本番当日② 本番開始

 ゲネプロを終え、昼食休憩の時間。

 男子楽屋で楽譜の確認などをしていると、コンコンとノックの音が。


「はーい」

「調ー、ご飯、一緒に食べようよ」


 美音だ。


「いいよ」


 僕は持参してあった弁当箱を手に取った。


「吉田さんもどうですか?」

「いや~、僕はいいよ。若い二人で楽しんできな」


 手をヒラヒラと振る吉田さん。無理に誘うこともないかと思い、そのまま楽屋を後にする。


 ここはあくまで市民会館だから、ホール以外にも、会議室や子供向けイベントスペース、図書室などが併設されており、利用者も多い。

 僕らは多目的スペースの一画に腰を下ろした。


 僕は持ってきた弁当を広げる。美音はパンのようだ。


「お、お弁当。いいね」

「うん、お母さんに持たされたよ」

「いいじゃん」

「美音はパン派?」

「うん、本番の日はね。食べやすいし。そういえば、今日は家族も呼んでるの?」

「うん。みんな来てくれるって」

「へえ、いいなあ。うちは仕事が忙しいみたいで……」


 そう呟く美音は、どことなく寂しそうだ。


「そういえば、美音は知り合い、結構呼んでるの?」

「うん。学校の子、四十人くらいかな?あと、前の学校の子とか、中学時代の友達とか。

 百枚くらいはチケット配ったと思う」

「百枚はすごいな。僕は二十行かないくらいかな」

「もっと配らないとダメだよー。まあ、全員来てくれるわけじゃないと思うけどね」


 とは言え、誘わないことには来てくれるはずもなく、アマチュアの演奏会での事前チケット配りは大切なのだ。


「でも、吉田さんとか顔が広いから、いっぱい配ってそう」

「うん。普段から吉田さんの知り合いらしき人は多いよ。あと明石さんの関係の方。それから源田先生の教え子さんも」

「そうなんだ」

「やっぱり恵まれてるよね、こんな高校生の素人の演奏でも、みんな聴きに来てくれるんだから」

「だね。

 ……よし、気合入ってきた!!調、行くよ!!」


 勢いよく立ち上がる美音。おいおい、ペットボトル忘れてるよ!!


 楽屋に戻ると、吉田さんがチェロを弾いていた。仕事のある社会人は忙しいから、練習の時間を確保するのも大変だろう。入念に最終確認をしている姿を邪魔するのは悪いと、声はかけずに、僕も自分の準備をすることにする。そろそろ衣装へと着替えなければ。

 男性の衣装は、黒スーツに白シャツ、蝶ネクタイだ。クラシックコンサートでは定番の格好。

 蝶ネクタイなんて、今どきこの業界でしか使わないのではなかろうか。つけるのは意外と簡単で、首に回してホックを止めるだけ。


 いかにも正装といった格好に身をつけると、否が応でも気が引き締まる。

 姿見で全身をチェック、うん、問題なし。


「吉田さん、先に行きますね」

「了解、あとちょっとさらったら僕も行くよ」


 楽器ケースと楽譜を持ち、舞台袖へと向かう。どうやら僕が一番乗りのようだ――女性は準備に時間がかかるからね。


 本番三十分前、ちょうど開場された頃だ。

 ステージへと通じるドアの隙間からチラリと客席の様子を覗くと、少しずつお客さんが入場してきている。よかった、今回も集客は上々のようで、本当にありがたいことだ。


 普段、僕はあまり学校の友達は誘わないのだけれど、見ていると、うちの高校の制服らしき学生がちらほら見受けられる。女子が多く、美音の知り合いだろう。そう思うと、何だかいつもと違う緊張感が出てきたな。


「おー、お客さん、結構入ってるね」


 美音が小声で話しかけてくる。本番二十分前、彼女も準備が終わったようだ。


「うん、よかったよ」


 お客さんに届かないよう、僕も小声で返した。


 僕らは客席から少し距離を取るよう、その場から離れた。


「おお……」


 改めて眺め、僕は思わず息を呑んでしまう。


 ブルーのドレスに身を包んだ美音の姿。普段は下ろしている茶色い髪も、今回はアップにセットされている。ほんのり化粧も施したのだろう、元々整った顔立ちは、更に美しさが強調されていた。


