ある二人が夫婦になるまで 後
湖畔に到着すると、早速舟に乗ることにした。
「グレース様。危ないですのでお手を」
先に舟に乗ると、しゃがまずにグレース様に向けて手を差し出した。舟は湖畔の上に浮かんでいることもあって、足場は少し不安定だった。
「ありがとうございます、カルセイン様――きゃっ」
グレース様が俺の手を重ねて舟に足を踏み入れた瞬間、彼女が体勢を崩してしまった。慌てて自分の方に引き寄せて、落下を防いだ。
「大丈夫ですか?」
「は、はい」
最悪の事態にならなくてよかったと安堵する反面、距離が近すぎることに気が付いた。
(こ、これはまずい)
意識した瞬間、鼓動が聞こえてしまうことを恐れてすぐさま体を離した。
「す、座りましょうか」
「そ、そうですね」
お互いに気まずい空気を感じながら、いそいそと向かい合うように腰を下ろした。俺はオールを手に持って漕ぎ始めた。
「……湖の上は涼しくて気持ちが良いですね」
「はい。風も強くなくてよかったです」
空気をどうにかしようと、他愛のない会話を振ってしまった。それでもグレース様はいつもと変わらない様子で、笑みを浮かべながら返してくれた。
「カルセイン様。私も漕いでみたいです」
「……えっ」
意外な申し出に反応が遅れてしまった。再度オールを動かしてみると、かなり重いと感じてしまった。
「グレース様。グレース様が動かすのは少し難しいかもしれません」
「そうですか?」
「はい。かなり力がいるので」
一度に両方のオールを動かすというのは、女性にはかなり厳しいものだと思ってしまった。こんなに重い物を動かした時に、怪我をしてしまう懸念もあったので、さりげなく断ることにした。
「……一度挑戦してみても?」
「!」
諦めてくれるだろうという予想は外れて、グレース様はやりたいという意思を口に出した。こちらを伺うような上目遣いに、俺は完全にやられた。
(だからなんでこんなに可愛いんだ……⁉)
怪我をしてほしくないという気持ちと、可愛いからオールを渡したいという思いがせめぎ合って葛藤が生まれていた。
「……か、片方だけなら。一緒に漕ぎましょう」
「ありがとうございます……!」
満面の笑みでオールを受け取ったグレース様は、一つのオールを両手で持った。
「それなら息を合わせないといけませんね。カルセイン様、合図のほどを」
「グ、グレース様にお任せします」
「大役を預かってもいいんですか?」
「もちろん」
仕草や言葉、グレース様の全てが可愛らしく……そして愛おしいと思ってしまった。
「それじゃあ行きますよ……せーの!」
グレース様の声に合わせて、オールを動かし始めた。彼女は一生懸命、一つのオールを動かしていた。
「大丈夫ですか? 疲れたら言ってくださいね」
「大丈夫です! それにしてもカルセイン様は凄いですね。このオールを片手で、しかも両方動かせるだなんて」
「そんなことは」
反射的に謙遜してしまったが、グレース様の言葉は純粋に嬉しかった。
「グレース様。あの木陰に向かいましょう。そこで少し休憩できたらと」
「いいですね、そうしましょう」
湖の上で涼しいとは言え、日差しを浴びる形になっていたので、そろそろ日の当たらない場所に移動しようと思った。
陸地付近に舟を泊めると、グレース様の手を取って降りるのを手伝った。
木の下は日差しがよけられて良かったものの、ベンチなどの座れる場所はなかった。そのまま座ることになったので、グレース様の座る場所に自身が持ってきたハンカチを敷いた。
「ありがとうございます、カルセイン様」
「いえ。少し休憩しましょう」
二人並んで木陰に座ると、湖畔を眺めながら言葉を交わした。
「グレース様、腕は痛めていませんか?」
「は、はい。大丈夫です」
ぎこちない様子を受けると、嫌な予感が過った。
「……グレース様、失礼します」
「あっ」
カーディガンで腕が隠れて見えなかったので、一言告げてからカーディガンをめくった。すると、腕がほんのり赤くなっていた。
「……すみませ、グレース様」
「ど、どうしてカルセイン様が謝るんですか! 漕ぎたいと言ったのは私ですよ」
「ですが……」
あの時、可愛さに揺らいで怪我の危険を取らなかったのは自分だ。そう思うと、申し訳なさでいっぱいになってしまった。
「カルセイン様。私はカルセイン様と一緒に漕ぐことができて凄く楽しかったです。今はほんの少しだけ疲れを感じますが、それ以上に心が満たされているんです」
グレース様から向けられた笑顔は、俺の罪悪感を吹き飛ばしてしまう程輝いていた。
(……それはずるいな)
こんなに可愛いことを言われてしまうと、俺は自分のことを責められない。
「それに、疲れているだけなので……! だから帰りも一緒に漕ぎましょう。カルセイン様と一緒に何かができることが、楽しくて仕方ないので……」
「……本当に痛い時は教えてくださいね?」
「はい、約束します」
俺は指切りと一緒に、グレース様――グレースを、生涯守り抜くと決めた。
これは夫婦になった今でも、少しも変わらない誓いだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます