空き部屋

北見崇史

空き部屋

「ああ、これちょっとおかしいなあ」

 太い二の腕を胸の前でがっしりと組んで、解体屋の親方が言った。

「おかしい、って何がですか」当然、俺は訊き返した。

「だってほら、長すぎるだろう。さっき中に入ったときは、部屋の奥行きはこんなになかったって」

「ええーっと、そうなんでしょうか」

 俺と解体屋の親方は家の外で話をしている。家屋を壊す算段だ。

 木造モルタル二階建ての我が家は、かなりの年代物だ。外壁のモルタルがあちこちヒビ割れて、一部剥がれ落ちている個所もあった。土台の角材も腐っているようで、亀裂が走ったモルタル壁の隙間から、木くずが出ている。お灸のもぐさのように盛り上がっているが、シロアリが巣くっているのは確実で、このまま放置していたら大きな地震で倒壊する危険があると素人目にもわかった。

 父はすでに鬼籍に入っているが、幸いにもそこそこの財産を残してくれた。家賃が期待できる不動産で、長らく収入を得られるアパートが数棟ある。俺はそれらを日々修繕しながら、比較的自由で安楽な生活をおくっていた。

「ちょっと巻き尺で測ってみるか」

「はあ」

 取り壊す予定の俺の家は、ごく普通の住宅に一階部分を増築して、やや細長の部屋を足しているのが特徴だ。そこは、もともとは父が趣味である木工の作業部屋として造ったのだが、出来上がってみれば興味をなくしたようで、使わずに放置されていた。それがいつの間にか俺の部屋となり、今に至っている。

 親方がおかしいと言っているのは、その部分だ。さっき家の中を一通り案内し、俺の部屋も見たのだが、その時から違和感を持っていたようだ。

 バンに戻って道具箱から巻き尺を持ってくると、外から増築部分の長さを測りだした。そして再び俺の部屋に入り、内側からも寸法を調べた。

「やっぱりな」

 合点がいったのか、顎に手を当ててウンウンと頷いている。

「窓の位置から端までの長さが、内と外で違うんだよ」

 親方の言わんとしていることがわからない。俺は奥の壁を見ているしかなかった。

「この部屋はな、端の部分に空間があるんだよ。一メートル五十あるかな。いや、もっとか。それを内壁の間仕切りで塞いでるんだ」

 親方の見立てによると、増築部屋の西側に幅が一メートル半以上の空間があるということだ。縦の長さは畳二枚分だから三メートル六十センチほどだ。つまり縦横が360センチ・150センチの空き部屋ということだ。

 もちろん、その空虚は外壁と内壁の間にあるために見えないし 現に住んでいる本人ですら気づけていない。

「その空間って、いったいなんなですかね」

 外壁の厚さの標準値を知っているわけではないが、常識的に考えれば数十センチを超えないだろう。一メートル以上の、しかもどうやら空間らしきものがあるなど考えられないことだ。

「さあね。物置だったのを塞いだのか、広すぎたから狭くしたのかわからんけどさ。まあ、解体する時にぶっ壊しちまうから、わかるけど」

 元は木工作業用の部屋なので、かなり横長に作られていた。俺はこの増築部屋に二十数年も住んでいるが、そのことに疑問を感じたことはない。まさか、ポスターやカレンダーが貼りついた壁の向こうに、けっこうな広さの空間があるとは思いもよらなかった。

「ひょっとしたら、お宝が眠ってるかもよ。解体するまで、いちおう見ておいたほうがいいな」

 にやりと意味ありげな笑みを浮かべて、親方は帰った。


 さて、これは興味深いことになったぞ。

 自分の部屋、正確には奥の内壁の向こうに少しばかりの閉鎖された空間がある。親方が言うように、父が大事にしていたお宝が眠っているかもしれないし、案外、家族に見せたくない妖しい品物の隠し場所だったのかもしれない。それとも作業場を造る時に、材料や工具などを収納していた物置のようなものだったのだろうか。

 どうせこの家は解体するのだし、その時に確認すればいいのだが、父のこととはいえ他人に知られて恥ずかしいものなら、俺自身も笑われてしまう。事前に確認したいと思った。家族の恥じは、自分に無関係ではいられないからだ。

 俺はいい歳なのに独り身で、一緒に住むべき家族はいない。母親は存命であるが半分呆けてしまい、いまは介護施設で暮らしている。家を解体した後は建て替えの予定はなかった。金がないわけではないが、どうせ一人なので一軒家は持て余してしまう。所有しているアパートに空き室があるので、そこへ収まるつもりだ。

 そうだ、母ならばなにか知っているかもしれない。

 いつからあの部屋を使うようになったのか、俺の記憶が定かではないから、増築した時の状態がわからなかった。たしか、父の友達に骨董品蒐集をしている人がいた。そのツテで、意外なお宝が隠されている可能性もある。案外、金になるものが眠っているのかもしれない。

 そう思って、母がいる介護付きの老人施設までやってきた。痴ほうといえども、完全にわからなくなっているわけではない。母の場合はまだ軽度で、息子を前にして、どなた様?というほどひどくはなかった。ただし唐突に脈絡のない話を始めたり、記憶が飛ぶことはよくある。いわゆるマダラ呆けというやつだ。

「母さん、きたよ」

 母にあてがわれている部屋は、狭いながらもいちおう個室である。俺が入ると、いつものように椅子に座って窓の外を見ていた。

 トルコ刺繍が施された花柄のレースカーテンを引いてはいるが、若干まぶしいのか顔をしかめている。膝の上にある文庫本はラブクラフトの詩集であるが、何年経っても読み終えることはなかった。

