#1 6月9日 雨/迷子/あじさい


 そろそろ折りたたみ傘を開こうかと迷っていたら、目的の喫茶店に着いてしまった。ほとんど濡れることなく到着できたのは何よりである。


 扉を開き、ささやかなベルの音とともに降り初めの雨から逃れた。もう馴染みの店主へ人差し指を立てて見せると、空いていたカウンターを手で示される。


 店内にはカウンター席が4つと2人掛けの机が3つある。私の座った席の左右以外はすべて埋まっていた。住宅街に突然存在しているような店なので、平日の昼間からこんなに人が入っているのは珍しい。


 カバンを足元の荷物入れに放り込んだ。読もうと思っていた本以外には財布とスマートフォン、あとは折りたたみ傘しか入っていないから扱いは適当だ。一応メニューを手に取ったが、いつも通りの注文をするつもりでいた。改めてメニューを眺めてみても心は変わらない。お冷が置かれるのと入れ違いにオムライスとコーヒーを注文する。


 他の客がいなければ店主と多少の会話をすることもあるが、今日はそれ以上特に言葉を交わすこともなかった。


 見るとなし、店の奥側の大きな窓を眺める。まだガラス窓の水滴も目立たないくらい、それでも確かに雨模様だ。窓際の席では主婦らしき二人組が小声のお喋りに夢中になっている。


 視線を戻し、結露まみれのお冷を取って小さく一口。


 慣れ親しんだ非日常。休日の肌触り。


 手慰みにスマートフォンを取り出して、薄い意識で眺める。今日は読書が主目的とはいえ、本を読み始めるには空腹すぎた。


 顔を上げてみると奥の厨房がわずかに覗けて、おそらく私のオムライスが調理されている様子がチラチラと見える。店内に漂うコーヒーの香りに混じっているであろう、ケチャップの匂いを探してみる。


 世界が薄い雲に覆われた、梅雨真っ盛りのとある木曜日。


 穏やかな昼下がりのことである。




 からん、と入り口のベルが鳴った。釣られて反射的に意識を向ける。


「ひ、一人なんです、けど」


 耳に入ってきただけでもわかるほど、おっかなびっくりの声。若い女性のようだ。


「どうぞ」


 キッチンから顔を覗かせた店主は穏やかにカウンターを指した。当然、私の隣の席だ。それしか空いていないから当然ではある。


 隣席が埋まったことで僅かな圧迫感がある。仕方のないことだけれど。


 どこかぎこちない様子で着席して一息ついている隣人。入るのに緊張するような店でもないと思うが、人それぞれだろうか。


 あまり様子を窺うのも趣味が悪いと、もう一度窓側を眺めてみる。雨脚はやや強まっていて、小雨くらいの降り方はしていた。隣の彼女は、もしかすると雨宿りだろうか。


 などと考えたところで私のオムライスが運ばれてきた。淡く湯気を立てながら私の目の前に置かれる。


 タイミングを狙っていたような様子で、隣の女性が去り際の店主を呼び止める。


「あの、私も、オムライスを」


「かしこまりました、少々お待ち下さい」


 見ると食べたくなるとか、そういうことだろうか。好きにしてくれればいい。


 口の中でいただきますと唱えてから、スプーンを手に取りつややかな卵の表面へ差し入れる。丁寧に形作られたものを崩す、ひとつまみくらいの背徳感。そしてしっかりと色づいたチキンライスが顕わになって、内心は大げさなくらいに高揚した。


 まとめて頬張ると、ケチャップとバターの強い風味に卵の柔らかい旨味が交じる。米粒とミックスベジタブル、さいの目に切られた鶏肉の食感の違いを確かめるように噛み締めていく。


 そんな風に黙々と、むぐむぐと食べ進める。


 私が半分ほど食べ終えたところで、隣席の分も運ばれてきた。食べる前に小さく手を合わせていただきますと呟いていて、育ちが良さそうだなと思った。


 空腹が満たされるのに比例して目の前の皿は白くなっていく。体感としてはあっという間に最後の一口になって、名残惜しい。近所なのでまた来ればいい話ではあるけれど。


 そしていつも通りに美味しかったオムライスを食べ終えて一息ついた。滑らかに店主がやってきて目の前の皿を下げていく。ついでに隣にも同じようにしていた。食べ終わるの早いな。


