6.眠らされていた記憶
エレベーター前で、本田君の見送りをした後、私たちは自分たちのオフィスに戻った。もう、定時は過ぎていたため、オフィスには私たちしかいなかった。あんなに激オコだった日高部長もいつの間にか帰ったらしい。
私と同僚の松枝と春香は部署は違うが、隣同士で、しかも、私たちの席は人通りの少ない窓際で固まっていた。そのため、ほぼ同じ部署と言っても過言ではないくらい、3人でいることが多かった。
「は~、今日は楽しかったですね~!」
「本田君、良い人そうだったね。仕事もできるみたいだし」
「でも、俺らと一緒に怒られちゃったね、本田君には悪いことした…今度、何かお菓子でお詫びでもするか」
「それにしても、本田君若いですよね~しかも、なかなかのイケメン!!ひょっとして、もう彼女いるのかな」
「はぁ、何言ってんの?急に」
人前ではいつも好青年で仕事も出来る松枝からは到底想像出来ないくらい、不機嫌そうに春香を見る。そして、声のトーンも一段と低い。さっきの調子の良さもこのツン顔も、松枝の素なのだ。だから、私と春香にしか見せない素顔を初対面の本田君に見せていたのは、かなり意外だった。
「あ~先輩、もしかして~私に~嫉妬しちゃったりしてるんじゃないんですか~?もう、しょうがないな~」
春香は自分の席から立ち上がり、松枝の頭をワシャワシャ撫でる。うん、これは日常茶飯事だ。誰も何もツッコまない。
「はぁ~?!な訳ねぇだろ、お前に嫉妬とか俺の恥だわ」
口ではこう言っているが、彼女である春香に撫でられて、満更でもないらしい。
「もう、先輩は素直じゃないんだから~~!ねぇ、美琴先輩!」
春香はニコニコしながらも意地悪そうに、さらに畳み掛ける。松枝の顔は、ぼっと赤くなり、マグマでも噴き出しそうだ。
「ハイハイ、分かった分かった、このバカップル」
「うっせぇ!お前にだけは言われたくないわ」
私は、松枝の清々しいツッコミを聞き流しながら、3人でよく話すようになった最初のキッカケをぼんやり思い出していた。
最初は仕事だけの付き合いで3人での会話は互いに気を遣い、事務的なものだったが、想定外にも、ある日を境にプライベートでも気兼ねなく話せる仲になってしまった。
それがキッカケで、清楚で明るく生き生きしたイメージの美少女春香と好青年で仕事の出来るイケメンと社内で名高い松枝の、あまりにかけ離れたギャップに、しばらく笑いが止まらなかったっけ。人生に孤独感を感じ、素でいられなかった私もこれをキッカケに2人だけとは素で話せるようになった。3人でのくだらない会話は面白おかしく、そして何より居心地が良かった。周囲は知らないが、春香のぶりっ子のような鋭いいじり、松枝のツンデレ。なんで、この2人はこれで上手くいってるのか、いつも不思議だが、お互いを想い合っていることはよく分かる。
ゴールインまで3年。実に長かった。2人とも素直でないため時間は掛かったが、その分、愛は深いだろう。私の長年の孤独感を埋めてくれた2人には、是非幸せになってほしい。それが、今の私の純粋な願いだ。
春香は未だ、松枝の頭がぐしゃぐしゃになるくらい撫で続けている。春香の顔を見ると、松枝の反応にコロコロ表情を変えていた。一方、松枝はされるがままだ。私は見兼ねて、春香の白艶なほっぺを両方引っ張る。
「もう、あんまり松枝をいじめるな~?このデレ顔め~」
「んも~ひはひへふっへ!ひほほへんはい!!」
相変わらず、春香の頬は柔らかい。ぷにぷにしている。う~ん、例えるなら、猫ちゃんのほっぺかな?
「ほら、松枝もされるがままになってんじゃん。彼氏がしっかりしないと、彼女も困っちゃうでしょ?」
「返す言葉もない…」
「春香もほどほどにね。ああ見えて結構、独占欲強めなんだから。特に彼女はね」
「おっ、お前!」
松枝が何か反論しようとするが、私は明るく無視をする。私はオフィスの壁時計の時刻を見る。
「あっ!!もう、7時半じゃん。確か、打ち合わせ8時って言ってなかった?時間、間に合う?」
「あ~やっば、そうでした!」
「ほら、遅れないようにさっさと行きな。人生の大事なイベントなんだし、後悔ないようにね」
「分かってるよ、てか、お前は俺たちの母親か」
「ありがとうございます、美琴先輩!ほら、先輩行きますよ」
春香は松枝の腕を引っ張って、無理矢理立たせる。
「ふふ、松枝もすっかり春香の尻に敷かれたな」
「俺、最初は、そんなつもりじゃなかったんだけどな~」
「もう、急いで下さい、先輩!遅れますって。では、美琴先輩、お疲れ様でした」
帰り支度を終えた春香は、松枝を引き連れて、ペコリと頭を下げる。
「お疲れ様、頑張ってね!」
私は、2人を満面の笑みで送り出した。
「はい!頑張ってきます」
「おう」
2人が駆け足でオフィスを出た10分後に、私もオフィスを出た。それからビルを出て、駅に続く通りをゆっくり歩いていた。通りには、まだ人が多く行き交っており、店も賑わっていた。
私は歩きながら、また思い出していた。
さっき考えていた、最初のキッカケである3年前のある出来事を…
3年間、思い出せなかったあのことを。
そしてやっと、今日思い出せたのだ。
それは…
居酒屋で出会った青年との出会いだった。
青年の名は、杉田君。
3人で仲良くなれたのも、私の中では彼のおかげだと思っている。
どうして、今まで忘れていたのだろう。
今までは、霧がかかったように、その青年のことだけが何も思い出せなかった…
ただ、居酒屋の店員に悩みを聞いてもらって、という他愛のない出来事のはずだった。
だが、今日、初対面の本田という青年に会ってから、3年前の居酒屋の青年の純粋で優しげな姿や表情、言葉が鮮明に溢れ出す。それは、私にとって、とても特別な出来事だったのだと眠っていた記憶が呼び覚まされる。
私は、なぜ本田君に会って、3年前に会った彼のことを思い出せたのか不思議だった。考えたところで答えは出ないが、その青年の姿がなかなか頭から離れないのだけは確かだった。
改札からの聞こえるアナウンスが聞こえて我に返ると、私は、地下鉄の改札へと続く階段を一気に駆け降りた。
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