「お父さんは、血圧の薬を忘れてないかい。あんまり焼酎を呑ますんじゃないよ」

 どうやら、今日はあまり調子がよくないようだ。父の死を忘れてしまっている。出直そうかと思ったが、部屋のことは憶えているかもしれないから、ダメもとで訊いてみた。

「母さん、俺の部屋を造ったときのことをおぼえてないか。ほら、最初は父さんの木工部屋にと増築した、あの横長の部屋だよ」

「おまえ、少しは掃除しなさい。いっつもお菓子のカスとか、チリ紙ばっかりで、そのうちウジが湧くぞ」

 得意の小言が出てくるということは、少しは話せそうだ。

 たしかに若いころの俺はだらしなくて、部屋の中はよく散らかっていた。母が元気な時は、毎日のように掃除してくれていたものだ。

 だけど、一人で暮らすようになってからはマメに掃除している。中年になってから、どういうわけか几帳面な性格になっていた。

「おまえ、その手はどうしたんだい。傷だらけじゃないか」

「え、ああ、本当だ。気が付かなかったよ」

 その記憶はないのだが、なにかに引っ掻かれたような線状の傷が手首に走っていた。あちこちに血が滲んでいて、数本がすでに瘡蓋となっている。母に言われて痛みを感じてきた。

「母さん、母さん、なあ、おぼえてないか。俺の部屋の壁の向こうに物置みたいのがあるんだよ。オヤジから何か聞いてないか」

 突然、母は黙ってしまった。言葉を発しないで、ただ口の中をもごもご動かしている。そして眉間にぶっ太い皺を寄せて、口を尖らせ始めた。これは機嫌が悪くなった時の典型的な表情だった。

「なんもすんな、バカたれがっ。なんもするなっ」

 口を開いたと思ったら怒り出した。手にしていた文庫本を投げつけて、鬼のような形相で俺を睨んだ。

「バカもんが、おまえは、ほんとにバカもんが」

 昔から母はヒステリー気質だ。

 癇癪を起すと、しばらくその不機嫌をまき散らすこととなる。しばらく面会に来ていなかったので、たぶんそのことが原因だろう。こうなると、まともに話などできない。俺は早々に引き上げることにした。

 帰途、住宅地を歩いていると腹が減ってしまった。陽はまだ沈みきっていないが、どこかで飯を食っていこうという気になった。そういえば叔父の居酒屋が近くにある。カウンターしかない小さな飲み屋だが、炭火の焼とんは安かった。喉も渇いてきたので、ビールを呑みたいところだ。もう、店を開けている頃だろう。

 十分ほど歩いて、飲食店が連なる賑やかな通りにやってきた。叔父の店には、すでに暖簾が掛けられていた。よく煤のかかった赤提灯に、炭の熱気と肉の焦げ臭い煙がまとわりついていた。

 店内からは、こういった店にありがちの喧騒が聞こえてこない。まだ時間が早いのだろう。騒がしいのは好きではないので、ちょうどよかった。

「おう、久しぶりんだな。母さん元気か」

「ええ、まあ」

 叔父は俺を一瞥すると、仕込みの作業を続けていた。年の割には痩せていて、面長の顔にはあまり手入れのされていない髭が蓄えられている。

 とりあえずジョッキでビールを注文し、カウンターに置かれるや否や一気に流し込んだ。なにかの景品らしき小さなコップが生温く、いまいちノド越しがよくなかった。

「いま会ってきたんだけど、時々ボケるから面倒だよ。そのうち、どちらさまですか、って言われそうでさあ」 

「そんなの、まだいいほうだって。ばあさんの時なんて、小便は漏らすし糞は垂れるし、夜中に徘徊して酷かったさ」

 叔父は焼とんをひっくり返しながら、焦げだらけの焼き台から焦げだらけの肉片を皿に載せた。食ってみると思った通り焼きすぎで、頬の奥でじょりじゃりする。俺のほかに客は、薄汚い割烹着姿の老婆一人しかいない。奥の便所の戸の前で、気の抜けたホッピーをちびりちびりやっていた。

「そういえば、おまえんとこの家、壊すんだってな」

「そうなんですよ。土台が腐っちゃて、地震でもきたらヤバくて」

「あの薄気味悪い隠し部屋もなくなるのか。おまえ、よくあそこで寝起きできるよな」

「ああ、まあ」

 隠し部屋ってなんのことだ。俺の部屋の、あの空間のことか。叔父さんは知っているのか。

「しっかし、なんであんな部屋を造ったんだかな。落ち武者のミイラでも飾ってんのかよって話だ」

 ははは、と笑みを浮かべて言うが、目にはなんら抑揚がなかった。奥で呑んでいる老婆が、思いっきり淡を切ってお通しの皿に吐き出していた。叔父が、さも当たり前のようにその皿を片付ける。

 隠し部屋という表現が気になった。やっぱり、目的があってわざわざ空間をこしらえたのか。

「叔父さんは、その隠し部屋を見たのか」

「いや、中は見てねえよ。ちょうどな、オレが遊びに行ったときは壁を造って塞ぎ終わったときだからな。石膏ボードじゃなくて、厚めのコンパネを取り付けて、えらい頑丈だなあって思ったんだ。おまえは中学生、いや、小学生だったかなあ」

 小学生だ。六年生だったと記憶している。

「そのコンパネに札を貼るとかなんとかって言ってたっけ。知らない奴らが来ていたな。女とひどく陰気な男だったな」

 割烹着の老婆が、チャチャと中年オヤジみたいに口を鳴らしているのが癪に障った。いかにも、俺と店主の会話が気にいらないような態度だった。

 壁にフダって、どういうことなんだ。

 俺の部屋の内側には、木目調の壁紙がすべての面に貼られている。増築した時に父が自分で貼ったんだ。紙が糊でふやけてしまい、きれいに切るのが難しかったと言っていたのを記憶している。今ではすっかりくたびれてしまい、ところどころ破れていた。それと、その男女は何者だったのだろうか。

