ずっと憑いていきます 第9章
六十歳を過ぎたみどりは、今まで貯めた貯金と、僅かな年金で六十五歳まで暮らさなければならない。
元同僚の多くが、六十五歳前後に亡くなっている事実を思うと、健康には留意しなければならないと思っていたが、あーちゃんが居てくれる限りは、どんな病もたちどころに治してくれるので安心だ。
あーちゃんは、相変わらず不思議ちゃんだが、今後のみどりにとっては、あーちゃんさえ居てくれれば何も要らない、と思えるほど、あーちゃんはありがたい存在だった。
教員生活が終わったら、本格的に取り組みたかったのは『スローライフ』である。
みどりは家庭菜園を始めた。
「あーちゃん、来てごらん。小さいミニトマトがひとつ、赤くなってきたよ。」
「ほんとだぁ。かわいい。」
「もう少ししたら、サラダに使うからね。」
「うん!たのしみ!」
こんな調子で、みどりとあーちゃんは、二人で仲良く暮らしていた。
◇◇◇
その日の夜、みどりとあーちゃんは、ソファに並んでテレビドラマを見ていた。
「みどり。」
あーちゃんの声が、いつもとは全く違う。まるで、中高年の女性のような声だ。
見た目が七~八歳、声が中高年の、あーちゃん。
「・・・あーちゃん、お風邪ひいたかな?いつもと声が違うねえ。」
「風邪ひいてるわけじゃないわよ。みどりと少し、お話したいの。」
「あ、あーちゃん。だけど、声も、喋り方も、いつもと全然違うよ。」
「私は、
「・・・・・・。・・・・・・ええ~・・・。」
みどりは頭が混乱し、脱力した。
カッチャッ。
篠原瑠璃は、急いで温かいお茶を用意して、みどりの前に置いた。
「びっくりしたかもしれないわね。少し、落ち着きましょう。」
「・・・い、いや~、びっくりした、なんてもんじゃない・・・。ていうか、どういうこと?」
「私は、大学卒業後、一度死んだんです。交通事故で。」
「・・・し、死んだって!今、生きてるじゃないの!・・・って、大人だったんでしょ?何で女児になってるの?」
「一度死んだんですけどー、転生したんですー。狐にー。」
篠原瑠璃の喋り方がまた変わった。
今度は、若い女性のような喋り方になった。
「山の中で行き倒れていた時にー、みどり、あなたに助けられた子狐に、私、転生してたんですー。」
「え?・・・あの時の・・・可愛い狐・・・だったんだ・・・。」
新婚当初に銀太と山にドライブに行ったときに、瀕死の狐を介抱したのだが、その出来事と似たような夢を、先日見たばかりだった。
「私は、実は、物心つかない子供の頃から、両親に捨てられてー、施設で育った孤児だったんですー。」
「・・・そうだったの・・・。」
「そのことをー、大学時代は周囲に隠していました。誰も私の過去を知る人は居ないしー、大学で知り合った人たちはー、みんな親切でー、優しくてー、頭も良くてー。施設で育った自分に、こんなに幸福に満ちた人生が待っているとは思わなかったですよー。」
「施設で成長して、大学まで卒業したなんて。あーちゃん、じゃなかった、瑠璃さん、子供の頃、本当に良く頑張ったのね。」
「勉強は楽しかったですよー。施設にある本、ぜーんぶ読んじゃってー。そしたらー、国語の点数がー、いつもずば抜けて良かったんですけどー。それでー、国文科に進みました。国語教師の免許も取ってー、卒業と同時に教員採用試験にも合格したんですー。」
「瑠璃さん、優秀だったのね。」
「いやー、それほどでもないですけどー。大学時代は天文サークルに入っていました。夜、星を見上げるのが好きだったから。そこでー、みどりの元ご主人の秋山銀太さんに出会いました。」
「ああ、そう言えば、大学時代は天文サークルに入ってたって言ってたわ。瑠璃さんは、銀太の大学時代のサークル仲間だったのね。」
「銀太さんはー、ひとつ上の先輩でした。正直、カッコいいタイプの男性ではありませんでしたが。」