「へへ、惚れたかい?」


 少しにやけながら、そんな冗談を飛ばしてくる彼女。


「うん、すごくきれいだ」


 ……思わず本音がこぼれてしまった。


「ちょ、そんな本気マジな感じで言われると、さすがに照れるって言うか……」


 向こうも何だか照れ臭そうだ。

 しかしそんな空気を壊すように、吉田さんが現れた。


「おうおう、いいねえ、若いって」


 坂本さんも一緒だ。


 本番十五分前。この段階ではさすがに、私語を交わすことはない。


 ビーーーーーーーッ――

『演奏開始、十分前です。ロビーにいらっしゃるお客様は、客席へとお戻りください』


 ブザーと共に、会館スタッフによるアナウンスが流れた。


 吉田さんが言う。


「いつもはここで明石君が締めてくれるけど、今回は不在なので、年長の僕が。

 今回は明石君がいないけれど、代わりに美音ちゃんが入ってくれました。美音ちゃん、本当にありがとう」

「ありがとうね」

「ありがとう」

「い、いえいえ、私こそ、こんな経験させてもらって、ありがとうございます」

「このメンバーで演奏できる機会が次いつ来るか分からないけれど、悔いの残らないよう、今までの練習の全部を出し切って、思いっきり楽しみましょう!」

「「「はい!」」」


 もちろん小声だけど、力強く、皆で気合を入れ直した。


 ……そうか。

 この本番が終わったら、次回はまた明石さんが戻ってきてくれる。

 そしたら、美音と音楽できる機会が無くなっちゃうんだ。


 今まで全然、そのことに気付けていなかった。そうか、今日が最後……。


 しかしそんな感傷に浸る間もなく、会場全体の照明が落とされ、程なくして、ステージを照らすライトがオンになる。

 それを合図に、吉田さん、僕、坂本さん、美音の順で、僕たちはステージ中央へと歩いていった。


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 本番前半は、用意してあった小曲の数曲を披露した。出来は上々で、一旦僕たちは舞台袖へと下がる。ここで十五分間の休憩だ。

 そしていよいよ、今回のメイン、ボロディン弦楽四重奏第二番。


 休憩後、最初と同様にステージに上がり、全員が椅子に座る。


 美音がラの音を鳴らす……チューニングだ。

 第一ヴァイオリン奏者は演奏の基準となり、最初の音取りも、第一ヴァイオリンに合わせる。

 このチューニングをしっかりしておかないと、音程が合わず、美しい響きが生まれない。


 とは言え皆慣れたもので、手短にチューニングを済ませた。


 この曲の冒頭を演奏するのは、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの三パート。中でも、第二ヴァイオリンは一拍目の表から音があるのに対し、ヴィオラとチェロは、一拍目の裏から入ってくる。

 そのため必然、一番最初のタイミングは、第二ヴァイオリンからの合図で合わせることになる。


 幾度となく練習した、曲の入り――坂本さんは、落ち着いた呼吸で弓を軽く振る。

 吉田さんと僕も、坂本さんと呼吸を合わせて……遂に、この曲の本番が始まった。



 冒頭の主役はチェロ。

 練習開始当初は、冒頭からたっぷり、それこそ奥さんへの愛を歌うような演奏方針だった。

 しかし相方の第一ヴァイオリンが美音に代わってから、吉田さんの歌い方は、あまりくどくしすぎない方向へとシフトしていった。

 それでもフレーズ終わりの三連符にはこだわりがあるようで、何度も色んなパターンを試したっけ。


 最終的に、ためすぎず、あっさりすぎず……想いはあるけれど、まだ出し過ぎない。

 そんな雰囲気で、チェロのメロディが終わる。


 そして第一ヴァイオリン、美音が同じメロディを受け継ぐ。

 チェロよりも長い時間を与えられたそのメロディは、だんだんと躍動感を増し、音色も落ち着いたものからキラキラしたそれへと変わっていく。

 

 練習の時は、それでテンポを上げ過ぎちゃうこともしばしばあったけれど、うん、今日は絶妙だ。


 そして、第一ヴァイオリンとチェロのメロディのやり取り……自由に駆ける第一ヴァイオリンと、それをずっしり見守るチェロ。

 それは確かに、夫婦というよりも、父娘を彷彿とさせた。


 そんな光景がしばらく続くが、今度は別のメロディが出てくる。

 先ほどまでの優しい雰囲気とは打って変わり、力強い民族調のメロディ。


 ここからは、ヴィオラの音にも注目してもらおう。

 決してメロディで主役を張るわけではないのだけれど、メロディの合間合間に出てくる印象的なフレーズが、ヴィオラに割り当てられている。

 

 ――僕だって、ここにいる。


 第一ヴァイオリンの美音が娘、チェロの吉田さんがお父さんなら、ヴィオラの僕は、ここでは弟。


 姉が優雅に力強く踊る中で、弟の少年もちょくちょく自己主張をしてくる――自分なりに考えた末、ここはそういう雰囲気を皆で作るよう、話し合って煮詰めていったんだ。


 一楽章が展開していく。

 



 ……ああ、楽しいなあ。


 美音がテンポを上げるなら、他の三人も、時にはそれに追随し、時にはそれをやんわりと静止して。

 テンションが上がり過ぎていたら、第二ヴァイオリンの坂本さんが少しだけ音量を下げ、それに気付かさせてくれる。


 決して言葉を交わしていないのに、僕らは確かに、音で会話ができていた。

 

 そして僕らの紡ぐ音楽は一体となって、お客さんの元に届いていく。



 チェロがディミニエンド(だんだん小さく)を伴う上昇音型を奏でると、カルテットの奏でる和音は、D、G、A7へと、緩やかに展開。そして最後はまたDの和音へと解決する。


 最後は全員がレの音を奏で、一楽章は静かに終演した。

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