「目が痛いくらいの赤い壁で、あいつが札に赤字を書いて・・・。あれえ、なんだってオレは知ってるんだ」

 話しながら叔父は真顔になっていく。思い出してはならないことを抑え込もうとしているのか、眉を大きくひそめ目つきが厳しくなった。

「いったい誰が」と問いかけたが、ちょうど客が二人入ってきた。

 作業着を着た男たちが騒々しくカウンターに座る。店主はさっと俺を無視して、彼らに面と向かった。へらへらと笑いながら、いつものやつだねと背を丸める。

「じゃあ、ごちそうさま」

 帰ることにした。隠し部屋のことをもう少し訊きたかったが、忙しいようなので遠慮した。今度はもう少し早い時間に来ることにする。

「大工に訊けよ」

 店を出るときに、唐突に声をかけられた。叔父が言ったのだと思ったが、振り返ると店主はカウンターで客と話をしている。では誰であったのかと店内を見渡すが、俺と目を合わせる者はいなかった。気のせいだろうか。

 歩きながら大工のことを考えていた。あの横長部屋の増築は、工務店ではなくて個人で営繕をやっている人に頼んだと、まだボケが始まる前の母が言っていた。しかも、その営繕屋は俺の家の近所にある。さっきの声に従うわけではないが、訪ねてどういう目的で作ったのか訊くのもアリだと思った。でなければ、自分で確認しなければならない。

 叔父の言う通りコンパネで塞がれているなら、しっかりとした道具でないと壊せないだろう。俺は大工仕事なんかやったことないから、壁の向こうを確認するのは躊躇われる。下手なところを壊して、解体業者が来る前に家屋が崩れ落ちでもしたら危険だ。

 そうだ、いっそのことその大工に頼んで、壁を取り壊してもらえばいいんだ。間仕切りの壁ぐらいならそれほど費用も掛からないだろう。解体業者にやらせると、勢い余って中のものを壊しかねないからな。

 思い立ったら吉日ということで、今からその営繕屋に行ってみることにした。個人でやっているし、増築した大工だから安くしてくれるかもしれない。たかが壁一枚を取り除くだけだからな。


 その営繕屋は看板などないごく普通の住宅だが、車庫兼物置が巨大だった。仕事場と資材置き場も兼ねているようだ。開け放たれた窓を覗くと、人がいるのが見えた。中で仕事をしている。さっそく声をかけた。

「あのう、すみません」

「ああ、誰だ」

 窓から顔を出したのは老人だった。薄茶色の、いかにも作業着といった服を着ている。よく使いこまれているようで、皺と汚れが目立っていた。髪の毛はまだ存命だったが、典型的なごま塩頭で、白黒の毛髪がひどい寝ぐせのようにあちこちに跳ねていた。

「あのう、じつは部屋の壁を壊してもらいたいんですけど」

「壁を?」

 だいぶ前に自宅を増築し、その工事を任せたことを話した。自分が建てた部屋のことなので、二つ返事で承諾してくれるだろうと楽観していた。

「帰れ」

「え」

 しかし返ってきた反応は意外なほどシビアで、しかも痛いほどに刺々しかった。少しばかり面食らってしまった。

「そんなもの、知るかっ。何もいらん、帰れっ」

 叱咤するような言い方だった。それ以上感情を尖らせるのが嫌なのか、俺の顔を見ようとしない。あっちの方を向きながら、怒ったように手を振った。

 なにか気に障るようなことを言ってしまったのか。しつこいセールスだと勘違いされたのかもしれない。

「いや、物売りとかじゃないんで」

「なにー、このー」

 突如として、大工は電動の丸ノコギリを手にした。金切り声のようなモーター音が鳴り響く。向こうは建物の中で、俺は窓の外にいるので襲われることはないが、甲高い音で高速回転するその凶器はとても恐ろしかった。

 思わず、血の噴き出しや肉が切断される様を想像してしまった。最近は、やたらとキレる老人が多い。老化によって感情が抑え切れなくなり、偶然が必然に発展してしまうこともある。暴力の糸口は、えてして衝動的だ。

「知るかっ、ワシはなんも知らんっ。テメエ、なしてここに来たんだ、あのクソタレ女に訊けっ」

 老人は窓から身を乗り出し、それほど大きくない目を真ん丸に見開き、激しく悪態を飛ばしながら電動ノコギリを突き出していた。皺だらけの口元が、唾で白く濁っている。

「てめえ、このう」

「いや、ちょっと落ち着いて」

 さらに激高した大工は窓枠に足をかけた。作業場の中から外に飛び出してくる気だ。しかも握ったままの電動丸ノコギリが激しく唸り続けている。明らかに危険すぎる状況だ。俺は数歩後方にさがった。

「あ、あぶねっ」

 大工が窓から飛び出そうとして窓枠に足をかけたのだが、踏ん張った瞬間につるりと滑らせてしまった。室内にいて靴下だけだったので、十分な摩擦力を得ることができなかったのだ。

 つんのめるようにして、頭から地面に激突した。無意識的に顔面を庇おうとしたのだろう。とっさに両手を顔の前へともってきたが、その手には電動丸ノコギリがあった。しかも延長コードでしっかりと繋がっていて、電力は供給され続けたままだ。

「ぐあああ」

 ひどく不吉な音がした。呪わしい叫びをあげて老体が跳ね上がっている。顔を両手で抑えながら地面を転がり、指の隙間から血を噴き出していた。高速回転のノコ刃が、瞬時に顔の肉を切り裂いたのだ

 俺は何をしていいのかわからない。大工の顔からの出血は大量で、地面に血だまりができていた。両手で覆っていても、まるで壊れた蛇口のように次々と流れ出ている。老人の顔がどれほど引き裂かれたのか、イヤでも予想できた。なぜか、カラスが激しく鳴いていた。