「あら、失礼しちゃうわね。だけど、その通りね。」
二人は顔を見合わせて笑った。
「私は、いわゆる、イケメンが苦手でー。それでー、銀太さんに興味があった時期があったんですがー、銀太さんはー、私のようなタイプは好きじゃないって、友達から聞いてー。恋愛は諦めていたし、大学時代もあまり、話はしなかったんですー。」
「あんなの、付き合う価値はないわよ。良かったじゃないの。大学時代に付き合わなくて。」
二人はまた、顔を見合わせて笑った。
「大学を卒業してー、初任者として配属されて教師をしてー。学校の賑やかな感じも好きなんですけどー、時々一人きりになりたくなる時があるんですよね。それでー、一人で山登りをしてたんですー。自分でプランを決めて。」
「もしかして、あの山?」
「そうなんです。そしたら、大きなトラックがカーブを猛スピードで曲がってきてー。私はよけきれなくて、トラックに当たってしまってー、一瞬空を飛んじゃいましたー。」
「トラックに、
「空中を舞っていたかと思ったら、下に私の死体だけが落ちましてー。宙を舞ったままの私はー、上から自分の死体を見ました。・・・そこまでしか覚えていなくてー・・・目が覚めた時には、狐になっていたんです。」
「・・・それが、あの狐さん、だったのね。」
「そうなんですー。いきなり狐になっちゃってー。食べ物とか、どうしていいかもわからないしー。おなかすいておなかすいて。二度目の死がやって来るのかなあ、というところで、みどりが拾ってくれてー。車の中で、みどりにお茶とおにぎりをいただいて、生き返ったんです。・・・みどりは私の救世主なんです!」
篠原瑠璃が、みどりにいきなり抱きついてきた。
「私を山に放り出せ、と言った運転席の男性・・・見た瞬間、銀太さんだとわかりました。・・・大学の時は、あまり喋らなかったから、どんな人かまでは分からなかったんですけどー、・・・動物にあんなに冷たい人だとは思いませんでしたー。みどり、あなたは、とても優しくて温かかった。」
「放っておけなかったわ・・・あの時の狐さん・・・なのか。あーちゃんも、瑠璃さんも。」
みどりは、あーちゃんに初めて出会ったときに、あーちゃんが泥だらけだった理由が、なんとなくわかった気がした。
「私は、あの時からずっと、あなたのことが好きでした。」
「‼」
「銀太さんに車から降ろされた後、実は車の上に乗っかっていたんです。見つかりそうになったら逃げて、あの日、ずっと車の近くに居たんですー。家に向かう時もずっと車の上にへばりついていました。みどりの家まで運んでもらってー、みどりの家の位置を覚えました。」
「あの時から、車の上に居たのね。そして、家にも来ていたのね。」
「私には両親が居ません。親戚も知りません。なので、私が死んでも、誰も死亡届なんて出せないんですよー。お世話になった施設だって、卒業後の私の消息なんて追わないでしょう?死んだけど、狐に転生してたから、元の篠原瑠璃に化けて、全然死んでないフリができちゃったんですー。」
「・・・死亡届が出せない・・・か・・・。」
みどりは一瞬、銀太が行方不明だったことを思い出した。
「学校をしばらく無断欠勤した後、復活した教師、みたいになってー、通常に戻ってー、死んだ後も国語の授業をしていたんですー。」
「そうだったんですね。」
「学校が休みの日にはー、狐に戻ってー、みどりの家の庭に潜んでー、部屋の中の会話を盗聴していました。夏の研修ではどの会場を使うのかまでー、盗聴して知ったんです。なのでー、あの大学近くのアパートに住み替えてー、勤務先の学校もこちらに異動してー、機会を
「何の機会を窺っていたの?」
「銀太を殺す機会だよ。」
篠原瑠璃は、先程の中高年の女性のような声になった。
「みどりが銀太に辛い思いをさせられてることを知って、私は銀太を殺す決意をしたの。」
