第85話 初めての呼び捨て

 綾奈さんと美奈を見送った後、俺は自室で安静にしていた。

 流石に寝てばかりでは退屈なので、ラノベを読んだりアニメを見たりして過ごした。

 昼食はレトルトのうどんを作って食べた。

 多少なら料理は出来るのだが、病み上がりでそこまでの気力はなかった。

 うどんを食べた後は薬を飲み、また自室で午前中と同じ様に過ごした。

 放課後が近づくにつれて、徐々にこの後の事を意識するようになって、だんだんと落ち着かなくなっていった。

 母さんは専業主婦だが、今は出かけている。多分俺と綾奈さんに気を使ってくれたのだろう。

 今日も、放課後に綾奈さんがやってくる。

 昨日も言っていたけど、甘えてくるんだよな。

 俺はそわそわしながら体温計を手にして熱を計る。

 多分既に平熱にもどってると思うけど、それでもちゃんと数値で見て安心したかった。

 甘えてくるイコール、綾奈さんは俺にくっついてくることになる。

 もしそれで綾奈さんに俺の風邪が移るなんてことがあれば目も当てられない。

 測定終了の音がなり、体温計を確認する。

「三十六度三分。よし」

 どうやら熱は下がりきったみたいだ。

 まぁ、まだ身体の中に菌が残っていると思うけど、移す心配はほとんどないだろう。

 今日俺は綾奈さんに会うに先立ち、二つの自分ルールを設けた。

 まず一つはキスをしない。

 綾奈さんはまだキスに対して抵抗があると思うから、綾奈さんに怖い思いをさせないのと、あとは俺自身が病み上がりなので、キスをして綾奈さんに風邪が移るリスクを抑えるためだ。

 この事をみんなに話したら健太郎以外は「ヘタレ」って言うんだろうなぁ。

 だが何と言われようと、俺からは決してキス以上の事はしない。

 綾奈さんの安全と健康の為だ。

 それからもう一つは───。

 ピンポーン!

 その時、自宅のインターホンが鳴った。

 時刻を見ると、既に放課後の時間はとっくに過ぎていた。

 俺は自分の心臓がうるさいのを自覚しながら玄関に向かって行き、ロックを解除して玄関を開けた。

 すると俺の目の前に、俺が待ち望んでいた人がいた。

「……こんにちは真人君」

「……こんにちは。今朝以来だね」

「……うん」

「「…………」」

 沈黙が流れる。

 綾奈さんは上目遣いで俺を見ながらそわそわしている。

 俺はそんな綾奈さんを見て、自分の心臓はさらに騒がしくなっているのに気づいた。

「と、とりあえず、どうぞ」

「お、お邪魔します」

 俺は先に廊下に上がり、スリッパに履き替える。

 綾奈さんも続けて廊下に上がろうとして───

「ちょっと待って!」

「え……?」

 廊下に上がろうとしていた綾奈さんを強く制止する。

「ま、真人君……?」

 綾奈さんは不安の色が強く出た眼差しで俺を見てくる。そんな目を向けられると心が痛む。

「いや、そうじゃないんだ。家にあげたくないとかじゃあ決してない」

「じゃあ、どうして……?」

「どうしても、言いたいことがあるんだ」

「言いたいこと?」

「うん」

 これこそが自分ルールの二つ目。

 今朝、綾奈さんと美奈を見送ってからずっと考えていた事。

 言おうと決心したけど、いざその時になると凄く緊張する。

 綾奈さんは未だに不安の表情を浮かべていて、俺をじっと見つめている。

 大事な人をこれ以上俺個人のつまらない事で不安にするな!

 俺は咳払いをして、真っ直ぐ綾奈さんを見つめる。そして───


「おかえり。綾奈」


 大切な人の名前を、初めて呼び捨てで呼んだ。

『私も真人君に呼び捨てで呼ばれたい』

 それは付き合いだした翌日に綾奈に言われた言葉。

 その時は呼び捨てで呼ぼうとしたけど勇気が持てずに結局「さん」付けのままになってしまって、今日までずるずると引き伸ばしてしまった。

 だけどやっぱりこのままじゃダメだと思い、今日ようやく決心がついて呼び捨てで呼ぶことが出来た。

「───えっ?」

 呼ばれた当の本人は、呼び捨てで呼ばれた事に未だ困惑していた。

「待たせて、ごめんね。綾奈」

 俺はもう一度呼び捨てで呼んだ。

 すると、その事を理解したのか、綾奈は目に涙を浮かべて勢い良く俺に抱きついてきた。

「ただいま。真人君っ!」

 俺は綾奈を強く抱きしめた。

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