「あ、あの、大丈夫ですか」触る気も助ける気もなかったが、なにか言わなければいけない。

 カラスたちのざわつきが騒がしい。空を見上げると、すごい数の黒色が旋回していた。

「うわあ」

 突然、足首に締め付けを感じた。地面で転げ回っていた大工がしがみついていた。俺の左足を、血まみれの両手でがっちりとつかんで離さない。

 その顔は、とてもじゃないが直視できる状態ではなかった。

 口が左側に大きく裂けていた。口裂け女というかなり古い都市伝説を知っている。その想像上の化け物は、口が横一文字にきれいに裂けていて、ある意味ありきたりな様式美となっていた。

 しかし、いま俺の足首をがむしゃらに握りしめている老人は、不規則に揺れる電動の丸ノコギリで顔の肉を引き裂かれた。たんに裂けているという表現では物足りない。形容しづらい不浄の形相だ。

「離せ、離せ」

 しつこくまとわりつく血だらけの手を蹴飛ばした。大工のじいさんから離れた刹那、俺の足もとを何かがすり抜けた。動きが素早くて毛深かかった。おそらく野良猫で、スズメでも追いかけているのかと思った。

 それは大工の顔に喰らいついた。背骨が丸く突き出した身体を跳ねまくって、じいさんの顔の肉を力いっぱい千切ろうとしている。

「イタチ」だ。

 猫ではなくてイタチであった。なぜかイタチが突然現れて、顔面を切り裂かれた老人の顔に猛然と噛みついているか、わけがわからない。

「ぎゃあ」

 大工がのたうち回っている。いま目の前にいる野生動物は恐ろしく凶暴で、悪魔のように執拗だ。喰い千切っては噛みつき、また喰らいついては肉を抉っている。血肉が飛び散り、老人の悲鳴が凄まじかった。

 俺はどうしたらいいのか、いよいよわからなくなった。あの野獣を掴まえて、どこかに放り投げるか。いや、下手に手を出すとこっちの指を喰い千切られてしまう。

 そうだ、救急車を呼ぶべきか。そう思ってケイタイを取り出すが、指が震えてしまって、うまくタップできない。119にかけるつもりが、まったく違う番号を続けざまに表示させてしまった。しかも、すでに通話の状態になっていた。

「はい、神崎です」

 相手が応答してしまった 俺の番号はすでに表示されているはずだ。切っても、またかかってくるかもしれない。見ず知らずの人だが、どうせなので助けを求めることにした。

「あ、あの、救急車を呼んでもらえませんか」

「ええ~と、どうしたんですか」

 俺は気が動転していた。通話の向こうがどういう人物なのかを確かめもしないで、とにかく目の前にある惨状を早口で訴えた。

「そこの住所はわかりますか」

 女性の声だった。人命に関わる緊急事態であることは、どうやら理解してもらえたようだ。俺はここの詳細な住所を知らないが、家の近所なので町名はわかっている。それを怒鳴るように言った。

「ちゃんとした住所がわからないと、救急車を呼べないし、それより応急処置はしたの」

「応急って、どうやるんだよ。イタチが顔面に喰いついてるんだぞ。危なくて触れるかよっ」

「イタチって、イタチ?」

 そう、イタチだ。しかもいつの間にか、もう一匹増えてるじゃないか。黒色のやつだ。 そいつも恐ろしく凶暴で、二匹でよってたかって喰らいついている。まるで死肉に群がるジャッカルみたいだ。

「私は臨床心理士だから外科的な治療について、それほど詳しくないの。ごめんなさい」

 通話の相手は臨床心理士のようだ。しかし、いま危急なのは心の病ではなくて、外傷治療だ。

「そっちで警察にかけたほうがいい。いや、私がやるか。あなた、名前は」

 俺は、即座に名前を言った。二度三度と言った。この常軌を逸した現象を、俺以外の誰かが解決してくれることを切に願った。

「・・・」

 なぜか相手は沈黙してしまった。なんだ、どうした。ほかの電話で110番してくれないのか。

「かけてくるなっ」

 唐突に切られた。通話の先には、すでに人の気配がない。突然の静寂の訪れに、俺も沈黙するしかなかった。

イタチが激しく唸っている。

 大工のじいさんは意識を失ったのか、それとも死んだのか、大の字に仰向けになって身動き一つしなかった。遠目に見ても顔はひどい有様だった。

俺は逃げた。

 その場にいることが耐えられなかった。あのイタチが怖かったし、なによりも大量の血を見るのは本当に堪える。無垢な粘膜を汚物だらけの手で握られるようで、とても息苦しく感じた。なぜだか笑みが出てくる。あまりの非日常的な体験で、感情がショートしたのかもしれない。 

 誰かが通報してくれたのか、サイレンの音が聞こえてきた。しかも複数だ。パトカーも来ているのだろう。よかった、これで命の責任から解放される。俺はただ声をかけただけで、あの大工の事故とは全く関係がない。

 無我夢中で走ってしまい、自宅とは逆の方向に来てしまった。気づけば、さっき立ち寄った叔父の居酒屋の近くだ。ひどい惨事に遭遇したためか、どうにも気持ちがおさまらない。俺の周囲に、得体のしれない瘴気がまとわりついている感じがした。それがどうにも鼻について不快が極まっている。一度醒めてしまったが、また酒でも呑んで吹き飛ばしたかった。

 その狭苦しい空間に入ろうと、飲み屋のドアに手をかけた。すると年代物な引き戸の向こうが騒がしい。酒場にありがちの喧騒とはちょっと違う、物騒で切迫した圧力が混ざっている気がした。

 引き戸を開けると、店の床に人が倒れていた。ほとんど動かないその人物は店主の叔父であったが、そうだと気付くまでに少しの間を要した。

「お、おじさん」は顔面が血まみれになっていた。

 口の左右と鼻の皮が汚らしく抉れ、一部がめくれ上がっている。血液が口元でわだかまり、細かな泡となってブクブクとしていた。

 店の奥に、あの割烹着姿の女がつっ立っていた。割れたビール瓶を逆さに握りしめて茫然としている。彼女の足元の床は、瓶から滴り落ちている血の溜りができていた。ビール瓶の割れた部分で、叔父の顔面を抉ったのだとわかった。酔って喧嘩でもしたのか、なんてことだ。