 満たされた気だるさに任せて再びスマートフォンに指を這わせていたら、隣席の分と一緒にコーヒーが運ばれてくる。


 主目的の読書に移らねばならないが、やや億劫だ。あんまり話題だから義務的に買ったこの本、あんまり面白そうじゃないんだよなぁ……


 ひとまず置かれたカップを手にとって、唇に触れさせようとした、その時。


「あの、すみません……」


 小さくささやく程度の呼びかけだったが、何も構えていなかったのでぎょっとする。手に持ったままのコーヒーをこぼさずに済んだのは僥倖だ。


「……私、ですか?」


 顔半分だけ、大いなる躊躇いとともに振り向きながら。


「はい、あの……ちょっとお聞きしたいんですけど」


 当然だが、声を掛けてきたのは隣席の食べるのが早い女性だった。背中までは届く長さの髪は湿気でところどころ跳ねていて、顔立ちは思ったより幼い。落ち着かない表情がその幼さを余計に際立てていて、まだ十代に見える。その割に目元にはくっきりとした隈が見て取れて、違和感が引っかかった。


 彼女は薄手のカーディガンの内側でこれでもかというほど肩を縮こませている。落ち着かなさと緊張が、驚きの消えていないこちらまで伝わってくるような様子だ。


「ここ、最寄り駅ってどこですか……?」


 そんなことわざわざ聞かずとも、スマホで調べればいいのに、と警戒心が高まる。しかし無視するほどの内容でもない。


「XX駅ですけど……」


 最寄りと大声で言うにはちょっと遠いが、一番近いのは確かだ。


「XX駅……」


 つぶやくように反芻される。なんだか途方に暮れたような、ちょっとした絶望を感じさせる雰囲気だった。


「あの、ここから駅まで、どのくらいかかります……?」


 おそるおそる尋ねられる。


「歩いて15分くらいですかね」


 正確な距離を覚えているわけではないが、私の足ではそのくらいなはず。嘘をつく理由も特にない。


 店内の抑えられた照明でも彼女の顔が青ざめていくのがわかる。理由は知らないが、絶句した姿は気の毒に見えた。


 そんな彼女を尻目にコーヒーは湯気を立ち上らせ続けていて、窓際のマダムたちの会話は途切れることを知らない。やや強まった雨は窓の外の植物をしっとりと濡らしている。


 どうしようか。私のコーヒーも冷めちゃうんだけど。かと言って、放り投げて自分の休日へ向き直るには目の前の様子が深刻すぎた。


 対応と反応に迷っていると、ちらりと覗くように目を合わされる。


 反射的に、面倒なことになりそうだと思う。


「あの……私、道に迷ってて」


 このご時世、こんな町中で道に迷うことがあるのだろうか。


「案内、して、もらえませんか……えぇと、その、駅まで」


 そんな懇願が絞り出される。


 今現在、そして入店した時の様子も加味すれば、本当に困っているように見えなくもない。


 しかし即答できるほどお人好しでもない。


「スマホの地図とか、ありませんか?」


 反射的に語調の柔らかさは意識していて、半端な外面の取り繕いを自覚する。


「充電し忘れて……電池切れちゃってて」


 悲痛な面持ちでそう言われた。


 本当かよ、今時?


 正直にそう思ってしまう。さすがに口には出さなかったが。


 むしろ、口に出してしまうべきだったかもしれない。なにしろ怪しかった。


 しかしその割には様子が真に迫りすぎている気もした。そういう芝居なのかもしれないけれど。


 どうしようかな、と視線をさまよわせる。ちらりとカウンターの中が視界に入って、店主が聞き耳を立てている気配がある。傍から見てあまりにも怪しければ介入してくれると信じておこう。


「私、OO駅の辺りに住んでるんですけど……散歩してたら歩きすぎちゃって……スマホの電池切れちゃって……雨降ってきて、お腹すいてて」


 怪しいという自覚はあったのか、やや滅裂な弁明がなされる。


 一応、状況からすれば特に違和感のない内容ではあった。土地勘のない場所を方向感覚もなく歩き続けるという行為がどれほど一般的なのかは分からないけれども。私だったら3分に一回は地図を確認したくなるし、命綱としてのスマホは何より気にしてしまうだろうし。


 そういう疑いを捨てきれるわけではない。しかし私の方としても状況は概ね詰んでいた。無視すればひどく後味が悪いのはもう確かだったし、詐欺の類かどうかを先に確かめる術もない。断るとしたら、こちらから能動的に見捨てるという選択をしなければならなくなってしまった。


 数秒間、全力で考えてみた後。


「……まぁ、駅まで案内するだけなら」


 根負けした。予想される罪悪感と警戒心を天秤にかけ、今この瞬間の緊張感も相まって、そう答えてしまった。せめて警戒している気配は出しておく。


「あっ……ありがとうございます」


 背まで縮こめるように頭を下げながら、息を押し出すような声で感謝された。


 まぁ、それはそれとして。


「……とりあえず、冷める前にコーヒー飲みません?」


 目の前のカップのことを忘れていたらしい彼女は、「あ」と声を漏らしてから慌ててうなずいて、コーヒーを一口含んだ。ゆっくりと飲み下して、おいしい、と呟きが漏れる。


 そこで私もやっと、改めて自分のカップを口に運ぶことができた。





 

