異伝 或Vの一日

 私はその日──正確には一週間以上前から──この上なく緊張していた。


「ふぅ……」


 休日ということもあり、微妙に混雑していた電車を降り、改札を出る。

 初めて訪れる駅に対する微妙な緊張感。見慣れぬ景色のせいで、どうにも歩みに自信が持てない。カラカラとキャリーケースのキャスターを鳴らしながら、きょろきょろと周囲を見渡してしまう。

 

 ──と、妙に目立つ人物が視界に入った。


 壁に背を預けながら、つまらなさそうな表情でスマートフォンを操作している男性。

 どこでも見掛けるような光景でありながら妙に目立っているのは、幾人もがその男性にちらちらと視線を送っているのが周囲に見えるからだろう。

 視線を送っている中には、スマートフォンのインカメや鏡で自分の顔を確認してメイクや髪型をチェックしている人もいるし、変に明るく大きな声で話して男性に意識を向けられようとしている人までいる有様である。

 まぁ、その理由も、男性の整った顔立ちを見れば理解できる。


 さて、あの目立っているところに自分から突っ込んで声をかけるのはなかなか勇気がいるぞ。

 などと、心の準備を整えていると、その間に男性に近づく影が2つ。

 2人組の女性が男性に声を掛ける様子を見て、声を掛けようとしていた私の気持ちは萎んでいく。ハードルが上がったぞ、おい。


 女性たちは手持ちのスマートフォンの画面を見せながら何かを尋ねている様子だったが、狙ったような清楚系のファッションに少しばかり緊張したような表情、それでいてスムーズな話しかけ具合から見て、あからさまに逆ナンだろう。道でも尋ねたいなら、駅員さんが近くにいるぞ。

 男性の方もそれがわかっているのか、非常に淡々と事務的な様子を隠そうともせず、2人組の女性に何かを説明している様子が見てとれた。


 あの様子では逆ナンが成功することもなさそうだし、このまま2人組が立ち去ってから声を掛けるか、と思考を待つ方向に持っていく。

 が、中々女性たちは立ち去ろうとしない。そのまま男性に言葉を投げかけ続けている。男性の方も表情はそのままながら、聞かれたことには答えている様子だった。

 女性たちの声の掛け方が上手いのか、男性が心優しいからなのか、終わる様子が見えない。


 これは……覚悟を決める必要があるな。


 時間がないわけではない。しかし、待たせているのは完全に私のせいであるし、何より困っていそうな様子なのに助けないなどという選択肢を選べるわけがない。

 大丈夫、敵は自分の羞恥心だけである。


「Hey! そこの彼! 私と遊ぼうぜ!」


 何と声を掛けたものかと悩んだ末に口から出たのは、我ながら理解に苦しむ意味不明な言葉だった。

 おそらく、私の顔は真っ赤だったと思う。


 唖然とする2人組の女性。

 まぁ、それもそうだろう。逆ナンにしても声の掛け方としては最悪だろうし、そもそも向こうが先に声を掛けているところに横入りしてきたのだ。

 何やってるんだこいつは、と思うのも当然の反応だ。


 ただ、まぁ、その2人組にとって予想外があったとすれば、男性の反応だろう。

 それまでずっとつまらなさそうな表情を崩さなかった男性が、私が声を掛けた途端に表情がふわりと緩み、くつくつと手で口元を隠しながら忍び笑いを始めた。つまらなさそうな表情で立っているときはクール系のイケメンだったのに、一度ひとたび表情を崩せば優し気なイケメンになるのだから、イケメンはずるい、と内心で愚痴を溢す。

 2人組は、そんな男性──弟くんの反応にぎょっとした表情を浮かべる。


「良いよ、乗った。そういうわけで、これから彼女と遊びに行きたいので、外しても構いませんか?」


 戸惑ったように頷く2人組に会釈しながら、男性がこちらに近づいてくる。


「Hey、彼女。キャリーケース、持とうか?」


 らんちゃんが私を揶揄うときとどこか似ているような声色が耳に響く。その言葉に、羞恥心のせいで茹った頭のまま、こくり、と頷く。

 いや、待て待て待て。下着やら何やらが入ったキャリーケースを恋人でもない異性の手に委ねるのは、さすがに恥ずかしい。


 何も考えずに手渡そうとしていたキャリーケースを、やっぱり大丈夫、と取り返そうとしたのに、男性がキャリーケースの方へ手を伸ばしながら、耳元で小さく「ありがとう」と呟いたせいで思わず動きが止まる。

