第32話 「綾奈さん」
午後の練習は、松木先生が俺達の指導をしてくれたり、上手く発声できるコツ等を教えてくれて、それから高崎の練習を見学して終了となった。
とても有意義な練習になり、今日学んだことを文化祭で披露するまでに物にしようと思った。
下校しようと思い、荷物を持ち西蓮寺さんの方を見たら、昼休憩の時と同様、複数の生徒に囲まれていた。
何やら質問されているようで、聞こえてきた範囲で、お昼の事を聞かれているようだった。
あれだけの美少女が、男(俺)と一緒に、それも嬉しそうに音楽室から出るところを見たら、そりゃあ根掘り葉掘り聞きたくなるのはわかるんだけど、ちょっと無遠慮に聞きすぎじゃないか?
ちなみに俺にもその質問は飛んできたけど、頑なに喋らない態度をとったら、聞いてきた奴らが諦めてそれ以上の追求をしてこなくなった。
西蓮寺さんはまだ解放されなさそうな雰囲気だったので、そろそろ助けないと、と思って歩き出そうとした時、西蓮寺さんが「ごめん、急いでるからまたね」と言って、囲んでいた生徒を掻き分け、俺の方に近づいてきた。
突然の西蓮寺さんの行動に驚いて、近づいてくる西蓮寺さんを立ち止まって見ていた。すると、
西蓮寺さんが俺の手を握り、そのまま足早に音楽室を後にした。
突然の事で頭が真っ白になり、西蓮寺さんに引っ張られる形で音楽室を出た。
これには音楽室に残っていた両校の部員、ピアノの傍で話していた先生二人、一哉と宮原さんまで驚いていた。
「ち、ちょっと西蓮寺さん。どうしたの急に!?」
そのまま音楽室から少し離れた所でようやく我に返った俺は、西蓮寺さんらしからぬ大胆な行動に驚きと疑問が入り交じった声を発していた。
「中筋君と早く一緒に帰りたかったから」
西蓮寺さんは少し頬を膨らませて言ってきた。手はまだ握られたままだ。
「っ! ひ、久しぶりだから!」
握っている手を見たと思ったら、急に赤くなり、パッと手を離し、慌てた様子で言葉にする西蓮寺さん。
離された手を見て残念な気分になる俺。もっとあの柔らかな手の感触を味わいたかった。
「それに、負けたくないし」
「?」
続けて西蓮寺さんがこんな事を言ったけど、なんの事かわからず首を傾げる俺。
「そんな事より、早く帰ろ」
それに関して西蓮寺さんは話すことはなく、俺たちは帰宅するため学校を後にした。
今は西蓮寺さんの自宅に向けて二人で歩いているのだけれど、学校を出た時から、俺は頭の片隅である事ばかり考えていた。
それは、昼食時の会話に出てきた名前呼びの事だ。
確かに俺は茜と妹の美奈以外の女性を名前で呼んだことがない。
名前で呼ぶほど仲が良い異性が他にいないと言ってしまえばそれまでなのだが、今一緒にいる西蓮寺さんはどうなのだろうか?
中学までほとんど喋らなかったけれど、今年の二学期になって、一緒に下校するようになった俺の初恋の相手。
一緒に帰るようになって一ヶ月以上が経過し、これまでの態度から西蓮寺さんも俺の事は嫌っていないと思うし、嫌われるようなことをした覚えはないと思う。
でも、突然男から名前で呼ばれて、不快に思われる可能性もあるし、一緒に下校するのを持ち掛けたのは西蓮寺さんだったとしても、それほど気安い間柄と思われてないのではと思い、名前で呼ぶ勇気が出ないでいた。
でも、俺が目指すのは、西蓮寺さんと付き合うことだ。
名前で呼ぶのは確かに勇気がいる事だけれど、俺が目指す所を考えると、単なる通過点に過ぎない。
ここで尻込みしていては、告白なんて夢のまた夢。いや、夢と言うのもおこがましい気がする。
嫌な顔をされるかもしれないけど、話題が出た今日がチャンスだと思った。
今日を逃せば名前で呼ぶタイミングがわからず、ずっと苗字呼びのままだ。勇気を出せ。
そんな事を考えていると、いつの間にか西蓮寺さんの自宅に到着した。
「送ってくれてありがとう」
「どういたしまして。来週は文化祭の準備だっけ?」
「うん……。だから遅くまで学校に残る事になるから一緒には帰れないね」
「じゃあ、次会うのは高崎の文化祭の時かな」
「……うん」
「準備、大変だと思うけど頑張って」
「文化祭、来てくれる?」
「前に言ったじゃん。絶対行くよ」
「……うん。待ってる。それじゃあ、また文化祭で」
「うん。またね。あ……」
「?」
「あ……綾奈、さん」
「…………えっ!」
言った。物凄く緊張して声が上擦りそうになるのを何とか堪え、たどたどしい感じになったけれど言えた。
西蓮寺さんは最初、何を言われたかわからないような表情をしてたけど、それを理解したら、驚いて頬が赤くなって両手で口をおさえている。
そのままの体制で顔を俯かせる西蓮寺さん。そんなに名前で呼ばれるの嫌だったか?
なんて思っていると、西蓮寺さんは顔を上げて、微笑んでまっすぐに俺を見る。気のせいかその瞳は潤んで見えた。
「うん!またね。ま……真人君」
「っ!」
西蓮寺さん、いや、綾奈さんは満面の笑みをこちらに向けて、同じように俺を名前で呼んでくれた。
反則的な仕草に、一瞬で顔が熱くなるのを感じた俺は、顔を右に向けて、右の手の甲で口を隠す。
「ふふっ、名前で呼ぶの、少し照れるね」
「そんな風には見えないんだけど」
「そんな事ないよ。これでも男の人を名前で呼んだの初めてだし」
「そうなの!?」
「うん」
「……っ」
綾奈さんが顔を赤くしながらカミングアウトして、その表情と「初めて男子を名前呼びした」と言う事実から嬉しくも照れくさくなり、俺も顔が赤くなっていた。
「……お願いがあるんだけど」
綾奈さんが顔を赤くしたまま、上目遣いで言ってきた。その仕草が最高に可愛い。
「何かな?」
「……もう一度、呼んでほしい」
それを聞いた俺は、少し驚いた後、すぐに目を細めて、綾奈さんのお願いを実行することにした。
「綾奈さん」
「真人君」
お互いの名前を呼び合い、俺たちは笑い合った。
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