第2話 元オタサーの姫、取り巻き1号について回想する
「会計する前にちょっとトイレ借りてくるわ」
広野はそう言って席を立った。私はその間に透に帰りが遅くなりそうなことを連絡し、土田にも返信を送る。
『今日有給なんだけど、ちょうど広野のアホから人生相談受けてた。だから土田が退勤したらすぐ三人で飲めるよ』
土田からはすぐに返信が来る。
『お、広野もいるんだ、久々だな。どうせまた変な女引っ掛けてトラブってヤマダに相談したんだろ。ヤマダに声かけた俺も人のこと言えないけど……。定時で退勤するから適当な飲み屋に入っててくれたら合流する』
『了解。店入ったら連絡する』
トイレが混んでいたのか、広野はなかなか戻ってこない。
私は学生時代の広野を思い出す。最初、私は広野から嫌われていると思っていた。
広野とは、大学一年の頃から面識があった。教養科目で同じ授業を取っていることが多かったからだ。
英語の授業でたまたま同じ机にいて、ペアで課題をやらなければならなかったときに、広野と一緒にやったことがある。
大学は総合大学だけれど、都心の校舎にある文系の学部とは違って、私達が通っていた学部は東京の西の方にあって、理系の学部が集まっていたので男子学生が多かった。私は女子高出身なので、それまでの学校生活と何もかもが違って、最初は何をするにも恐る恐るという感じだった。
そんな中で私とペアになってしまった広野はたじろいでいて、私と目を合わせなかった。私も目を合わせなかったと思う。ずっと教科書を見ながら喋っていた。
ある時、風邪を引いて授業を休んだ後、広野にノートをコピーさせてくれないかと言ったら、「別の誰かに頼んでくれ、俺のノートなんて見せられるもんじゃない」と拒否された。その後、同じ授業を取っている別の男子学生にノートをコピーさせてもらったのだけれど、広野はずっと、そのやり取りをしている私をにらんでいた。視線を感じて広野を見ると、目をそらされた。自分から拒否したくせになんなんだコイツは、と思った。
その後も広野はずっとそんな感じで、英語の授業では渋々ながら私とペアになってくれたけれど、それ以外の時はほとんど無視された。たまに向けられる広野からの視線には、憎悪すら感じさせるものがあった。
男慣れしていなかった私は、男の人から向けられる憎悪は怖かった。私はいつの間にか広野を避けるようになった。
同じ研究室に配属されたときに「うわ、こいつと一緒なのか」と思った。相変わらず広野から私に向けられる視線は怖い。
だけれどある時気づいてしまった。
広野の憎悪は私だけに向いているのではないことに。私と喋っている別の男子学生にも向いていることに。
小学生の頃、私に嫌がらせをしてくる男の子がいて、私はその子が嫌いだった。先生に何度も報告して席を離してもらったけれど、そうしたらその男の子は少ししょんぼりした顔をしていた。今思えば、彼は「好きな子にいたずらしてしまう男子小学生」だったのかもしれない。
あの頃私に向けられていた広野の憎悪は、そんな気持ちを思春期の葛藤と一緒に煮詰めてこじらせたものだった。
私はわかってしまったけれど、広野は相変わらずそういう調子で私に接するので、私はそれ以上考えるのをやめていた。
私が三好先輩……透と付き合うことになって、トラブルが起こる前にみんなの前で報告して、数ヶ月した後の飲み会で広野は言った。
「ヤマダは聡いからわかってたと思うし、だからあんな風に大々的に報告したんだと思うけど、みんなヤマダのこと好きだったし、俺も好きだったよ。ヤマダが三好先輩のものになって、俺らそれから一週間くらい落ち込んでた」
報告した後の一週間、研究室は人の集まりが悪かった。私が行くと誰かしらが部屋から出て行った。
「だろうなと思ってた。でも広野とまともに喋れるようになって私はわりと嬉しいけどね」
こんな形ではあるけれど、私は広野と正常なコミュニケーションを取れるようになったことにホッとしていた。避けてはいたけれど、最初に学校で話せるようになった数少ない人だと思っていたから。
酒が入っている広野はあははと笑う。
「俺ヤマダから嫌われるようなことばっかりしてたじゃん。自己嫌悪の嵐だよ。そりゃそうなるよって。そんで一人でパブでやけ酒飲んでたら、隣にいたねーちゃんから誘われて童貞捨てた」
「は?」
「それでコンプレックスの塊のこじらせオタクから開放されてやっとこうしてヤマダとまともに喋れるようになったわけ」
「そうですか……って、ちょっと待ってよ、私そういう話を聞きたいわけじゃなかったんだけど」
「まじで三好先輩はいい人だし、三好先輩を選んだヤマダもいいやつだよ。今の俺は二人の今後を応援するよ、だからちょっと聞いてくれよ」
「あ、あぁ……はい……」
自分の話をまくし立てる広野にびっくりしながらも、私は話を聞いていた。私は広野の知らなかった一面を知ることになった。
広野はそれからとんでもない女タラシになった。いつの間にかどこかの女子大の女の子と付き合うようになって、別れて、みたいなことを繰り返していた。
童貞コンプレックスをこじらせていた男がなぜそうなってしまうのか。私のせいだとは思いたくはないけれど、女関係でトラブルを起こすといつも私に連絡をよこすので、私は毎回広野の話を聞くことになってしまった。
……どうせ広野からはそのうち、「デキ婚することになっちゃったんだよねー」みたいな報告があるんだろうと思っている。
ぼーっと過去のことを思い出していたら、やっと広野がトイレから戻ってきた。
「ごめん待たせた。土田と三好先輩はどうだって」
「透なら大丈夫。土田は適当な居酒屋に入っててくれたら合流するって」
「オッケー。じゃあ会計して店探すか」
いつの間にか外は暗くなっている。私たちは喫茶店を出て居酒屋を探し始めた。
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