 バッと勢い良く顔を上げれば、そんな私の様子に不思議そうな表情を浮かべているイケメンの顔のドアップ。


 おそらく先ほどまでの羞恥心とは別の理由で私──朱見あけみさくらの魂は真っ赤になっていた。




・・・・・

・・・・

・・・

・・




 幸いだったのは、頭の茹りが収まった頃には人通りの多い駅からだいぶ離れており、弟くんと一緒に歩いている際に周りから向けられていたであろう多くの視線にほとんど気付かなかったことだろう。


 しかし、人通りが減っても、街中を歩いていればすれ違いざまに見つめてくる人もいる。

 私たちを見て、兄妹と思うか、恋人と思うか、どちらにせよ、似てもいないし、容姿的に釣り合っているとは思えない組み合わせに、訝し気な表情を向けられる。


 いや、私だってこれでも告白は何度もされたことはあるし、それなりにモテる方であるという自覚はあるが、如何せん相手が悪い。普通に可愛いだけのJKでは太刀打ちできない。


 魔性。まさにこの言葉が似合う。

 たった一度で良いから、その視線をこちらだけに向けてほしい。

 たった一度で良いから、その瞳の中に自分の姿を映してほしい。

 たった一度で良いから、その唇で熱を籠めて名を呼んでほしい。

 たった一度で良いから、その心の隅に自分を住まわせてほしい。


 そういう風に思ってしまうのも、わからなくもない。らんちゃんから聞いた、弟くんに熱を上げていたという女性たちの心理も少しは理解できてしまう。

 などと考えながら足を進めていると、急に弟くんが立ち止まった。


「さ、着いたよ」


 そう言う弟くんの後ろから、目的地──青丹あおに家のマンションの入り口を見つめる。


 そう、今日はらんちゃん家での「ドキドキ☆オフコラボ配信〜宿泊もあるよ!〜」の予定なのである。


 推しの自宅に感慨に耽るよりも先に、胸の中を緊張感が支配していく。その緊張感がどこから生まれてきているものなのかは、どうしてか、わからない。

 導かれるままに、再び歩みを進め出した弟くんの背中をついていく。

 豪華なエントランスを抜け、エレベーターに乗り込む。揺れはもちろん、動いていることさえ感じない静かなエレベーターの中で、あまり頭を使わなくて良いような軽い雑談を投げかけてくれる弟くんの存在がありがたかった。


