第29話 甘美とファンレター②
暗澹としていると表現するには少々語弊があるが、ビジネスビルの真裏に位置する田池探偵事務所の室内は立地の関係であまり日光に晒されておらず、あまつさえ窓側のカーテンまでも閉ざしてしまっていて、まだ夕刻だというのにとても視界が悪い。
「もう……また閉め切ってる」
それは前方を歩く閑谷も同感だったようで、小慣れた足取りでソファーやテーブルを躱し、まるで明朝を告げるかの如くカーテンを切り開いてみせた。
実際は夕方だけど、後光に照らされた閑谷が醸し出す雰囲気はそんな感じだった。例えば昼夜が逆転した生活を送っていたら、朝か夕か判別が付きにくくなるらしいし……そもそもどっちでもいい。
そんなことより。この田池探偵事務所は、タレント探偵という肩書きを持つ閑谷のような紛い物ではなく、正真正銘の探偵が居住もしている事務所だ。
ただいくら世間的に知られたタレント探偵としての身分があるからとはいえ、本物の探偵事務所へと気軽に訪れているのかというと違うだろう。これも閑谷の人脈というか、血筋が関与している。
その閑谷は振り返るとすぐソファーを見る。さっきまでは暗くて分からなかったけど、そこには連日続く夏日には珍しい長袖長ズボンの黒ジャージを身に纏い、帰宅と同時に寝落ちしたとばかりにソファーで転がっている、髪の毛がうねり無精髭が残るが、どことなく美麗な閑谷の面影が覗く。きっときちんとした整髪と髭を剃れば、その年齢よりも大幅に若く見られるくらいの素養がある。
いや正確には閑谷の面影というよりは、この人の面影が閑谷にも少し反映されていると評するべきだ。だってこの二人は、叔父と姪という直接的な親戚関係にあるんだから。
「政光さん? 風邪を引きかねないからソファーで眠らないようにって言ったのに——」
「——んん……眩し……ぅん? ああ、来てたのか鮮加。学校帰りか?」
そう閑谷に返すと、テーブルにある自身のスマホを足掻くようにして取り、時刻を確認している。どうやらまだオレには気付いていないみたいだ。
「うん。政光さんは……その格好的に猫捜索かな?」
「そうそう、大山さんちのモンモンがまた逃げちまってな。まああいつは高い所が好きだから、塀より上を探索してたらすぐ見つかったけど、捕まえるのにかなりてこずってな……流石にこの歳で俺までよじ登って追い掛ける訳にもいかなねぇし、モンモンはずっと歩き回ってるし、結局朝方には自分で大山さんちに戻るしで、俺の出る幕はなかったかもな……」
上体を起こしながら寝癖箇所を掻き毟り、大山さんちの猫と思わしきモンモンとの小さないざこざを語る。それはオレの所感でしかないけど、なんだか口調が弾んでいる気がする。
「ということは、モンモンは大山さんち?」
「ああ。無事に帰って来てくれて何よりだ」
「大山さん喜んでたでしょ」
「モンモンが少し鬱陶しがってるくらい、ぎゅっと抱きしめていたよ。なかなか子どもに、あの愛情表現は分からないだろうけどな。なんにせよ良かった——」
親愛が含まれた苦笑をしながら飼い猫の無事を喜ぶ。一通り話が済んでようやく、閑谷以外の気配に勘付いたのか、その人……田池探偵事務所唯一の探偵であり、閑谷からすれば叔父にあたる
「——……なんだ吉永くんか、一瞬依頼人かと思って焦ったじゃないか。こんなジャージで応対するわけにはいかないからね」
「すみません影が薄くて。こんにちは」
「ははっ……もうこんばんはになるかもしれないけど、こんにちは。ほら、学校に行って疲れてるでしょ? 遠慮せず寛ぐといいよ」
「……お言葉に甘えて」
軽く会釈をして、オレはこの一室のどこに向かおうか迷う。部屋の構造としては、数十人ほどの従業員を雇うことも余裕なくらい手広でまさにオフィスフロアといった感じだ。
ただ所用物に面積の大半を持っていかれており、空間はあまりない。例えば依頼人との面談のためのダブルソファーが右側に一つ、シングルソファーが左側に二つ並び、その中間にモダンテーブルが置かれている。窓側奥には田池さん専用の机椅子を挟むように書棚が四つも並んでいて、そこにいくつあるか数えるのも億劫なほどファイルが詰められている。備え付けの台座にはPCやコピー機にテレビなど、探偵業に最低限不可欠なものがあると一目で判別出来る。
疲労からうつらうつらとしてかつ、ジャージで身嗜みまで整われていない今の姿からは想像しにくいけど、一室から探偵業に本腰を入れている片鱗が、素人のオレにまで伝播する。そして簡易的にではあるが入り口付近にはキッチンスペースもあり、田池さんは今そこに向かおうとしている。多分、オレと閑谷のためのおもてなしにと飲み物を配膳するつもりなんじゃないかと思う。
それともう一つ。元々は喫煙ルームだったらしい場所を改装した小部屋がある。その小部屋へと当然のように閑谷が入室する。
「吉永ー、こっちに来なよっ」
「あ、うん」
「今日もたくさん届いているって聴いたんただ。全部に目を通せるかな?」
「どうだろうね」
閑谷に招かれて、オレも入ることを許される。小部屋は喫煙ルームを閉鎖した後、数ヶ月前までは休憩室だったらしい。依頼人が子連れだったり、閑谷家が田池探偵事務所を訪問したときなどに、幼い頃の閑谷が遊んだところだと以前言っていた。
しかし現在は、定期的に雫井プロダクションの監査を通過した閑谷宛てのファンレターや品物に溢れている。まさに閑谷の……タレント探偵の小部屋となり変わる。
「いっぱいあるね」
「そうだな……」
小部屋にある横長テーブルの上に並べられた紙袋を覗き込む閑谷は、まるで予期せぬお土産をもらってはしゃぐ少女のようだ。ただ何故田池さんの仕事場に、姪っ子の閑谷が所属する雫井プロダクションからの手荷物が届くのか。それはタレントとして芸能界入りする際における、閑谷家の用心深さが発端だ。
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