「ちょ、ちょっと待って。銀太は・・・死んだの?」
「だから、私が殺したんだってば。」
「え・・・じゃあ、行方不明じゃなくて、もう、死んでしまったの?」
「行方不明ということで、警察が調査しているみたいだけど、どの道、私はもう一度死んでいるんだし。死者は逮捕できないでしょ?もしくは、狐に戻れば済む話じゃない?いくら警察だって、狐は逮捕しないでしょう?」
銀太のお姉さんの
「夏の研修で、偶然を装って、研修会場で大学以来の再会をするところから始めた。どの講義を受講するのかも、全部盗聴で知って、同じ講義を受講することに成功したわ。そこで待ち伏せして声をかけさせて、みどりとは違うパーソナリティを演じたわ。案の定、惹きつけることに成功した。みどりに離婚に有利な条件を献上するために、わざとわかりやすくキスをしたの。写真、撮りやすかったでしょ?」
「確かに・・・あれ、楽に撮影させるための演技だったのね。」
「男女の仲になるのに、時間はかからなかったわ。みどりという、最高の女性と結婚できたのに、あの男の軽さと言ったら最低ね。愛のかけらもない男だった。絶対殺してやる、と会う度に誓ったわ。」
『誓う』という言葉・・・みどりが、信じられなくなったこの言葉が、このタイミングで、この事柄に、使われている・・・。
「快晴だから、山の上に行けば、星が綺麗に見えるだろう、星が見たいから、これから見に行かないか、と誘ったの。」
「瑠璃さんの自宅に、銀太を誘ったのね。」
「そう。銀太の携帯を盗聴している、という脅迫メールが来た、と嘘をついて、携帯は持ってこさせないようにして、自宅に呼び出したの。」
「携帯の会社に、銀太の所在がわからないようにするためね。」
「その後タクシーで、あの山の上に行ったの。深夜だったので、タクシーの運転手は不審に思ったみたいね。待たなくてもいいのか、と言われたけど、朝、また呼ぶからって言って、下山させたの。」
「そうなの。」
◇◇◇
「綺麗だなあ。宝石箱を散りばめた様に、美しく星が輝いているね。瑠璃、君も美しいよ。ああ、今夜は来て良かった。」
銀太は、星の欠片が零れ落ちてきそうな美しい星空を仰いだあと、瑠璃の横顔をジーっと見つめながらそう言った。
「大学時代を、思い出しますねー。」
「あの頃も、深夜みんなで、大学から行かれる一番近い山の山頂や、海岸に行って星空を見上げたよね。」
「あの頃は、本当に楽しかったですー。」
「俺さ、ぶっちゃけ、ブ男じゃん。だから、見た目に自信持てなくてさ。瑠璃は、キレイ系で、サークルでも美人で目立ってたじゃん。一番美人の後輩だったからさ、敷居が高すぎてさ、どうせ、叶わないからさ・・・俺、みんなに嘘つきまくったんだよ。篠原みたいな美人は好きじゃないって。だけど今、こうして、価値観が合わない女と離婚した後で、最高の美人と付き合っているなんて・・・え?」
銀太の隣に座っているのは、一匹の狐だった。
「ウー・・・。」
狐は毛を逆立て、目は憤りに満ち溢れ、燃えていた。
「ガウッ‼」
狐が銀太の喉元に嚙みついた。
狐の犬歯が、頸動脈を一瞬で割っ裂いた。
◇◇◇
「殺した後は、食べちゃった。おなかすいてたんだもん。」
「・・・。」
「生肉も、一応食べれるし。だけど皮下脂肪が多くてギトギトしたわね、口の中。」
「・・・。」
「みどりを傷つけるものは、私が許さない。私はあなたを愛しているのよ。」
みどりは、初めて遭遇した愛の形に、戸惑ったが、常軌を逸している割には、すんなりと腑に落ちたのと、篠原瑠璃のおかげで、今の幸せがあるのだ、と心の奥深いところが、ジンと温かくなった。
その温かみは、一生涯消えることのない、灯のようだった。
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