 シミだらけの汚らしい床に仰向けになったまま身体を動かしたりはしない叔父だが、あぶくを吹くということは、まだ呼吸があるようだ。手遅れになる前に、すぐにでも救急車を呼ばなければならない。

 だがしかし、割烹着の女が凶器を握ったままだ。逆上して何をしでかすかわからないので、うかつに動けない状況だ。 

「うわ、な、なんだ」

 耳の中で小ざかしいモノがざわめいていた。ブンブンと羽音がうるさい。

 ハエだ。どういうわけか、俺の周囲がハエだらけになっている。しかも、すごい数だ。台風みたいに空気がゴォーゴォーと唸っていた。浅い呼吸でさえ鼻や口の中に飛び込んできそうで、息をするにも苦労した。いったい、どいうわけなのだ。こんなに害虫が湧くほどに、この店は不衛生だったのか。

「なんてことだ」

 叔父さんの顔がハエだらけだ。血だらけの顔に黒い点が無数にへばりつき、ザザーっとざわめいている。あまりに気色悪すぎて、全身にひどい突起の鳥肌が立ってしまった。

 突如、割烹着の女がけたたましく叫び始めた。人間の発する声とは思えないほどの毒々しい響きだった。 

 もはや空気そのものがハエの大群に思えてきた。この不潔な害虫に食い殺されるのではないかと、思わす妄想してしまう。ひょっとして、叔父の顔には卵を産み付けられているのではないか。すぐにでも蛆が湧いて、蠢く無数の白飯に顔を食い荒らされるのではないかと考えたりした。

「うわあ」

 いよいよ耐えられなくなって、その店から逃げ出した。ひどく混乱しながら通りの裏道をつき進んだ。動揺していたので、またもや通報することも忘れていた。

 ケイタイが震えている。応答したくはなかったが知らずに手が動いていた。画面には知らない番号が表示されている。一瞬、耳に当てるのを躊躇った。ハエの羽音が響いたらどうしようと不安になったが、聞こえてきたのは知らない声だった。

「おまえ、篭目を解いたな」

 唐突にそういわれて、俺は返答に困った。かごめ、とはいったいなんのことだか、さっぱりわからないからだ。

「か、かごめ?」

「そう、篭目だ。あの時、あれほど言い聞かせたのに壁の中の札を剥がしやがって、バカヤロウがっ」

 なぜだかわからないが、通話の相手は怒っていた。壁のフダを剥がしたのは、それが剥がれかけていたからだ。壁紙が大きくめくれて、その下にびっしりと貼られた朱文字のフダを何枚か剥がした。いや、かなりの枚数を稼いだ。

 はっ、とした。

 今の今まで、そのことをすっかりと忘れていた。

 俺の部屋の壁紙が破れていた。あの空間を間仕切っている壁の壁紙だ。フダが露出していたのは知っていたが、それを剥がした記憶がなかった。いやまてよ、そういえば毟ったような気がする。その映像を思い出そうと心の中をまさぐるけど、どうにもはっきりとしない。

「おまえの家で待つ。だから、すぐにこい。また血の札をつくる。あれの血を使うから、おまえがまたやるんだ」

 通話が切れた。話の内容はよくわからないが、とにかく俺の家に誰か来るらしい。そのあとのことは、通話先の断片的で不穏当な言葉からあまり想像したくなかった。

家に戻ってはいけないと理性が叫んでいるが、俺の足は歩き始めていた。確固たる理由を見いだせないが、どうしても帰るべきだと、底のほうに沈んでいる俺がわめいている。足元で狂犬がせき立てるがごとく、いつの間にか急ぎ足になっていた。

 ズボンのポケットが再び震えた。俺は小走りをやめないままケイタイを耳に当てた。母が入居している施設からだった。大怪我をして、病院に救急車で運ばれたとのことだ。

「突然、付き添っていた介護士を突き飛ばして、ガラス窓に頭から突っ込んでいったんです。さいわい、外には落ちなかったのですが、割れたガラス片で顔を切ってしまいまして」

 ガラスの鋭利な破片に蹂躙されて、母は重傷だということだ。急いで病院まで来てほしいと言われた。俺は唯一の家族なので、当然すぐにでも駆けつけるべきだ。

「すぐに来られますか」

 施設の職員は母が担ぎ込まれた病院名を言ったが、それを記憶するまえに通話を切った。母のことよりも、家に帰ることを優先させたかったからだ。なぜだか知らないが、なにをさしおいても、あの部屋に行かなければならいと強烈な情動が渦巻いていた。

 さっきから俺の頭上にカラスが飛んでいて、凄まじくうるさい。歩こうが走ろうが、やつらは離れずについてくる。どんどん近づいてくる我が家は、真っ赤な夕日のもとで、じっと佇んでいた。その光景が不気味過ぎて、負の感情が俺の中を支配した。重たい金属を呑み込んだみたいに、胃の底のほうが冷たくなった。

 増築部屋のある左側に人影があった。まったく知らない人物だ。年はだいぶいっているだろう。さっきの大工と同じくらいか。山伏のような奇妙な着物姿だった。

「どれくらい剥がしたんだ」

 挨拶もなく、立っている場所からこちらに近づくわけでもなく、その男は俺に向かって叱るように言った。いつの間にかカラスのざわめきが止んでいる。血をぶちまけたような真っ赤な夕空に翳が入り、暗闇が降りてきた。すぐにでも夜が訪れるだろう。