 私の淡い期待をよそに、コーヒーを飲み終わっても雨は止んでいなかった。むしろ強まっていた。


 しかし今も心細そうな様子を隠しきれていない隣席を放置するのも落ち着かない。もちろん、尻目に読書なんてできるはずもなく。


 雨は止んでいなかったが、おそらく会話を聴いていたであろう店主が気を利かせてくれて、傘のない隣の女性へビニール傘を貸してくれるとのことだった。


 彼女は平身低頭、落ち着かなさのままに何度も店主へ頭を下げていた。


 後日ちゃんと返しに来てほしい。私が今後気まずくなるから。


 改めて立って並んでみると、私よりもやや上背がある。肩が細いような、華奢な印象が強いシルエットだった。


 支払いを終え店を出て、私は自分の折りたたみ傘を開いた。コーヒーが熱かった頃よりも、雨粒ははっきりと大きくなっている。冷房の効いた店内との温度差で、余計に湿気の重さを感じた。


「じゃあ、こっちね」


 先導するように屋根のないところまで踏み出す。傘の持ち手越しに、雨粒の当たるささやかな振動を感じる。


 昼間の往来とはいえ、見知らぬ他人としばらく二人きり。私の方だってそれなりに緊張も、警戒もするシチュエーションではある。


 気を抜くと早足になってしまいそうなところを抑えて歩く。時折顔半分だけ振り向いて確かめてみると、彼女はぴったり後ろに着いてきていた。隣に並ばれたとしても会話のネタが思いつかないので助かる。


 アスファルトの吸水キャパシティはとっくに超えていて、一歩ごとに水音が立つ。後ろを歩く彼女へ水を跳ね飛ばさないよう、やはり足取りは穏やかにしておくべきだろう。


「あじさい……」


 傘を叩く鈍い音へ、不意に背後のつぶやきが混じった。


 釣られて見渡すと、左手側の家の玄関先に青紫色のあじさいがもこもこと咲いていた。


「濡れていたほうが、やっぱり綺麗ですね」


 続いた言葉は、語りかけられているのかどうか怪しいくらいの声量。先程までの様子が嘘のように、楽しげな声色だった。花が好きなのだろうか?


「そうかもしれない、ですね」


 一応、返事はしておく。


 意識したことがなかった。咲いているのを見かけても、いつもぼんやりと季節を感じる程度。


 しかしそう思って見てみれば、濡れたことで光沢が増して瑞々しさが際立っている気がした。はっきりとした色味も灰色の空と対称的で、言われてみれば晴天よりも相応しいように感じる。


 一度そう言われてしまうと、紫陽花が視界に入るたびに目を向けてしまう。季節柄、思ったよりも頻繁に見つかる。このあたりは毎日歩いている出勤路なのにほとんど意識してこなかった。


 そうやっているうちに周りの景色は人工的な賑やかさを増していき、紫陽花を見かける頻度が減っていく。駅へ向かうゆるく長い下り坂を歩きつづけて、ほどなく到着した。この辺りではそこそこ規模の大きい駅だ。


「そこを曲がると改札ですね」


 背後に向かって伝えつつ、言葉通り道を折れる。見慣れた駅の入り口である。


「あぁ……!」


 安堵の嘆息は、思ったよりも強い勢いで吐き出された。


「ありがとうございます、ほんと、助かりました」


 傘の下で勢いよく頭を下げながらお礼を言われる。


「今後は充電に気をつけてくださいね」


「はい……」


 気をつけます、と噛みしめるように言っていた。そうしてくれ。


 改札を通ってからもう一度こちらへ頭を下げた彼女へ軽く手を上げて応える。そしてホームへ向かう階段を上っていく背中を、一応見届けた。


 あっけなく、といえばあっけなく。これ以外にどんな結末があったのかと聞かれたら答えられないけれど。


 そして私はこの後どうしようか。


 知らぬ他人と一緒だったことによる気疲れも、それなりにあった。


 それでも、喫茶店に行った本来の目的である読書は全く捗っていない。カバンの中の重さがこのままでは無駄になってしまう。


 少し迷ってから、来た道をそのまま戻ることにした。


 コーヒー、お代わりの料金で対応してくれないだろうかと、みみっちい事を考える。


 喫茶店へと戻る道中、いつになく紫陽花の花が目について。


 これはこれで悪い気分ではないなと、他人事のように思った。

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