 エレベーターを降り、少し進むと、一つの扉の前で弟くんが立ち止まる。


「ここだよ。鍵は開いてるから、開けてごらん。姉さんが待ってる」


 家主ではなくゲストに自宅の扉を開けさせるという何とも不思議なシチュエーションに困惑し、何度も扉と弟くんの顔を見比べても、弟くんは微笑むばかり。


 いやいや……普通に開けてくれ。


 などと思ったところで、状況は変わらない。

 絶対、何か用意してるでしょ、と半ば確信しつつも、まぁ、それでらんちゃんが満足するなら良いか、と覚悟を決めて、扉に手を掛けた。

 恐る恐る扉を開けていき、中を覗き込む。


「おじゃましま──」

「おかえりなさい、さくらちゃん」

「──」


 玄関口で待ち構えていたらんちゃんが、楽しそうな笑顔で私を出迎えてくれた。


 ──なるほど。


 どうやら、らんちゃんがやりたかったことはこれらしい。確かにあのワールドで同じ家に住むことにしてからは、毎回らんちゃんはおかえりと言うようになった。

 私としては、あくまであれはゲーム上でのことだと思っていたが、らんちゃん的にはそういうわけではなかったようである。


 まぁ、らんちゃんがオフコラボということでテンションが上がりまくってるのは間違いないらしい。乗らずにテンションを下げることもない。

 ここは、乗ってあげよう。


 ──そう、頭ではわかっているのだけれど。


 どうしてだか、唇が渇く。

 どうしてだか、鼓動が早い。

 どうしてだか、言葉に詰まる。


「た……だい、ま」


 搾り出した声は、かなり聞き取りづらかったように思う。


「はい。無事に帰ってきてくれて、ありがとうございます。さくらちゃん」

「……うん」

「ほら、疲れたでしょうから、早く上がってください。弟くんも、おかえりなさい。さくらちゃんのお迎え、ありがとうございます」

「ただいま。良い散歩になったよ」


 私を挟んで繰り広げられるそれが、あまりに当たり前に行われるから、私も、そんな当たり前の一員になれたような気がした。

 ──私も、ここにいるのが当たり前だと勘違いしそうになってしまう。


「姉さん、これ、さくらちゃんの荷物。夕飯はあと温めるだけだし、すぐに呼ぶことになると思うから、手早く荷物だけ置いてきて」

「わかりました。お願いしますね。じゃあ、さくらちゃん、こっちですよ」

「わ、わっ。わかったから! 靴脱がせて!」


 らんちゃんがぐいぐいと引っ張るから、物思いに耽る間も無く慌ててスニーカーを脱ぎ、引っ張られるままに廊下の奥へと導かれる。

 手を引くらんちゃんの顔があまりに楽しそうだから、どうにも無碍にし難い。しょうがないなぁ、らんちゃんは。


「ベッドだぁぁぁああああ!!!!」

「もう……あまりはしゃぐと危ないですよ」


 らんちゃんの部屋は、なんというか、想像通りだった。丁寧に整理整頓されており、シンプルながらも小物などの細かなところは可愛いものが多い。

 真面目ならんちゃんをそのまま反映している気がした。


「ベッドだぁぁぁぁぁああああああ!!!!!」

「ほら、ベッドの上で跳ねないの」


 ベッドに思い切り飛び込んでみるが、予想以上に反発が少なく、包み込むような柔らかなマットレスだった。

 顔を埋めれば、落ち着くような不思議な匂いがした。やばい、このままでは推しかつ親友のベッドの匂いを嗅ぐ変態である。


「ベッドだぁぁぁぁぁぁぁああああああああ!!!!!!!」

「こら。さくらちゃん」

「ごめんなさい」


 仏の顔も三度まで。

 大人しくベッド上で正座をする。


「……ぷっ」

「……ふふっ」


 妙な沈黙が続いて、どちらからともなく吹き出した。


「2人とも、ご飯できたから手を洗っておいで」




・・・・・

・・・・

・・・

・・




「なんか普段以上に肉体的に疲れた」

「さくらちゃんが暴れ回るからでしょ。もう」


 配信を終え、2人で同じベッドに倒れ込む。

 本当は、らんちゃんの部屋とは別に私が寝泊まりする用の部屋を用意してくれているらしいのだが、もう荷物もらんちゃんの部屋に運んでしまっているし、何よりこの柔らかいベッドから動きたくない。

 このまま、一緒に寝ちゃいたい。


「このまま、一緒に寝ちゃいましょうか」


 瞼をゆったり動かしながら何にも考えられずに居ると、らんちゃんが横でそう口にした。

 さすがらんちゃん。私が思ってたことをそのまま口にしてくれた。

 緩慢な動きで、その提案に頷く。

 眠たい私の姿が面白いのか、くすくすと笑われている様子だったが、眠いし、らんちゃんが笑顔ならもう何でも良いや。


「ふふ。今日は、ここまで来てくれてありがとう、さくらちゃん。また明日もいっぱい遊びましょうね」


 温かいものが、私を包み込む。

 寝ぼけた頭では、それがらんちゃんに抱き締められていると気がつくには少し時間を要した。いつもであれば、狂喜乱舞する場面なのだが、胸の高鳴り以上の安心感が私の胸を満たしていく。