「札は一枚たりとも剥がすなと、あれほど言っただろうが。絶対に剥がすなと言ったぞ」

 男は怒っている。剥がすな剥がすなと、何度も吠えながら手を振り下ろしていた。傍にいたなら、おそらく殴られていただろう。

「いまから貼り直す。手遅れになる前にすぐにやるぞ。家の鍵を出せ」

 その男は、どうやら俺の部屋へ入り込む気でいるようだ。

「あんた、誰なんだ。どうして、ここに来たんだ。いったい、何だってんだよ」

 そう言いながらも、その理由を俺は知っているような気がしていた。ぼやけていた記憶が輪郭を形作ろうとするが、それは余程よくないことだと思った。

「あれは、おまえの親父に頼まれたから仕方なくやったんだ。ほんとうはやりたくなかった。借りがあったから、だから・・・、ああちくしょうめ、ちくしょうめ」

 あの日のことが本意ではなかったと、言い訳に必死だった。人が地団駄を踏んでいるところを見たのは初めてだ。心の底から悔いているようだが、貧困に喘いでいたあんたには拒否するという選択肢などなかっただろう。

 そう、あんたは親父に借金をしていた。あんたの穢れた一族は、はるか昔から呪われていた。近親者は酷い病魔で苦しみ、生まれてくる子供たちの大半は早死にだ。ただならぬ瘴気が全身にまとわりついて、あらゆる人間に忌み嫌われる。だからまともな仕事にも就けず、いつも食うや食わずだ。呪詛に利用価値を見出した者から援助してもらって、細々と生き続けることしかできない。まったくもって棄民のような呪術師だ。

「もう一度、篭目をやる。いいか、もう一度やるぞ」

「だから、かごめ、ってなんなんだ」童謡でそんなのがあったな。都市伝説みたいに囁かれていたが、詳しくは知らない。

 いや、俺は知っている。知っているはずだ。ずっと前に、ここでそれが為されたことを知っている。 

「どうして、俺の番号がわかったんだ」

「おまえのおっかさんには、時々会いに行ってるんだ。約束だからな。ワシはそれだけのことをした。もらうだけのことはやったんだ」

 いまでも金を援助してもらっているということだ。半分呆けてもなお、母はこの爺さんの面倒をみているのだろう。そして、その際に俺に関することを教えていたようだ。

「早くカギを出せ」

 相当にいらついている。俺が差し出した家の鍵を引き千切るようにもぎ取ると、靴も脱がずに上がり込んだ。

「おい、なんだこれは。おまえ、また始めやがったのか」 

 猫がいた。二階へと昇る階段の三段目と四段目に、四匹の猫がたむろしている。ただし、それらは身動き一つしなかった。

 なぜなら、死んでいるからだ。四肢を切断され、首までもがれている。しかも四匹とも腹を縦に裂かれていて、巨大ミミズの群れのような臓物が飛び出していた。死骸はまだ腐ってはいないが、ぬめぬめとした生臭さが鼻を突いた。

「この、くそったれが」

 老人は俺の首を掴んで締め上げた。猫の残骸を横目で見ながら、歯をギリギリと鳴らしている。吐き出されるヤニのニオイが不快だった。

「おまえが札を剥がしやがったから、顔が痛くてたまらん」

 フダの棄損は、術を施した者への報復を招くことになる。だから、俺がフダを剥がしたことを知ったのだ。

「いいか、篭目をやるのは最後だ。もうやらねえ。だから、二度と剥がしたりするんじゃねえ」

 年老いた呪術師は、断片になり果てた猫たちをしつこく見ている。くそったれ、くそったれと、あちこちに怒号をぶつけていた。

 錆が浮いていた使い古しのカッターで、俺は猫たちを切り裂いた。なるべく痛みが苛烈になるように、ゆっくりとジグザグに刃をたてた。激しく暴れたので、手首を引っ掛かれて傷だらけになった。なぜそうしたのか。それは俺が生き物を切り刻むのが好きだからだ。

「そう」と、思わず声に出してしまった。

 幼いころから、俺は生き物を痛めつけることに興奮した。虫けらや小動物など、見てくれが良くないものには興味がない。子犬や子猫、ウサギなど、とにかく可愛いものには欲情した。そいつらをじっくりと傷つけて、悲鳴をあげさせてやりたくて仕方なかった。これほどの快楽は他にない。弱きものへの残虐は珠玉の行為であり、えも言われぬ悦楽に心が躍りに躍る。もうその場面を思い浮かべるだけで、脳ミソが快楽物質でびしょびしょに浸されているのがわかる。

 ある時、近所の犬小屋から子犬をかっさらい、川辺で蹴り飛ばしたり踏みつけたりした。真っ白な子犬がキャンキャンと啼く姿がとても愛おしくて、虐待せずにはいられなかった。しばらく弄び、動かなくなったところで川に放り投げた。死骸となって流れていくそれを、ゾクゾクしながら見ていたのを憶えている。


 そんなことを思い出しながら、俺は年寄りの呪術師と一緒に、あの増築部屋へと足を踏み入れた。

「おまえ、こんなに剥がしやって、なに考えてやがる」

 空き部屋を閉じている間仕切り壁の壁紙は、すっかりと剥がされている。目の前に赤色のコンパネ板が立ちはだかり、越えてはいけない一線を堅持していた。

「取り壊すんだ」

「なに?」

「この家の全部を取り壊すんだよ」

 この家に、いや、この部屋に閉じられているものが、四半世紀も俺の本性を抑え続けている。その縛りは存外に不吉だが、憎々しいまでに力強かった。もう自由になりたい。自分のやりたいことを心ゆくまでやり切りたい。その欲望に、いよいよ俺は耐えきれなくなった。 

「これはもう、手遅れかもな」

 壁の前に立った老人は、諦めたようにか細い声を出した。

 二十年以上前に、この壁に彼が施した数十枚のフダはほとんどが毀損している。貼り付ける際に使った血糊と、その骨材に使われた髪の毛が、モルタル板に汚らしくへばりついていた。

 それらは俺が引き剥がしたのだ。全部やりたかったのだが、その作業は大変な難儀だった。一枚剥がすごとに、耳の奥で甲高い金切り声が鳴り響くのだ。それらは強迫するような赤色であり、舌の粘膜に絡みつくように血生臭かった。俺は歯を食いしばりながらも、なんとかやり続けた。

