邂逅
yaasan
邂逅
このページをめくったら泣いちゃうかもよ。
机の中に置いていたノートに、そんな文字が書かれている。
二日ぶりに登校した中学校。それなのに、授業が始まる前からこれは結構きついなと私は思う。
……あれ? 今日は来てるんだ。
……来なくても誰も困らないのにね。
……うわあ、マジ? 最悪なんだけど。
……ゴミだよ。ゴミが来たよ。
……マジ、それなー。
周囲からそんな声が容赦なく漏れ聞こえてくる。誰もが私に聞こえるように言っているのは明らかだった。でも、私はそれに聞こえていないふりをする。そう。必死で聞こえていないふりをする。
ノートに書かれている文字に見覚えはないけれど、丸みを帯びたそれは明らかに女の子の文字だった。その文字を見ていると喉の奥がきゅっと締まる感覚がしてくる。私は制服のスカートの端を両手で強く握りしめた。
……だったら、見なければいいのに。
そんな自分の声が聞こえてきた気がしたけれども、私はノートのページを捲った。少しだけページを捲る指先が震えていたかもしれない。
みんなの幸せのために、この世から消えて下さい。
お願いだから死んで!
ゴミ!
死ねよ! バーカ!
うざっ!
想像していた通り、そこはありとあらゆる悪口で埋められていた。どれもこれも筆跡が違うので、ご丁寧にクラス全員でノートを回して書いたのだろう。
これを書いた人たちは、私がこれを見て何も思わないと思っているのだろうか? 傷つかないとでも思っているのだろうか?
いや、きっとそうなのだろうと私は思う。何も考えていないのだ。これを書かれた人が何を思うかなど。書いたその場が楽しければよいのだ。
私もそうだったはずだ。こうして虐められる側に回ってしまう前までは……。
どうして虐められるようになったのだろうかと、考える時がある。でも、何度考えてもそこに理由を見つけることはできなかった。それまで私が虐めに加担していた子にも、虐められる理由などが特になかったことと同じように。
要は順番なのだ。今はたまたま私の番なのだ。
……それが私の出した結論だった。
ならば、この虐めはいつ終わるのだろう。明日か? 一か月後か? それとも半年後なのだろうか?
涙が溢れそうになるのを感じる。泣いては駄目だ。私は目尻に力を込めて立ち上がった。そんな私を見て、一瞬だけ教室内が緊張する。
……緊張。
皆、期待しているのだ。これから何が起こるのか。私が泣き喚くのか。怒り狂うのかを。
立ち上がった私の片手には、あらゆる悪口を書かれたノートがある。これを破り捨てることができるのならば、クラスの皆に投げつけることができるのならば、どれだけすっきりするだろうかと私は思う。
でも……。
泣いてたまるものか。怒り狂ってたまるものか。皆の思い通りになってたまるものか。
それらの言葉だけを頼りにして溢れ出そうとする涙を堪えるため、私は更に力を目尻に加えた。そして、鞄を持つと逃げ出すようにして私は教室を後にする。
勢いで教室を飛び出したものの、学校を出たところで行く宛てなどが私にあるはずもなかった。このまま家に帰ってしまうと、家にいる母親に学校から帰ってきてしまったことの言いわけが立たない。具合が悪いとも母親には言い難かった。既に昨日まで二日も体調が悪いと言って休んでいたのだから。
私は軽く溜息を吐いて、学校の近くにある小さな公園に足を向けた。私の予想に反して公園には誰もいなかった。きっと公園には乳幼児を連れた母親などがいるのだろうと私は予想していたのだ。
