等価交換ゲーム
早河縁
第1話
煙草の煙が充満する空気の薄い部屋。狭く、薄暗く、汚い部屋。
現在の時刻、午前四時。
空になった青ガラスの酒瓶。カーテンの隙間から昇りたての朝日が入って来る。その細い光が酒瓶に反射しているのを眺めている。
二十三時に睡眠薬を飲んだものの、それでも眠ることは出来ず今に至る。
こんな時間でも、夏特有の暑さは部屋の中を蒸す。その暑さに項垂れて寝返りを打ち、ベッドから足を床に放り投げる。
「なんかいいこと、ねえかなあ」
虚空に向かって呟く。しんと静まり返った部屋の中に、俺の声だけが響いた。
鬱々とした気分が抜けない。鬱々。鬱々。心がどんよりとして、胸のあたりがずんと重く感じる。それに伴って身体も重くなる。そうして、動けなくなる。
本当は声を出すのも辛かった。それでも、声を絞り出してまでも、『なんかいいこと』が己の身に降りかかって欲しかったのだ。だって、自分は不幸だから。ついてないから。
また寝返りを打つ。まるでそれだけしか出来ない生き物のようだ。寝返りを打った後、目線の先にあるものはヤニに塗れて薄黄色に変色した壁。
そのはずだった。
壁の代わりに俺の目に入ったのは、人の足先。驚きながらもゆっくりと上を見上げると、長い黒髪の美女が裸足にセーラー服でベッドの上に立っていた。
その美女は赤い釣り目で俺のことを見下ろして、にたりと笑った。
「私は悪魔だ。貴様と契約をしてやるために現世へとやってきた」
悪魔と言われて、納得した。彼女の頭には赤い角が生えていたからだ。
「少しだけ待ってください」
俺はベッドから降りて、彼女にベッドに座るよう促した。すると彼女は、
「貴様の精液塗れのベッドに腰などかけられるか。清潔で高貴な椅子を寄越せ」
とこの上なく嫌な顔をして文句をつけてきた。
精液塗れのベッド、って……そんな。俺はそんな、不潔なベッドシーツを作り出したりはしない。確かにこの部屋は汚いかもしれないが。そもそも俺は自慰行為自体そうそうしない。そんな気力なんて無い。
そんなことを考えていると、彼女はふと笑ってベッドに腰を掛けた。なんで?
「貴様のような人間の思考程度、読めない訳がなかろうが。貴様はどうも現世で言うところの鬱病らしいからな。自慰をする気力なんて無いのだろう。反応を見ようと少々からかっただけだ」
どうやら自称悪魔の彼女には、俺の思考は筒抜けらしい。どれもこれもが本当の話なら、喋るのが苦痛な俺にとっては好都合かもしれない。
ところで、彼女が先程言っていた『契約』とは何のことなのだろう。
ちらりと彼女を見るとにたにたと笑っていた。
「あの……」
「貴様の思考程度読むこと自体は容易いが、あえて貴様の思考した言葉に答えはせん。私は悪魔だ。ヒトが苦しんでいる様子を見たい。喋ることが嫌いな貴様にたんと喋らせて苦しめたいのだ」
とんでもなくコテコテの悪魔的発言だ。
「ほら、早く喋れ」
「ああ……はい……あの、契約っていったい何なんですか?」
俺が質問すると、彼女は満足そうににたああと笑った。その笑みを見て、俺はこの人物が本物の悪魔なのだと心の底から実感した。
このような極悪な表情を出来る生き物が悪魔でなくて何なのだ。
何とも言えないおぞましさを感じる。彼女は悪魔に他ならないということを確信した。
「そうだ、貴様はそのように私を楽しませていればいい。契約については、そうだな……端的に言えば、貴様の欲しいものを何でも与えてやる代わりに、貴様は私を楽しませろ。それだけだ」
欲しいものなら何でも与える。彼女は確かにそう言った。
「何でも?」
「何でもだ」
「例えば友達とか彼女とかでも?」
「ああ。その代わりに、代償は必要だがな」
「あなたを楽しませるというものだけではなく?」
「そうだ。貴様が私を楽しませるのは、黙っていても出来る。簡単すぎるにも程があるチュートリアルよりも簡単なミッションだ」
じゃあ、いったい何が必要だって言うのか。
「言ってしまえば、等価交換。わかり易く説明してやる。与えるものの価値に対応するだけの価値を持つものをこの世から消す。ヒトを得たければヒトを差し出す。どうだ、面白いだろう」
彼女の言っていることは、一見非情なようにも聴こえる。しかし、俺にとってはそれはむしろ好都合だった。
「嫌いな奴を消して友達一人出来るなら、構わないよ」
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