本番当日① ゲネプロ
十二月某日の土曜日。朝八時を少し過ぎた頃。
レイとのコラボ楽曲の発表から、まあまあの月日が経っていた。
二曲同時でリリースした『Season End』『Ray』は、どちらも好評を博している。よかった。
『Ray』は、彼女の音楽性や、デビューから瞬く間にトップアイドルへと駆け上がったその勢いをイメージして作り上げた。
八代さんに提出したのも、この『Ray』。そしてこの時、二曲同時リリースというアイデアも相談した。
八代さんとしては、『Ray』の出来には満足だけれど、二曲案については慎重派、といったところだった。それでも、曲のデモ版と共に、チラッと「そういうアイデアも出ている」程度にメールの端に書いてみたところ、レイのサイドさんの方が喰い付いてくれたらしく。
とんとん拍子で「もう一曲作成」が決まったのだ。
そして『Ray』の相方となった『Season End』。これは、柚季に作った『Citrus Season』のリアレンジだ。
正直この曲を公に出すつもりはなかったのだけど、美音の「想いを込めた曲ほど、それは形にするべき」という言葉が妙に胸に残り、考えた末、この曲をキラーチューンにすることを決めた。
曲の方向性を色々と考えるうちに、僕は自分が失恋の傷みから立ち直りつつあることを自覚した。だから曲のタイトルは、『
それはおそらく、彼女のおかげだろうけど……。
この件についてはまだ、そっとしておきたい気分だ。少なくとも、今日の演奏会が終わるまでは。
そう、今日はいよいよ本番。
ここ四か月練習してきた『ボロディン弦楽四重奏第二番』を、お客さんの前で披露する日だ。
僕は市民会館を訪れていた。
ここは小さいながらもオーケストラの演奏ができる大ホールと、少人数の室内楽コンサート中心の小ホール、二つの会場を兼ね備えている。
まずは正面の会場入口へ。とは言えこの時間、まだホール自体は開場していない。
見に来たのは、入口手前、『本日の公演予定』の掲示板。
その小ホールの枠に貼ってある『四季色カルテット』のポスターを確認すると、僕は改めて気を引き締めた。
少しの間佇んでいると、後ろから話しかけてくる声が。
「おはよ、調。このポスター、私好きだよ。吉田さん、センスあるよね」
「……美音。おはよう」
モノトーンベースに少しだけパステルカラーをあしらったデザインのポスターは、チェロの吉田さんの作品だ。吉田さんはこういったポスターやチケット、パンフレットのデザインと、その印刷を、一手に引き受けてくれている。
「このポスターさ、クラシック音楽の格式高い雰囲気と、ボロディン一番の優しい雰囲気、その両方が伝わってくるよね」
「うん。吉田さんのポスターやパンフレットは毎回デザインに凝っていて、僕も楽しみなんだ」
「へえ、そうなんだ。意外!」
「意外って、失礼だよ……とはいえ、気持ちはわかるけど」
僕も苦笑しながら応じる。明石さんも毎回、「何でこんなおっさんから、こんなハイセンスなものが」と唸ってるし。
「ね。でも……いよいよ、だね」
「うん」
本番前特有の、ふわふわした高揚感と、ひんやりした緊張感。もちろん、不安もある。
でも僕は全部ひっくるめて、この感じが好きだ。
隣の美音も同じようで、彼女の表情は、いつも以上に凛々しいものに見えた。
僕らは徒歩で裏へと回り、楽屋口を目指す。
「調、早いね。九時集合でしょ?まだ八時十五分だよ」
「うん。本番前はいつもこんな感じ。楽しみで、早く行きたくなっちゃう」
「わかる、私もだ」
「でもさ、いつも一番早いのは――」
角を曲がると、楽屋口が見えてくる。
そこには、大きめの弦楽器を背負い、一服している男性の姿が目に入った。
「あ、吉田さんだ」
美音が声を上げる。
「おう、美音ちゃん、調君。おはよう」
「おはようございます」
「おはようございます、吉田さん。早いんですね」
「うん、オケの方で長いことステマネやってるからさ、もう癖で」
吉田さんは市民オーケストラにも所属していて、そこではステージマネジメントという係を担当しているらしい。本番会場のスタッフさんとやり取りして、当日のスケジュールや楽屋割、段取りなどを決め、団を動かす仕事だ。
市民オーケストラはプロと違い、演奏者が雑用係も分担するのが普通みたいで、坂本さん曰く、ステマネは中でも激務らしい。
本番会場の当日受付もステマネの仕事だから、早く来るに越したことはないみたい。
「まあ、こんな早く来る必要はないんだけど、結局好きなんだよね、こうして集まってくる団員たちを眺めるのが」
「オケか〜。私も大学入ったら挑戦したいなあ」
「美音ちゃんなら、今からでも全然行けるよ~」
「いやあでも、そろそろ受験勉強が……」
「そっか、来年には高三だ」
三人集まれば、これからの話、音楽の話、演奏の話。
話題は尽きなくて、そのうちに坂本さんも合流する。八時四十五分。
ホールスタッフの方が少し早めに開けてくれ、八時五十分、僕らは会場へと入った。
小さな楽屋は、当然男女で分かれている。二人ずつだから、一番狭い所で十分だ。
リハ開始は九時三十分、今特に楽屋ですることもないので、早速ステージに向かおう。
衣装などの荷物を置き、楽器と楽譜、筆記用具、そして貴重品を持って、僕は楽屋を後にした。
ホールの裏手って何だか通路が入り組んでいて、最初のうちは目的の場所に辿り着くのに大回りしてしまったこともあったけれど、この会場は何回か使用させてもらったから、もう慣れたものだ。
