第20話『ご褒美があれば』

 4月13日、水曜日。

 今日は全校生徒が健康診断を受ける日だ。

 円滑に健康診断を進めるため、生徒は時間差で登校する。所属する2年2組の生徒は午前11時に登校することになっている。いつもよりゆっくりとした時間に登校できるから嬉しいな。朝食を食べられないのはちょっと辛いけど。


「おはようございます、涼我君」

「リョウ君、おはよう」

「2人ともいらっしゃい」


 午前9時頃。

 あおいと愛実が家にやってきた。今日は普段よりも2時間以上も遅い登校なので、あおいの提案で出発する時間の近くまで3人でゆっくりと過ごすことにしたのだ。

 学校に行くまでまだ1時間以上あるからか、愛実は膝丈のスカートにVネックシャツ、あおいはデニムパンツにパーカーとラフな私服姿だ。俺もスラックスにワイシャツを着ている。

 俺はあおいと愛実を自分の部屋に通す。


「俺、飲み物を持ってくるよ。健康診断前だから麦茶でいいか?」

「いいよ、リョウ君」

「麦茶でかまいません」

「分かった。じゃあ、2人は適当にくつろいでて」


 一旦、俺は部屋を出て、麦茶を用意するために1階のキッチンへ向かう。

 午前中に健康診断があるため、朝食を摂ることはできないけど、水やお茶といった糖分や脂質が入っていない飲み物であれば飲んでいいことになっている。そういう飲み物は制限なく飲めるからまだマシかな。

 自分のマグカップと愛実専用、そしてあおい専用のマグカップに麦茶を注いでいく。

 麦茶の入ったマグカップをトレーに乗せて、俺は自分の部屋に戻る。

 部屋に入ると、あおいと愛実がベッドの側で隣同士の形でクッションに座り談笑していた。今日の健康診断では、あおいが苦手な採血もあるけど……この様子なら大丈夫そうかな?

 あおいと愛実の前に、それぞれの専用マグカップを置き、自分のマグカップは扉に近い方にあるクッションの前に置いた。


「あおいちゃんのマグカップ、実際に見るとより可愛いね。素敵なマグカップだね!」

「ありがとうございます!」


 そういえば、愛実があおいの専用マグカップを見るのはこれが初めてか。昨日の夜は愛実と2人きりで、あおいのマグカップを愛実が目にすることもなかったし。


「猫ちゃんの白いシルエットがまたいいね」

「いいですよね! このシルエットが描かれているのも購入する決め手の一つになりました!」

「そうなんだ。……せっかくだから、マグカップを3つ並べて写真撮ろうかな」

「それいいですね!」

「あおいちゃんとリョウ君にも送るよ」

「ありがとうございます!」

「ありがとう」


 その後、愛実は3人のマグカップを横一列で置き、スマホで写真を撮った。

 愛実から俺達3人のグループトークに送信される。さっそくその写真を見てみると……何だかほっこりとした気分になるな。そう思いながら、写真の保存ボタンを押した。

 クッションに座り、俺は自分のマグカップに入っている麦茶を一口飲む。


「うん、美味しい」


 朝食を食べていないから、いつも以上に麦茶が美味しく感じられる。麦茶の冷たさが全身に広がっていくのが心地いい。

 あおいと愛実も麦茶を飲んでいく。


「麦茶美味しい。朝ご飯は食べられないけど、お茶は飲めて良かったよ」

「そうですね、愛実ちゃん。あと2時間ほどで健康診断ですか……」


 普段よりも元気なくそう言うと、あおいは「はあああっ……」と長いため息をつく。


「ということは、採血するまでもあと2時間ほどですか……」


 はあああっ……とあおいは長いため息を再びついた。そんなあおいは沈んだ様子に。

 さっき、愛実と談笑していたから、採血をあまり気にしていないと思っていたんだけど、それは違ったようだ。そんなあおいに愛実は苦笑い。


「昨日までは元気でいられたんですけど、今日になったら急に不安になって」

「当日になると急に不安になることってあるよな」

「私もあるよ。もしかして、学校に行くまで私とリョウ君とゆっくり過ごそうって提案したのも?」

「……心細かったので、2人と一緒にいたかったんです」

「そうだったんだ」


 愛実はそう言うと、持ち前の優しい笑顔を浮かべてあおいの頭を撫でる。

 心細かったから愛実や俺と一緒にいたかった……か。それなら、俺も撫でた方がいいだろう。そう思って、俺もあおいの頭を優しく撫でる。

 愛実と俺が撫でたのが良かったのだろうか。あおいの口角が少し上がった。


「2人の温もりが心地よく感じます」

「良かった」

「良かったよ」

「……予防接種みたいに、何かを体に入れる方はまだマシに思えてきたのですが、血を抜かれるのはまだ1回しか経験していないので不安で。予防接種よりも針を刺されている時間が長いので痛みも長くて」