そして、まだ午前中の早い時間帯なので中学生が公園にいることを不審がられて、声の一つでもかけられたら面倒だなと思っていたのだ。それだけに、私は少しだけ肩透かしを受けたような気分だった。
私は一人、誰もいない公園のベンチに座った。今頃は学校から私の姿が見えなくなったと、私の家に連絡が入っているのだろうか。そう考えると、やはり学校を抜け出した言い訳を考えなくてはいけないようだった。何て母親に言い訳をしようか。そう思うと更に気分が重くなっていく。
それにしても静かだった。街の喧騒もどこか遠くに聞こえる気がする。私は街のどこかにあるとても大きなスポンジが街の喧騒を吸い取っていることを想像した。
とても大きなスポンジなのに、その存在は誰にも気づかれてない。そして、そのスポンジは誰に気づかれることもなく、街の音を少しずつ吸い取っているのだ。
そう。誰にも気づかれないように。そうして街からは少しずつ音がなくなっていくのだ。
そんなことを想像すると、ほんの少しだけ気持ちが軽くなるのを私は感じる。
本当に静かだった。静かな寂びれた小さな公園。そんな公園に一人でベンチに座っていると、世界から自分だけが取り残されてしまったような気がしてくることが不思議だった。
もしかすると、世界で生きているのは私だけかもしれない。そんな他愛もない考えが私の中に浮かんでくる。
だったらいいのにと素直に私は思う。友だちだと思っていたクラスメイトも、両親でさえも消えてなくなれば、自分の心はもっと軽くなるはずなのにと私は思う。
そう。街の音と一緒に何もかもが消えてしまえばいいのだ。ついでに自分自身も消えてしまえばいい。
……死にたいな。
私はその時、生まれて初めて死にたいと思った。
駄目だ。涙が溢れそうだ。そう思った時だった。
「お姉ちゃん、どこか痛いの?」
ベンチで頭を下げて身を屈めていた私の頭上から声がした。
急に頭上から声を掛けられて驚いた私は勢いよく顔を上げる。
私の視界には五歳ぐらいに見える男の子が立っていた。黒目がちな瞳で、なかなか可愛らしい顔をした男の子だと頭の隅で私は思う。
「お姉ちゃん、どこか痛いの?」
男の子はもう一度、同じ言葉を繰り返す。私はそれには答えずに、この男の子はどこから来たのだろうかと周囲を見渡した。しかし、男の子の親らしき姿はどこにも見当たらない。
「どこか痛いのなら、パパとママに言った方がいいんだよ」
男の子は私の顔を覗き込みながら、尚も心配そうに言う。
パパとママに……。
私は心の中で呟いた。両親は私が学校で虐められていることなどは知らない。知ってほしくはなかった。
そんなことで私は両親に心配をかけたくはなかった。
……いや、違うのかなと私は思う。心配をかけたくないということも確かにあるのだけれども、もっと大きな理由があった。両親に知られるのが格好悪いのだ。
両親には私が元気で楽しく学校生活を送っていると思っていてほしかった。多分、それが私の最後に残されたプライドなのだった。
私は少し溜息を吐き出すと、心配そうな顔をする男の子に向けて口を開いた。
「どこも痛くないんだよ。大丈夫。それより、どこから来たのかな。パパとかママは?」
私の問いに男の子は少しだけ首を傾げて、あっちにいると言って公園の外を指差した。まだ小さいのに一人で公園に遊びに来たのだろうか?