「お休み。さくらちゃん」




・・・・・

・・・・

・・・

・・




 ふと、深夜に目が覚めた。

 真っ暗な部屋の中では、らんちゃんの顔も見えないが、すぐ近くで感じる吐息になんとなく安心感を覚える。

 何が悲しくて自分かららんちゃんの腕の中から抜け出さないといけないのか、と血涙を流しながら、ベッドを抜け出し、お手洗いへ向かった。


 廊下に出て、おや、とダイニングから灯りが漏れているのに気が付いた。

 トイレに行ってから、消し忘れか、と確認するためにダイニングに顔を覗かせれば、本を片手に椅子に座る弟くんの姿があった。


「ん? さくらちゃん? どうした? 寝付けないの?」


 トイレに行きたくて起きました、と答えるのも気恥ずかしく、曖昧な笑顔を浮かべる。

 そんな私の態度に特に突っ込まれることもなく。「ココアならあるけど、要る?」という言葉に「いただきます」と答え、促されるままにダイニングテーブルの椅子に腰掛ける。

 お湯を沸かして入れるだけかと思えば、キッチンに立ち、鍋を取り出して調理のようなものを始めた。どうやら独自の淹れ方があるらしい。


「弟くんも、寝付けないんですか?」

「俺は……いつもこれくらいまで起きてるんだよね。まぁ、昔の癖だよ」


 少し言いづらそうな気配を感じ、次の言葉に迷う。

 別の話題を振るべきか、と悩む。


「無理に会話しなくても大丈夫だよ。ぼうっとしてても、何ならその本、読んでても良いし」


 そう言われれば、言葉に甘えさせてもらおう。正直、寝起きで頭はあまり働いていないし、余計なことを言わないとも限らない。

 さっきまで弟くんが読んでいた本に目を向けると、難解そうなタイトルが見えた。

 即座に手に取るという選択肢を切り捨てる。遊びに来てまで勉強はしたくない。


 お互いに無言の時間が過ぎる。


 不思議と、その無言の時間を気まずいとは思わなかった。

 弟くんの自然な雰囲気がそうさせているのかはわからないが、他人を楽しませて人気者になることでしか居場所を作れなかった私にとって、無言の時間というのは自分の存在価値を、ひいては居場所を少しずつ失っていく行為に等しい。

 そんなの耐えられるわけがない、とそう思っていたのだけれど。


 ぼうっとして、思考があらぬ方向に逸れだすと、コトリ、と目の前にマグカップが置かれた。


「熱いから気を付けてね」

「……ありがとうございます」


 駄目だ。今日の──正確には昨日からの──私は、どうにも上手くいっていない。

 可愛らしいマグカップは、らんちゃんの選定なのだろう、と思いながらマグカップを持ち上げて、ココアを口に運ぶ。


「……美味しい」

「良かった。少しだけこだわってた時期があったんだ。姉さんも気に入っててくれてたよ」


 ──いつもの私であれば、他人の事情にこんなに突っ込むこともないはずなのに。

 知りたい、と思ってしまうのは、私の我儘だろうか。


「……夜中まで起きてるのって、らんちゃんのためですか?」


 私の言葉に、弟くんが動揺したような様子はなかった。


「昔はね。不安定な時期は、夜に寝付けないことも多いみたいだったから、いつも夜中まで起きてて、姉さんが起きてきたらココアを淹れて落ち着くまでゆっくりしてたんだ。夜中にひとりぼっちで居ると、マイナスな気持ちで頭がいっぱいになるからね」


 「姉さんには積読つんどくの消化とか言い訳してたけど、たぶんバレてた」なんて語る弟くんは、その拙い言い訳を自嘲しているようだった。


 嗚呼、私には度し難い。

 家族というものが。

 その絆もいうものが。

 私には、全くもって、難解過ぎる。


 けれど、そんな関係が、どうしてだろう、あまりにも眩しいと感じてしまうのは。解せないのに。納得できないのに。

 家族あなたたちに焦がれてしまうのは。


 自分から質問しておいて、そんな自分の心を誤魔化すように別の話題を探す。


「あー……えと、そう、結構豪華なおうちですよね」


 私の言葉に、弟くんはココアが入ったマグカップを口に運んだ。

 そして、少しだけ悩むような素振りを見せてから、ゆっくりと口を開いた。


「姉さんには内緒だけど、実は、モデルとして働いてるんだ」


 モデル。

 正直なところ、その話を聞いてすごく納得した。

 けれど、それは──


「幸い、この容姿はなかなか価値があるものだったらしくて、結構稼がせてもらってるよ」


 そんなことはわかっている。

 弟くんの容姿がどれだけモデルという職業に適性があるかなんて、考えなくともすぐにわかる。

 けれど、それは──


「……働き始めたのは、姉さんが働けなくなった後から。姉さんを養う必要があって、事情があって実家にも頼りたくはなかった。だから、お金を稼ぐ手段としてモデルを選んだ」


