするし、深入りすべきでない気もする。


 少なくとも、私を騙して陥れるようなタイプではないのだろうと感じてはいた。そういった警戒心は、ひとまずもう置いておけるだろう。


 こうやって寝顔を眺めていても、わかることは彼女の鼻筋の整い具合くらいだ。寝顔からはあまり幼い印象を感じなくて、童顔に見える原因は主に目元だったらしい。


 観察しながら、濡れた布巾を握りしめたままだった。彼女が眠っていようがいまいが、どうせテーブルは拭かなければならない。起こしてしまわないように、いつもより静かな動きを意識して布巾を走らせる。


 それから本を開きつつしばらく待ってみたが、羽鳥湊咲が起きる様子はない。もう終電に間に合うかどうか怪しい時間になっている。彼女も一人暮らしのようだったから、特に問題はないのかもしれない。


 まぁ、いいか。今日は鍵をなくしていたりもしないだろうし。


 私は私で寝支度を整えるため、シャワーを浴びることにした。


 裸になって温かい湯をかぶりながら、結果として今日もまた奇妙なイベントだったなと思う。


 想像もしていないような出来事が発生することに、慣れつつあるような気もした。そういう相手として羽鳥湊咲を認識しつつある。新しい何かを運んできてくれる人、なんて言ったら美化しすぎではあるけれども。


 なんにせよ、彼女の作ったご飯は美味しかった。


 それにしてももうちょっと手伝うべきだっただろうか。何ができたかと考えると、何も思い浮かばないけれど。


 そんなことをつらつらと考えながらシャワーを浴び終える。


 部屋に戻ると、羽鳥湊咲は崩れ落ちるように床に横になっていた。ぐしゃり、なんて擬音で形容したくなるような、ちょっとホラーな体勢だ。髪の毛が散らばるようにして顔を隠しているのもそれに拍車をかける。


「……泊まっていっていいけど、そのまま寝ると寝違えるよ」


 試しに声を掛けてみたが、反応はない。静かな部屋に独り言のように響いて、ほんのりと気恥ずかしい。


 体勢を整えてあげようにも、テーブルとベッドの間で身動きも取らせにくい。


 せめてもとタオルケットをベッドの上から剥がし、適当に掛けてやった。寝息は普通だったから、寝苦しいようなことは無さそうだ。


 実は買っておいたアイスクリームが冷凍庫に入っているのだが……まぁ、今食べる必要はない。


 一応、起きてくる可能性を考えて少し待つことにした。夕飯前に読んでいた本を読み切ってしまいたかったのもある。しかし結局、その一冊を読み終わっても羽鳥湊咲は起きなかった。


 諦めて自分の寝支度を済ませ、ベッドに横たわる。


 冷房の薄い動作音の中、独り言を承知で呟いてみる。


「おやすみ」

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