ゴーレム使いの花嫁修業

九重 まぶた

 プロローグ

 絶壁の岩肌に光球が浮かんでいる。その光に忠誠心を示すように白の祭儀服に身を包んだ女が跪いている。

 ここは外界から隔たった世界。土の神の神殿。


「ルクの血を引きしベアトリーチェよ。明日はそなたが女神へと昇華する日。心の準備はできているか?」


 光は慈愛に満ちた母のような声音で問いかける。ベアトリーチェと呼ばれた女は顔をあげる。

 小麦色の瞳がその光を我が母を慕うように見つめている。


「はい。すべては大地神トロイア様のために」


 言葉少なに女はそれだけを告げ、光もまた満足そうに揺れ動く。


「心残りはないな? そなたは明日このトロイアの一部をそなたと融合させることで、人とは決別する。人の世界にはもう二度と戻れぬであろう」


「トロイア様、今更何をおっしゃいますか。このベアトリーチェは生まれた時から三十のこの歳までここ以外を知らぬ身。トロイア様と一体になること、それこそが我が人生の最高の喜び。今更、世俗には興味がございません」


 その言葉に光は喜びで身を振るわせるように左右に揺れ動く。


「そなたのその言葉が聞けて母は満足である。明日に備え休むがいい」


「はい。では失礼いたします」


 女は立ち上がり、礼をする。

 岩壁に背を向け、蜀台の炎が続く回廊へと足をむけた。

 いくつもの扉から、ベアトリーチェと似た黒の祭儀服を着た若い信徒が出入りをし、すれ違い会釈をしてくる。


 ベアトリーチェは軽く瞼を閉じることで応じた。

 気づけば自分よりも歳のいった信徒はいなくなっていた。彼らは二十歳を越えたあたりで婚姻をし、村へと戻り、そこで生まれた子供がまたこの神殿に使える信徒となる。

 ベアトリーチェは二十歳の年齢はとうに過ぎ、今は三十の歳を数えるにいたった。

 彼女は特別な存在。

 誰も彼女を汚すことは許されない。

 神に愛され、神へと昇華することが許された唯一の器。

 その身を神となすために辛い修行に明け暮れ、下界とは無縁に生きてきた。その他は何不自由なく暮らしてきた。この神殿では神トロイアの次に大事にされてきたベアトリーチェ。彼女の世話はすべて黒の祭事服を着る者の仕事であった。なによりもそれが彼ら彼女らの喜びなのである。ある程度の我がままは許された。何より、神の昇華は心待ちにしていた瞬間である。


 ただ――。


 ベアトリーチェは思う。先ほどトロイアに申し上げた言葉は嘘偽りのない言葉。というには言い過ぎの感はあった。心残りがあるというほどのものではないがベアトリーチェには一つだけ気になっていることがあった。それは――。


「禁断の書」


 以前、神官長に用事があり尋ねたところ留守であった。改めなおそうかとも思ったが扉が開いていたために悪いとは思いつつも部屋でそのまま待たせてもらうことにしたのだ。

 ただ待っているだけでは手持ち無沙汰になり、棚に並んだ本を適当に読んで待っていようと手に取った。

 そこに丁度入室してきた神官長が少し驚いた顔を浮かべると同時にベアトリーチェの手に持たれた本に気づき血相を変え、乱暴ともいえる力で奪いとられた。

 神官長は取り乱したことを詫び、この本は禁断の書である為に決して開いてはならないことを告げてきた。

『禁断の書』

その本がいったい何なのかと疑問が残り、本への興味がいつまでもついて回った。

明日は儀式の為、神官長を含む信徒たちは慌しく準備に追われている。部屋はもぬけの殻。気づけば神官長の部屋、本棚の前に立っていた。

禁忌を犯す心境とはこんなものなのかと甘い蜜に吸い寄せられる光虫のように吸い寄せられていく。そして本を掴んだ。


「ごめんね神官長」


 ベアトリーチェは震える指で本を開く。「――っ」文字が目に雪崩れ込んできた。

 止まらない。外界との情報が遮断されていたベアトリーチェにはまるで雷のような衝撃でその文字が脳に流れ込んできた。これは――世俗の話。


 ページを捲る捲る捲る――――っ。捲る指がピタリと止まる。


 眼がある文字に止まる。

 思考が停止し、ねばつく汗が全身から吹きだし、体から力が奪われていく。文字が踊るように視界を歪ませ消え入りそうになる意識を翻弄する。力なく本棚にもたれバランスを崩す。いくつかの本を床にばら撒くとともにその場についに崩れ落ちてしまった。


「……これが『禁断の書』の力」


 ベアトリーチェの麦色の瞳から光がいまにも失われようとしていた。

 張り詰めた喉からしぼりだすように擦れた言葉が漏れる。


「……私って世間一般では、行き遅れっていうの?」


 その問いに答えてくれる者は、ここにはいない。


「そういえばそもそも神様との融合って婚姻になるの? 別に契りを結ぶわけでもないし、そもそもトロイア様は女神だし……」


 ベアトリーチェはハッとした。


「え? ちょっとまってちょっとまって、私が神様になったとして、みんなにはどう思われるの? もちろん表面上は畏敬の念をもって接してくれるわ。でも心の中では――? 行き遅れた結果、神様になったって思われるんじゃない!? いやよ! もし、信徒の誰かがあいさつにきて立ち去るとき、その後ろ姿が笑いを堪えるために肩の部分が小刻みに揺れてなんてしてたら……結果的に行き遅れの人だよね(笑)ってもし、笑われでもしたら……嫌よっ!!」


 ベアトリーチェは天国から地獄に突き落とされたような気持ちになり、手をわなわ

なさせ、この現実を脱する光を亡者のように手を伸ばし求めた。

 だがそんなものどこにもない。

 私は明日、処女神となる。

 『禁断の書』それは確かに読んではならぬものだった。己の価値観がすべて崩れ去っていく。

 泣き崩れるように地面に突っ伏し、嘆いていると、指がさきほどばら撒いてしまった一冊の本にこつんと当たる。泣き崩れる麦色の瞳がその本のタイトルを映しだす。


「――っ」


『希望の書』

 カエルがハエを食うスピードで本をもぎ取り震える指先でページを開いた。

『行き遅れ? 三十? まだまだ大丈夫。そんなあなたもこの本で私の教えを学べば――』

 裏表紙を電光石火で開く。

 血走った小麦色の瞳はその著者の名を己のすべてに刻んでいく。


『著者、フィリア・イエル』


 ベアトリーチェはその日、宮殿から逃げ出した。

 月日は流れる。

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