 確かに、弟くんならそれで上手くお金を稼げるのかもしれない。

 自分の価値を活かしてお金を稼げるのかもしれない。

 けれど、それは──


「姉さんは、俺がこの容姿を好きじゃないの知ってるからさ、こんなものを使って姉さんの為にお金を稼いでるなんて知って傷付いてほしくない。だから、姉さんには内緒なんだ」


 ──貴方だけが、傷付いてしまう。

 私では想像もできないくらいに、自分の容姿を嫌っているはずなのに。外に出たくもなくなるくらいに、自分の容姿を嫌っていたはずなのに。


「さくらちゃんも、姉さんには内緒にしといてほしいな」


 どうして、そんなに優しく微笑めるのだろう。




 弟くんにお礼を言ってから、らんちゃんの部屋に戻った。

 真っ暗な部屋には、らんちゃんの呼吸だけが響いている。


「……らんちゃん、起きてるでしょ」

「……バレちゃってましたか」


 手探りでベッドに入り込み、すぐ近くにらんちゃんの温度を感じた。

 今度は、私がらんちゃんを抱き締める。


「えーっと……?」

「さっきのお返し。今度は私がらんちゃんを甘えさせる番」


 戸惑ったような声は、しかし、次第に縋るように抱き返す腕の強さに変わった。

 らんちゃんが強く抱きついてくる。


「……さっきの話、聞いてたでしょ」

「──」


 暗闇の中でも、らんちゃんが押し黙ったのがわかった。


「ねぇ、さくらちゃん」


 ──その声は、震えていた。


「私、弟くんに何にも返せてない。ずっとずっと、たくさん貰ってばかり。私……あの子から、守られてばかりで……何にも、何も……ぐすっ、わたし、かえせて、ないっ……! ひっく」


 うん。


「ほんとは、ちゃんと訊こうとっ、思ってたのに……ぐすっ。どうやって、お金をかせいでるの、って……大学生なのに、どうやって、って! わたし、うすうす気付いてたのにっ! ひっく。弟くんがすぐにお金をかせごうと思ったら、そうするってうすうす気付いてたのにっ! きっと、弟くんなら何かわたしが知らないようなすごい方法を使ってるんだ、ってそう思い込もうとしてっ! 気付かないフリしてたのっ!」


 うん。


「わたしはっ……わたしが、たすかるために……ずっと、ぜんぶ、見ないフリ、してたの……。弟くんが、自分の顔を嫌ってるの、いちばん、知ってるのに。大嫌いなの、知ってるのにっ!」


 うん。


「ねぇ、さくらちゃん、知ってる? モデルさんって、たくさん誹謗中傷されるんだよ。心ないこと、たくさん言われるんだよ。弟くん、すごく良い子なのに、容姿のせいで、いっぱい、いっぱい、批判されるんだよ。わたしがっ! わたしが、そうさせちゃったんだよっ! 弟くんは、ちっともそんなこと望んでなかったのにっ!」


 うん。


「おねえちゃん、なのに……っ。まもらなきゃ、いけないのにっ……わたしっ……!」


 私には、普通の家族というものの関係性がわからないから、きっとらんちゃんの気持ちを理解することなんてできない。らんちゃんの涙の重みを理解することなんてできない。らんちゃんを慰める資格なんて、ない。


 背中を擦りながら、小さな身体を強く抱き締める。

 それでも、もし許されるのなら、泣いている貴女を抱き締めさせてほしい。もし許されるのなら、少しでも貴女の苦しみを和らげさせてほしい。


 ──貴女1人で、落ちていかないでほしい。




 駅から青丹家に向かう途中で弟くんが話してくれた内容を思い返す。


『実は中学生くらいの頃は引きこもりだったんだ。女の人がこわくて。そして、それをわかってくれない周囲がこわくて。でも、姉さんだけはそれをわかろうとして、ずっと俺に寄り添っててくれたんだ。モテて良いじゃん、とも、男なんだから、とも言わずに。ずっとずっと、唯一、姉さんだけが俺を守ってくれてた。そんな姉さんの献身のおかげで、こうやって一人で出歩けるくらいにはなったんだ。まぁ、姉さんは助けたうちに入らない、って、お姉ちゃんが弟を守るのは普通のことだ、って言うんだけど……俺は姉さんにいっぱい貰ってばかりなんだよね』


