第2話 探偵の目覚め
廊下のはしで黙りこくったこげ茶の扉を、いつもの通り、
扉を押して、窓のそばの椅子の背に、
「お客さまですよ」
と声かけた。
すると椅子はくるりとまわって、窓のそとに花が揺れるのを見ていた
「うわさは本当だったのですね」
有為のとなりで、うつくしい客はいちだん声をしずませた。
「うわさ、ですか?」
問いかえしながら、有為は身振りで客にソファを勧めた。客はうっとりするよな笑みを返して、音をたてずに座った。ジャスミンの香りが風に混じった。
「若き名探偵、
透きとおった声に有為はうなだれ、視界のはしに未央をちらと見た。
視界のはしにとらえた未央は、自分が話題にあがっているとも知らず、年齢不詳な笑顔を有為へかえした。
その「事故」が起きたのは、二か月前。
宝石店で張りこんでいたときのことだ。張りこむ相手の名は“ジュエルコレクタ”。
一級品の宝石だけを持ち去る審美眼、狙った宝石のほかには手をつけない潔さ、決して人を傷つけず盗んでいくあざやかな手口。人々は感嘆し、警察は翻弄され、だがそこにただひとり、天宮未央だけが立ちはだかったのだった。
犯行を予見し阻むこと数度、とはいえ未だ逮捕にまでは至らない。ふたりの勝負はいまのところ、五分と五分だと言ってよいだろう。
これまで盗まれた宝石は、いずれも値がつけられないほどの一級品だ。ダイヤ、ルビイ、サファイア……市場に出れば目立たずにはいられない珠玉の芸術品だが、裏マーケットにも出てきたという話はまったく聞かない。
「出てくるわけがない、と未央さんは言っていましたけれど」
「……ほお。どうしてですか?」
うつくしい客はあごに手をあて尋ねた。客の問いに有為は、思いだすよう努めるしぐさで、ひとつずつ言葉を発した。
「彼の動機は、宝石の保護だ、と。清らかな宝石が、美を解さない目に
あながち分からないでもない、とそのとき未央は言ったのだった。
そして、正体不明の宝石泥棒に、ジュエルコレクタと名をつけた。
「事故」の日、未央が犯行日までも予測して張っていた宝石店に、果たしてジュエルコレクタはあらわれた。目あてのサファイアをポケットに入れ、悠々と立ち去るはずだったのが、とつぜんベルが鳴り出入口を塞がれてしまったのだった。
絶体絶命、袋のネズミ。警備についていた警官たちが勝利を確信したとき、ジュエルコレクタは活路を見出した。
それは小さな、明りとりのためのガラス窓。通常はひらくことのないその窓の、枠がそのとき外れていたのだ。ジュエルコレクタは迷わなかった。人ひとり通るのが精いっぱいの小さな窓から、彼は脱出した。
包囲の輪が破られたことに、まっさきに気づいたのは未央だ。ジュエルコレクタの逃げ道をふさぐよう駆けつけた未央は、だが5分後に、頭から血を流した姿で発見された。その場にジュエルコレクタの姿はなかった……
「ジュエルコレクタが名探偵を昏倒させて、逃げたということですか」
「さあ……警察はそう言っていますけれど、わたくしにはわかりません。未央さんも、記憶が抜け落ちてしまっていて」
「許しがたいですね。まったくけしからんことです。これほどの才を、あやうく私たちは失うところだった……」
そこまで言いかけたとき、ちょうど柱時計が三時をうった。
つづく言葉を客は飲みこみ、探偵の様子をうかがった。
ぼおぉん……と余韻をひきずる最後の音が消えた。消えた音のかわりに戻ってきたのは、たぐいまれなる知能を備えた名探偵だ。その証は、するどくひかる眼光。
「はじめまして、名探偵どの。お目にかかれて光栄です」
「前置きはいい。用件をうかがおう」
事故により、記憶とともに抜群の知能をも失った未央に、毎日午後三時から10分だけ、なぜか知能が戻るのだ。そのわずかな時間を、だれもが匙を投げた事件の解決のために、未央はあてていた。
貴重な10分を得た、うつくしい依頼人は――
「貴方がけがをしたとき、なにがあったかを教えていただきたいのです」
客の依頼に、有為ははっと顔を向ける。なにか言おうとするのを未央は片手で制し、
「妙な依頼をする」と、興の乗った顔で相手の目の奥をのぞきこんだ。
「だが期待には沿いかねる。その前後の記憶だけはすっぽり抜けおち、どうあっても戻らないものでな。むしろぼくが教えてほしいぐらいだ」
「だれも貴方に、前後の事情を教えないのですか」
「しかたないのだ」と未央は拗ねたようにわらった。「思い出そうとすると、ぼくが微睡みに落ちているあいだ、ぼくの分身がひどくむずがるのだそうだ。ずいぶん助手の手を焼かせているらしい」
そう言って”助手”の方へ目をやると、有為は顔をそむけて言った。
「わたくしのことはいいのです。ただ、未央さんが苦しむのはいやです」
有為の表情に、客はすこし
「助手のお嬢さんを悲しませることになるのは本意ではないのです。ですが――」
「いや。いつまでも避けて逃げ切れることではない。いまが潮時なのだろう。つづけてくれ」
客はおおきく息を吸い、口をひらいた。
「では、私の知るあらましを説明しましょう。そこから推理いただきたいのは、二つ。貴方を襲ったのはジュエルコレクタだったのか。そして、ジュエルコレクタはどうやって現場から姿を消したのか」
「よかろう。ぼくに残されたのはあと8分。説明は3分で済ましてもらいたい。残る5分で謎を解いてみせよう」
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