美音は大丈夫かな……。ふとそんな気持ちがよぎるけれど、坂本さんも一緒だから、心配ないだろう。
すぐに舞台袖へと辿り着く。
舞台袖は薄暗く、反響板という大きな板が何枚もそびえ立っており、独特の雰囲気だ。この反響板が、ステージ上の音を反射して客席に届けてくれるので、とても大事なものなのだけれど。
反響板の脇の扉をくぐって、ステージ上へ。
当然、客席にはまだ誰もおらず、ただ椅子がずらっと並んでいるだけだ。小ホールとはいえこれだけでもなかなか壮観なんだけど、お客さんが入った時の高揚感は、その比ではないんだよな。
僕はステージと客席を繋ぐ階段から客席に降り、一番前の席に楽器ケースを置いた。
そしてもう一度舞台袖に戻り、演奏のための椅子を持ってくる。四脚だから、いっぺんに運んでしまおう。
ステージ中央、半円状になるように配置して……と。また舞台袖に戻り、今度は譜面台だ。
普段練習で使う譜面台は、持ち運びしやすい、折り畳み式の軽いものだけれど、本番会場の譜面台は、本番で倒れたり楽譜が落ちたりしないよう、重みがあり、楽譜を乗せる部分も長方形の板であることが多い。
なのでさすがに一人で四脚運ぶことは難しく、二回に分けることにする。
ふう、とりあえず二つはオーケー。
僕がもう一回戻ろうとしたところで、
「あ、調。もう準備してくれてたんだ、ありがとう」
美音が現れた。
「調君、いつもありがとうね」
坂本さんも一緒だ。
「いえ、四人だけなんで、そんな大した仕事じゃないですよ」
「あ、残りの譜面台は私、持ってくるよ。調はアップしといて」
「うん、じゃあお言葉に甘えるよ」
美音は早歩きで舞台袖に戻ると、すぐに譜面台二脚を抱えてやってきた。
これで準備は完了。
「調、吉田さんは?」
「打ち合わせ中。パンフレットのビラ挟みとか、その辺の話をしてくれてると思う。リハ開始までには来ると思うよ」
「あ、そっか、なるほど」
各々が楽器を鳴らして、アップを始める。
そのうち吉田さんも現れて合流し、いよいよ本番前の最後のリハーサル、いわゆるゲネプロが始まった。
最後の練習は、九時半から十二時までの二時間半。
今回の演奏曲は、ラストに当たるメインの楽曲がボロディンの弦楽四重奏曲第二番。この曲は全四楽章形式で、通しで演奏すると三十分近くかかる。
この他にも、五~十分の小品を四曲ほど、それにアンコールも用意しているので、トータルの演奏時間は一時間と少しくらいになるだろうか。
二時間半しかない中で全曲を扱うとなると、とてもじゃないけれど、一つ一つの個所をじっくり、というわけにはいかない。
そういえば、明石さんも言ってたっけ。
「本番前のゲネプロで仕上げよう、なんて思うなよ。ゲネプロなんてのは、当日の楽器の調子と、ホールの鳴り、あとは空気や湿度を確認するためのもんだからな。ゲネプロでできることなんか、ほとんどねえんだよ」
今回、いつもとの最大の違いは、プロである明石さんがいないこと。
演奏中でも、練習の方向性という意味でも、最後にはこの人に着いていけばいいという安心感があった。先週の最後の練習にまで明石さんは付き合ってくれたけれど、いざ本番当日、絶対的支柱のない僕らが、いつも通りの演奏をできるだろうか。
リハ開始後三十分。
特に第二ヴァイオリンの坂本さんと、チェロの吉田さん。年長二人の演奏が、いつもより固く感じる。いったん練習を止めるべきだろうか……。
僕が考えあぐねていると、突然、第一ヴァイオリンのメロディが高らかに鳴り響いた。
美音、そこは確かに
しかし彼女の勢いは収まらず、楽器を鳴らしまくって、明るいメロディを縦横無尽に紡いでいく……うん、いいよ。付き合ってみようじゃないか。
僕は美音のノリに合わせるべく、伴奏のテンションのギアを一段階上げることにした。
すると今度は、吉田さんも乗ってきてくれる。うん、いつもの音が戻ってきたぞ。
そして坂本さんには……何だか苦笑されている気がするけど、彼女も弓を大きく動かして、伴奏のテンションを合わせてくれた。
勢いでこの曲を通し切ると、美音が思わずといった具合に叫んだ。
「やー、楽しい!!」
「ってか美音、やりすぎ」
「えー、調だって、途中で乗ってきてくれたじゃん」
「まあ、つい……。でも、本番はもう少し緻密に行こうな」
「はーい。
坂本さんも吉田さんも、もし私が暴走しかけたら、よろしくお願いしますね!」
「いやー、おじさんはついてっちゃうよ~」
「吉田さん、チェロは土台なんですから、どっしり構えてくれなきゃ困りますよ。
でも美音ちゃん、ありがとね。調君も。せっかくの本番なんだし、やっぱり楽しまなきゃね」
「そうですよ、坂本さん!吉田さん、本番は録音するんですよね?」
「うん、もちろん」
「じゃあ、その録音を聴かせて、明石さんをギャフンと言わせてやりましょう!打倒、明石さんです!!」
「おー!」とばかりに腕を振り上げる美音。
「ははは、いいね、それ」
「確かに、そのくらいの気持ちでないとダメね」
「でも美音、今のは確実に明石さんに突っ込まれるからな。皆さん、練習番号Eあたりから、もう一度やりましょう――」
美音のおかげで、僕たちは最終的に、最高の雰囲気でゲネプロを終わることができたんだ。
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