 ねぇ、らんちゃん。大丈夫だよ。

 らんちゃんは、弟くんにとって最高のお姉ちゃんだよ。































 ついでに、余計なことも思い出した。


『ああ、でも、さっきのでさくらちゃんが守ってくれた2人目になったね』


 そうやって微笑んだ弟くんの顔が、どうしても脳裏から離れない理由を考えないように、泣きじゃくって疲れたのか、寝落ちちゃったらんちゃんを強く強く抱き締めながら、私も瞼を閉じた。


「お休み。らんちゃん」




・・・・・

・・・・

・・・

・・




 ぼんやりと意識が覚醒を始めた。


 目を開ければ、視界いっぱいに可愛い可愛い親友の顔。まだ少し泣き腫らしている顔が、堪らなく愛おしい。

 ふにふに、と指で頬に触れようとして、思いとどまる。やばいやばい、これでは本当に厄介オタクになってしまう。

 名残惜しいが、我慢できなくなってらんちゃんの顔で遊び出す前に布団から抜け出す。


 渇いた喉に水の一杯をいただきたい、と思い、らんちゃんの部屋の扉を開けて廊下に出れば、トントントン、と心地の良いテンポで耳に届く音と、嗅覚を刺激する美味しそうなご飯の匂い。

 未だにぼんやりとした寝起きの頭のまま、音と匂いに導かれるように廊下をふらふらと歩く。


 ダイニングを覗き込めば、そこにあるのはキッチンに立つ弟くんの後ろ姿。

 慣れた手つきで料理をする後ろ姿を、ぼんやりとした頭のまま見つめてしまう。初めて見る光景のはずなのに、遠い記憶が呼び起こされるような、不思議な感覚。

 自分じゃない誰かがキッチンに立って、自分のために料理をしてくれている。


「うわ。びっくりした。さくらちゃん、おはよう。早いね。朝ご飯ができるまでもう少し時間がかかるから、ソファでゆっくりしてて」


 こくり、と言葉もなく頷き返し、ソファに膝を抱えるようにして座る。

 そのまま、じっとエプロン姿でキッチンに立つ弟くんの背中を見つめ続けた──この光景に対して抱く感情を、どう言葉にして良いのかなんてわからないまま。


「はい、できたよ。姉さんを起こしてくるから、ちょっと待ってて」


 結局、自分の気持ちを上手に言葉にすることなんてできないまま、弟くんはらんちゃんを起こすためにエプロンを脱いで、リビングから出ていった。


 本来であれば。

 本来であれば、この青丹家において私は異物だ。

 本来であれば、存在しないものだ。


 ──それを十分に頭の中ではわかっているのに。


 こんなに優しくされちゃったら、私、勘違いしちゃうよ。

 こんなにいっぱい貰っちゃったら、私、勘違いしちゃうよ。

 こんなに当たり前に迎え入れられたら、私、勘違いしちゃうよ。

 らんちゃんや弟くんに迷惑なんてかけたくないのに。

 我儘なんて言いたくないのに。

 2人の前では、良い子でいたいのに。

 良い子で、居なきゃいけないのに。

 