 ズボンのポケットが震えている。耳にあてたケイタイが冷たいと感じた。

「まさか、あなたは元に戻ったの? 昔の、あの時の子供に戻ったっていうの。嘘でしょう、絶対嘘だって」

 さっきの声だ。臨床心理士だか精神屋の女が、信じられないという感じで声を震わせていた。

「ああ」と答えた。

 俺は片手にケイタイを持ち、もう一方には大型のカッターナイフを握っていた。壁の前で茫然と立っている老人の背後に忍び寄り、羽交い絞めするように腕を回した。

「もしもし、どうしたの、こっちの声が聞こえてるの」

 首の頸動脈を深く抉ってやろうとしたが、意外にも力強く暴れたために手元がくるってしまった。皺とシミだらけの老顔に一筋二筋と深傷を入れて、さらに無茶苦茶に振り回した。

 首に回していた左腕が滴り落ちる血を浴びて、ほのかに温かく感じた。さんざん顔の皮膚を切り裂いて、ようやく頸動脈を破断することができた。ジュボジュボと、あぶく交じりの血液が大量に噴き出してきた。

「ああ、なにをしたのっ。いまあなたはなにをしたの。誰かを傷つけたのね、またやったのね、あの時の少女みたく」

 精神屋の女は、俺が呪術師を切り刻んだことを察知したようだ。皮膚を切り裂くねちゃねちゃとした音を拾ったのか。それとも、ケイタイのカメラ機能を作動させたいたのかもしれない。

「もう、薬はない。あなたの記憶を飛ばせる薬はないっ」

 絶叫のように聞こえた。ケイタイが弾けてしまうのではないかと心配になった。俺は老人の首に差し込んでいた刃を、ゆっくりと引き抜いた。


 少女を傷つけたいと思った。そうしたくて辛抱ならなかった。渇望という言葉では表現できないくらいの激しい想いだった。

 小学六年生の時だ。同じクラスに俺好みの可愛らしい女子がいた。だが彼女の家は父子家庭で、しかも父は我が子を顧みることなく、野良犬のごとく放置していた。いまでいうところのネグレクトという状態だった。手入れされることのない髪はごわごわで、いつも薄汚れたジャージを着ていた。毎日のように女子連中から貧乏だの臭いだのと、心をえぐるような悪口を投げつけられていた。それらの大部分は可愛さに対する安っぽい嫉妬なのだが、とにかく嫌われかたは熾烈だった。

 俺は、悲しみと絶望に苛まれる彼女を見て日々興奮していた。可愛いものが虐げられている姿は、なにものにも代え難き喜びだ。

 さらに、もっともっと加虐しなければと焦った。あんな幼稚な苛めでは物足りない。心を傷つけるだけではなくて、あの華奢で柔らかそうな肉体へ、より直接な衝撃を与えてやりたくて辛抱できなくなった。

 だから彼女をだました。弱り切っていた気持ちにつけ込んだ。思った通り、子犬のようにすがってきた。俺の言う出まかせの慰めに安堵して、この部屋までノコノコとついてきたのだ。

 消しゴムをくれると言って手を差し出した。リンゴの香りのする珍しいもので、一度も使うことなく大事にしていたのを知っていた。あの子なりに気を使ったのだろう。友愛のあかしだったのかもしれない。

 俺はそれをひったくって、その子の口の中にグリグリと押し込んだ。息ができなくて暴れていたがやめなかった。俺は小学生にしては大柄な体型で力も強かった。女の子をねじ伏せることなど造作もないことなのだ。

「あなたの心の病はとても複雑なのよ。広汎性発達障害や多動障害とは違う、恐ろしく強くて根源的で、そして邪悪な・・・、いや、ごめんなさい。とにかく一般に使われている薬剤では抑えることができなくて、心理療法も効果なくて、だから、仕方なくあの麻薬を使って、たくさん使って、あなたの衝動と記憶を吹き飛ばすしかなかった」

 カッターの刃では折れてしまうのではと考えて、あらかじめ肥後守を用意していた。父の工具箱から選んだ、もっとも古くて、しかしながら一番切れそうなナイフだった。金色のグリップ部分は手垢で煤けていたが、几帳面な父らしく刃の部分は丹念に研いでいたのだろう。金属の濁った光沢がギラリと光っていた。

「あの女の子は可哀そうなことをした。でも、ああするしかなかった。あなたのお父さんが無理やり・・・」 

 彼女の口の中に押し込んだ消しゴムを、その硬質な刃をねじ込んで取ろうとした。ついでなので、舌を切り取ってやろうとも考えていた。だが、強情にも牡蠣のように口を閉ざしてしまった。だから俺は、その憎らしいほど可愛い顔を切り刻んでやった。

「私が行った時には、もう、あなたのお父さんが処置をしていた。あの女の子の顔を縫っていた。あれは、とにかく出血がひどくて・・・、痛い痛いって叫んで、ああ」

 父にひどく殴られたのを覚えている。俺は死ぬほどぶたれてようやく、あの少女を解放してやった。工作台の上に彼女を縛りつけて、裂けてぱっくり割れた少女の顔の皮を、父が手縫いで処置した。

「みんなで寄ってたかって、あの女の子を閉じ込めた。私は、だから、反対したの。だって、すぐにでも病院に連れて行かないと。でも、誰もそうしないし、そうしようって言ったら怒鳴られて、ほんとに」

 すぐに、あの営繕屋と呪術師が呼ばれたんだ。父は息子を犯罪者にしたくはなかった。さらに、凶悪犯が我が子であることに耐えきれなかったのだろう。世間体を殊更に気にする性格だった。家族の不始末は、何としてでも隠蔽しなければならないことなのだ。