「お姉ちゃんは小学生なの?」
「違うよ。中学生だよ」
「そっか。中学生なんだね。大っきいんだね!」
意味が分かっているのかどうなのか。でも、何故か男の子はとても嬉しそうだった。その場で嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねている。
「ねえ、名前は?」
その問いかけに男の子は首を傾げるだけで答えようとしない。
いずれにしても、小さな子をこのまま一人で置いていてはいけないのではないか。私はそう考え始めていた。でも、近くにこの子の親と思しき人もいない。一体、どうすれば……。
「お姉ちゃん、本当に大丈夫?」
私の何を心配しているのかは分からない。でも、この男の子は先程から私の心配ばかりをしているようだった。
「ん、大丈夫だよ」
私は頷いて少しだけ笑った。私の笑顔を見ると男の子も嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。
男の子の満面の笑みを見て、そうか、そうなのかと私は思う。笑ったことなんていつ以来だっただろう。
思えば家でも暗い顔ばかりしていたはずだった。だから、何度となく両親に何かあったのかと聞かれることがあった。
「ありがとう……」
自分で口にしてから、この言葉は何に対する礼なのだろうかと私は思った。
駄目だ。今度こそ涙が溢れてしまう……。
「無理しちゃだめなんだよ」
男の子は黒目がちな瞳を私に向ける。その顔には先程までと同じで、再び心配げな表情が浮かんでいる。
私は涙が溢れないようにと目尻に力を込めて頷いた。
「ありがとう……」
もう一度そう言って、私は男の子の少しだけ茶色がかった柔らかな髪の毛に片手をそっと置く。そうやって撫でられたことが嬉しかったのか、お礼の言葉が嬉しかったのか再び男の子は満面の笑みを浮かべてみせた。
「ほら、もうパパとママのところに帰らないと。パパとママ、心配するんだよ?」
「ん。そっかあ。そうかなあ?」
男の子は首を何度か左右に傾げてみせた。
「そうだよ。きっと、もう心配していると思うよ」
「そっかあ。そうだよね!」
男の子は嬉しそうな表情を浮かべる。
「じゃあお姉ちゃん、ぼく、行くね。ぼく、一人で帰れるんだ。お姉ちゃん、無理しちゃ駄目なんだからね。痛かったら、パパとママに言うんだよ!」
どうも男の子は私のことを病人か何かだと思っているようだった。
「絶対に無理しちゃ駄目なんだよ! ばいばい、みーちゃん!」
男の子は笑顔で私に手を振った。
……え?
気がつくと男の子の姿はどこにもなかった。あるのは私以外に誰もいない公園と街の喧騒だけだった。
……私は自分でも気づかない内に寝てしまっていたのだろうか。
夢……幻……。
そんな言葉が私の頭の中に浮かんでくる。
先程までは余り感じられなかった街の喧騒が妙に耳障りだった。
……みーちゃん。
男の子は確かに私のことをそう呼んだ。そして、その言葉が私の古い記憶を呼び覚ました。
……ずっと忘れていた。思い出すことがなかった。いつから思い出すことがなくなったのかも分からない。それらの事実に気がつくと、何で今まで忘れていたのだろうかとさえ思う。
……まーくん。
私が幼稚園の年中だった頃に、同じ歳で一番仲良しだった少しだけ小さな男の子だった。通っていた幼稚園でも、幼稚園から帰ってからも近所の公園でいつも一緒に遊んでいた。
まーくんは私のことをみーちゃん、みーちゃんと言って、いつも私の後ろをついてきた。
でも、年長に上がる前にまーくんは亡くなってしまった。後日、私が成長して小学生の時に聞いた話では、先天性の病気をまーくんは抱えていたらしい。だから、そもそも長く生きられる運命ではなかったとの話だった。
でも、当時の幼かった私は死ぬことの意味も、病気の意味さえもよく分からなかった。ただ、まーくんともう会えないことだけは分かっていて、それだけは理解できて悲しくて、とても悲しくてわんわん泣いたのをよく覚えている。
そうか、そうなのかと私は思う。
私が死にたいなんて思ってしまったから、きっと心配して現れたのかもしれない。私は彼のことなど、すっかり忘れていたというのに。
……まーくん。
私は涙が溢れないように目尻に力を込めて決意する。
両親に言ってみるのだ。
とても格好が悪いことなのかもしれない。情けない子だと思われてしまうかもしれない。悲しませてしまうことになるかもしれない。
両親に言ったところで、何も解決することがないのかもしれない。学校を転校することになるのかもしれない。そうしたところで、やはり何も解決しないのかもしれない。
……でも、それでも両親に言ってみよう。
両親ならばきっと、どのようなことになっても必ず一緒になって私に寄り添ってくれるはずなのだから。今まで何でそんなことに気がつかなかったのだろうか。
ね、まーくん……。
私は心のなかでゆっくりと呟いた。
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