 そんなことを考えていたのに。

 帰ってきた弟くんにお姫様抱っこされてるらんちゃんの姿を見たら、なんだかおかしくて。本当にしてるんだ、となんだか笑いが込み上げて来ちゃって。

 今まで考えていたことが、吹き飛んだ。

 弟くんにソファに降ろされたらんちゃんの瞼を閉じたままの顔を見れば、耳がわずかに赤くなっていることに気が付いた。


 なるほど。起きてるな。

 おそらくいつものように寝たふりをして運んでもらったはいいものの、今日は私が居ることを忘れていて、弟くんに甘えている姿を見られて恥ずかしくなってるな。


 ぷにぷに、とらんちゃんの頬をつつく。


「おはよう、らんちゃん」

「……おはようございます、さくらちゃん」


 今日も、いっぱい配信しながら遊ぼうね。




・・・・・

・・・・

・・・

・・




 ガチャリ、と鍵を開けて玄関の扉を開けた。

 玄関口に立ったまま、夕焼けに染まりつつある1Kの部屋を見つめる。出た時と何ら変わりのない、いつもの部屋。

 そんな部屋に向けて、その言葉を口にしたのは、ほんの気の迷いだったのだと思う。


「……ただいま」


 誰にも届くことはない言葉は、無人の部屋に吸い込まれて消えていった。

 一体、何を期待していたのだろうか。

 我ながら自分の心中が全くもって理解できない、と自嘲しながらスニーカーを脱ぎ捨て、冷たいフローリングに足を乗せた。


 部屋の中央に鎮座している小さなテーブルの上に、手に持っていた保温バッグを置いた。

 らんちゃんと弟くんに、帰ってから夕食の用意をするのは大変だろうから、と持たされたものだ。

 最初こそ、遠慮したものの、「容器は、またそのうち、いつでも良いので返しに来てくださいね」と悪戯げに微笑むらんちゃんの言葉を聞けば、遠慮する気もなくなる。


 またいつでもおいで、とそう言われた気がして。

 その繋がりを、手放したくはなくて。

 駄目だな、私。すごく弱くなっちゃってるよ、らんちゃん。


 スマホを取り出せば、お馴染みのSNSを開いて「無事に戻ったよー!らんちゃんとのオフ、楽しかったー!」なんて、きっと心配しているであろう2人と花弁たちに見えるよう、呟く。


 保温バッグの中から料理を取り出して、机の上に並べる。

 いやいや、作り過ぎでしょ。こちとらJKやぞ。どんだけ食べると思ってるの。

 なんて、弟くんに苦笑する。


「……いただきます」


 美味しい。

 美味しいのに、物足りない。


 静かな部屋の中で、私が料理を口に運ぶ音だけが響く。


 いつものことなのに、どうしてか淋しさを覚える。

 いつものことなのに、強烈な違和感が胸中にある。

 いつものことなのに。


 嗚呼、この胸にぽっかりと空いた穴をどう埋めれば良いのかなんて──私、知らないよ。




***




心做◯/朱美さくら(Cover)




コメント:泣かないで

コメント:はーーーーーつっっっっっっっら

コメント:笑ってくれ

コメント:頼む、笑顔でいてくれ・・・頼む・・・

コメント:やめろよ・・・笑えよ・・・

コメント:らんらんがつらそうなの見ると心臓がきゅーっとなる

コメント:お前が笑ってくれないと俺たちも笑えないんだ

コメント:お前が好きなもん全部抱えたまま笑ってて良いんだぞ

コメント:お嬢がお前のこと放すと思うなよ

コメント:だめだ、これを聴いてかららんらんの笑顔を守護りたくなっちゃってる

コメント:ガチ恋製造機

コメント:こんなん笑ってほしくて横に居たくなってもしゃあないやろ

コメント:いつもの馬鹿みたいな笑い声を聞かせてくれ

コメント:概要欄「楽しかったお祭りの後は、ちょっぴり、寂しい。」投稿日直近のお祭り・・・お嬢とのオフコラボ・・・?

 コメント:ア゛ッ!!?!!?!!?

 コメント:実家に帰省してから一人暮らしの部屋に戻ったときの寂しさみたいな感じなんかなぁ

 コメント:リアルにお嬢からの愛をいっぱい受け取った後にコラボが終わって1人になってから失った愛に気付いたってこと・・・?

 コメント:お嬢からの愛で苦しむらんらん・・・

 コメント:違うぞ。今まで愛されていなくて苦しかったことにさえ気付いてなかったんだぞ

 コメント:お嬢のおかげで初めて愛に気付いた

 コメント:らんらんがオフコラボの感想枠やってたとき、リアルに体験した姉弟てぇてぇの話してたけど、すっげぇ眩しそうに話すんだよ。もしかして、君と同じものが欲しい、って、家族のことだったりしない?

 コメント:やめろ。その解釈は俺に効く

 コメント:青丹家の家族愛に手を伸ばしちゃうらんらん・・・?

 コメント:今後らんらんの姉弟てぇてぇの語り、全部らんらんが家族愛に焦がれてるように聞こえてつらくなるからやめろ

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