「私は関わり合いになりたくなかった。でも、仕方なかった。兄夫婦の借金の連帯保証をしてしまって、お金が必要だった。どうしても、お金が必要だった。あの人たちだって、同じよ」

 少女は生きていた。顔をめちゃくちゃに切られたので酷い裂傷だったが、致命傷ではなかった。皮を縫い合わせて傷を塞いだので出血もわずかになった。

 問題は彼女をどうするかだったが、父は閉じ込めておくことにした。大金に靡いた大人たちも加わった。部屋の隅にもう一つの部屋が造られて、そして丈夫な板で塞いだのだ。

「あの子はまだそこにいる、そこにいるんだ。ずっといるんだ」

 呪術師は取り返しのつかない呪いをかけた。それは古代から伝わる忌まわしの封術であると同時に、とことんまで穢れた所業だった。少女の、縫われたばかりの顔の皮をぐいぐいと絞って滲みだした血を集め、あらかじめ用意していた獣の血と混ぜた。そして頭髪を毟り取り細かく切って骨材とした。本来は邪を封じる呪術なのだが、人に施すこともできた。

 ただし、それを為すことは禁忌とされている。なぜなら、その呪われた術によって封じられた人間は、もはやこの世のものとは解離した存在となるからだ。それはどうしようもなくおぞましく、見るのが耐えがたいほどに無残なモノとなり果てるのだ。

「ギャア、痛いっ、痛いっ、顔が痛い。ああ、ぐう、ぎゃあ」

 俺は壁の残りのフダを剥がしていた。一枚一枚、途中で千切れてしまわないように、ゆっくりと、それでいて爪に力を込めて削り取っていった。

 少女の毛髪入りの血糊がモルタルのように硬い。ずいぶんと年月が経っているのに、鉄臭混じりの生臭さが鼻を突いた。あまりにも密着しているので、フダの間にカッターの刃先を入れて、固まった血糊をほじくるように剥がした。

「ぎゃあ、ぎゃあ、痛い、痛っ、助けて」 

 ケイタイの向こうからやってくる悲鳴は止むことがない。通話を切るか、端末そのものを叩き壊してしまえば聞こえなくなるが、そうはしなかった。苦しみの響きは、俺には最高の贅沢品だからだ。

 この呪いを共有している者にとって、壁に貼り付けられたフダを剥がされるのは、閉じ込められた者が被った災厄を受け入れることになる。そして、それは俺にも作用するのだ。

 耐えがたき激痛だった。皮膚を切り裂くのがこんなにも辛く、そして灼熱だとは思わなかった。あまりの鋭さに凶器を握る手に力が入った。より深くジグザグに抉らなければならないと、理性とは逆の意志が唸っている。俺はそれに抗えないし、それどころか望んでさえいるのだ。もう正気ではいられない、俺は正気ではないんだ。

「狂ってるのよ。あんたもあんたの家族も、金でつられたみんなも、私も、私も、うぎゃあ」

 よく磨かれた金属を引っ掻いたような金切り声が最後だった。ケイタイは息をしなくなったが、そんなことはどうでもよかった。俺は自らの顔を抉り続けた。痛くて痛くて死にそうなのだが、止めることができない。

 顔を縦横無尽に切り裂きながら、間仕切り壁のフダを全て剥がし終えた。そして俺は、赤黒い血と毛髪が汚らしくこびりついたコンパネ板に頬をくっ付けた。痛みと熱が少しでも冷えるかと思ったが、そんなことは露ほどもなかった。逆に激痛はますます憤り、火照りは赤々と熱した。

 クランベリージュースのように、真っ赤な壁が目に痛かった。その向こうから、ひどく穢れた気配が、まるでそこに壁などないようにズンズンと浸透してきた。

「ああああー」

 俺は大声をあげていた。太い鋼鉄のバールを無茶苦茶に振り回して、壁にぶち当てた。間仕切りのコンパネ板は腐蝕のためか、意外と脆かった。金棒でぶっ叩いて穴をあけ、そこに手を突っ込んでバリバリと引き剥がした。

 壊れているのが壁なのか、俺の顔なのかハッキリとしない。痛さが脳の髄を突き抜けている。顔からの出血が邪魔でしかたがない。頭を何度も振って、眼に入ろうとする血液を飛ばした。

 閉ざされていた空間があらわになった。

 咳き込むほどの生臭さが息苦しい。まるで熱帯夜のように不快な暑さだった。顔じゅうの傷から血が滝のように流れ落ちている。俺は一歩前に出た。

 少女が正座していた。背をこちらに向けて、恐ろしいほど硬直した姿勢のまま佇んでいた。二十年以上前、俺がその可愛らしい顔をズタズタに引き裂いた女の子だ。時代遅れのジャージに赤黒い染みが汚らしく広がっている。父が力まかせに縫い上げた顔は癒えることなく腫れあがっているだろう。この狭くて息苦しい闇の中、たった一人で待ち続けていたのだ。

 いつの間に針と糸を持っていたのかしらないが、俺は自分の顔を必死になって縫い続けている。隣り合った皮と皮を縫合しているつもりだが、全く見当違いの部位を繋いでいる気がしてならない。緩むことのない痛みの衝撃と滴り出る血糊で、手元が大幅に狂う。何をしているのか、または何をしたいのか、自分自身が理解できない。そうしたいという渇望だけが、俺を突き動かしていた。

 腰から下に力が入らなくて膝をついた。部屋主の吐息が聞こえる。俺のすぐ前に立っているのがわかるが、もはや目を開けられない。ざらざらとした感触が俺の顔をまさぐった。少女が頬ずりしているのだ。その痛みは凄まじく、魂のあらゆる領域から血が噴き出していた。

 何者かが壁を塞いでいた。分厚くて硬質の板が張り合わされてゆく。微かだった明かりが、どうしようもなく弱くなっていった。頬ずりは、止むことなく続いていた。


                                  おわり 


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空き部屋 北見崇史 @dvdloto

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