「長いよね。去年の採血のとき、早く終わってほしいって思ったよ」

「俺も思った」


 交通事故で入院したときに何度も採血されたり、点滴を受けたりしていたので針を刺されるのは慣れている。それでも、採血が早く終わるに越したことはない。

 採血をする以上、針が刺さる痛みとか、血を抜かれたときの感覚は避けることはできない。


「採血の後にご褒美があったり、楽しみなイベントの予定があったりすると違うかもな」

「そういうのがあると、少しは採血を頑張ろうって思えるよね」

「いいかもしれませんね。そういえば、小さい頃は両親にジュースやお菓子を買ってあげるって言われて、予防接種を頑張った記憶があります」

「あおいと一緒にインフルエンザの予防接種を受けた後、俺も親にジュースを買ってもらったなぁ。愛実と注射しに行った後も買ってもらったよな」

「そうだね、リョウ君」

「ご褒美があっても当時は泣いちゃいましたけどね」


 苦笑いでそう言うあおい。子供だったから、2度インフルエンザの予防接種を打ったけど、どちらもあおいは涙を流していたっけ。俺の服を掴んだり、麻美さんにしがみついたりしていたな。


「週末あたりに何か楽しい予定ができれば、今日の採血を乗り越えられるかもしれません。できれば、涼我君や愛実ちゃんと一緒に」

「週末か。日曜日はバイトがあるけど、土曜日なら大丈夫だ」

「私は両方大丈夫だよ。……今週末と言えば、土曜日はクリスの劇場版の公開日だよね」

「そうですね! では、土曜日にクリスの劇場版を見に行きましょう!」

「おっ、それはいいな」

「春休みに3人で見に行こうって約束したもんね」

「ですね!」


 クリスの劇場版の話題が出た途端、あおいのいつもの明るい笑顔が戻った。あおいのクリス好きの強さが窺えるな。

 土曜日ってことは今日から3日後か。それなら、チケットの予約がもうできるかもしれない。

 俺はローテーブルに置いてあるスマホを手に取り、調津駅近くにある映画館のホームページを開く。土曜日の上映スケジュールを見てみると、


「土曜日のチケット、もう予約できるよ。日中の上映回はどれも残席に余裕がある」

「そうなんだ。今から予約しちゃおうか」

「事前に予約するんですね」

「うん。リョウ君と一緒に行くときはね」

「俺は映画館の会員だし、スマホのキャリア決済ができるからな。予約すれば確実に映画を観られるし。3人分の予約をするから、愛実とあおいはチケットの代金をあとで俺に渡してほしい」

「分かりました」

「分かったよ」


 その後、俺達はスマホに表示されているクリスの土曜日の上映スケジュールを見ていく。大ヒットシリーズの最新作だし、公開初日だから複数のスクリーンで上映するスケジュールが組まれている。

 たくさん上映回がある中で、俺達は午前10時30分スタートの回で観ることに決定。座席の予約状況を見てみると、スクリーンを正面にする真ん中の席や、後ろ側の席はそれなりに埋まっているな。そんな中、


「涼我君。愛実ちゃん。端ですが、ここの3人だけの席が空いています。どうでしょう?」


 あおいがそう言って、スマホの画面を指さす。そこは……最後尾の右端にある3席が並んでいるエリアだ。今のところ、3席とも空席状態。


「右端だけど、最後尾なら観やすそうだな」

「そうだね。あと、リョウ君と2人きりで見に行ったときは、2席だけ並んでいるところに座ることもあるよね」

「ゆったりとした雰囲気が観られるもんな。だから、この3人席は結構良さそうだ」

「私もそう思う! ここでも、3人並んでクリスのアニメを観たもんね」

「では、この3席にしましょう!」

「よし。じゃあ、予約するか」


 希望する最後尾右端の3席をタップし、予約画面に移動する。利用者が高校生であることとキャリア決済で代金を支払うことを選択し、


『予約が完了しました。』


 と画面に表示された。

 念のために会員用のマイページから、座席予約の情報を確認すると……たった今予約した3席の情報が表示された。


「よし、これで大丈夫だ。あとは当日、受付で発券すれば映画を観られるぞ」

「ありがとうございます、涼我君!」

「ありがとう、リョウ君!」


 あおいと愛実はとても嬉しそうな様子で俺にお礼を言ってくれる。


「土曜日に3人でクリスを観に行くことが決まりましたし、何だか採血を乗り越えられそうな気がしてきました!」


 あおいはますます元気そうな表情に。クリスの最新作を観に行く予定もできたし、それを糧に採血を乗り越えられたら何よりだ。

 座席を予約したのもあり、学校を出発する直前まで俺達3人でクリスのアニメを観る。その間、あおいは愛実と一緒に楽しそうに観ていたのであった。

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