第302話 初めての恋と怒り(ベアトリス視点)

 生まれて初めて恋というものをした。


 今までは第一王子を慕うフリをしたことがあるだけで、本当の恋愛をしたことはなかったのだ。大公子と婚約し次期王妃として盤石な地位を築くリリアンヌ、帝国の大公妃として自分の生きるべき道をみつけたレティシア。


 ……カルセインは婚約者がいないから一瞬外して。


どちらも誇らしい妹で、同時に少しだけ……ほんの少しだけ羨ましくもあった。ただ「私も二人のような素敵な恋がしてみたい」と一瞬欲望が芽生え始めたのだ。


その願いを叶えるかのように、オル様という人物に出会った。出会いはそこまで良いものではなったものの、自分と相性の良い人だと心のどこかで思っていた。彼と時間を過ごす中で、このまま一緒になれたらという甘い想像をしてみたのは一度だけじゃない。


 でも、彼は突然姿を消してしまった。


 あまりの突然なことに、第二王子からの婚約打診まで重なって、私は身動きが取れなくなっていた。


(……どうして)


 理由の分からない失踪に心が深く傷ついて、一人泣き続けた夜もあった。


 なんで、どうして、想っていたのは私だけなの? それとも、名前を偽ったから罰が当たったの……?


 そんな思いばかりが自分の中で永遠にめぐっていた。苦しくなって、初めて私はオルが、彼のことが好きなのだとようやく言葉にしたくなった。会っている時は、恥ずかしくなって好きという気持ちは一度も伝えられなかったのだ。ただ、付き合おうという言葉に承諾しただけでーー。


(……もしかしたら、それも私が見ていた幻覚なのかもしれない)


 そう考えてしまうほど、私達の関係はふわふわとしたものだったのだ。



 諦めてしまおう。そう何度も思った。

レティシアに指摘されたように、第二王子がオル様なのではと考えたこともあった。


(私が会いたいのは第二王子じゃない。……オル様よ)


 表現しがたいこの気持ちをどうするべきかわからなかったものの、レティシアが手を引いて後悔しないようにと背中を押してくれた。


 だから今日は、第二王子の顔を見て、確認をして……もしオル様なら話そう、そう思っていたのに。


 私の思いは、仮面によって邪魔された。


 シグノアス公爵が出てきた後ろから姿を現したのは、仮面をかぶった第二王子だったのだ。

それを目の当たりにした瞬間、私は悲しみや苦しさよりも圧倒的に怒りがこみあげてしまった


「……レティシア。私は怒ってもいいかしら?」

「お、お姉様」


 ただ一点、仮面を見つめながらそう言葉にした。


 そんな私の気持ちなど関係なしに、シグノアス公爵は全体に挨拶を始めた。


「皆様、本日はシグノアス公爵家主催の夜会にお越しいただき誠にありがとうございます。短い時間ではありますが、どうぞこの夜をお楽しみください」

「…………」

「では、私の方からご挨拶に伺います故、ゆっくりお待ちいただければと思います」


 シグノアス公爵から挨拶があるのみで、第二王子――仮面の男は一言も喋らなかった。シグノアス公爵と二人階段から下りると、貴族に挨拶回りを始めた。シグノアス公爵は、本来なら挨拶をされる側だが、自ら動くことを選択した。


 この行動の利点は、自分の派閥に引き込むために好印象を与える効果がある。「わざわざ公爵が自分のために」という思いを引き起こすことも可能なのだ。


(……思っている以上に厄介な相手かもしれないわ)


シグノアス公爵の一連の動向を観察しながら、取り敢えず気持ちを落ち着かせた……と思っていた。


「お姉様、手から血が」

「あら」

「て、手当を」

「大丈夫よ」


 私の怒りは相当なものだったようで、扇子が折れた後もずっと握りしめていたようだった。無意識に行っていたようで、手の痛みには気が付かなかった。


「姉様、怪我をされたのですか」

「だから大丈夫と」

「お姉様移動しましょう。それで手当をーー」

「手を出してください。取り敢えずハンカチで拭きましょう」

「カルセイン、貴方のハンカチが汚れるわ」

「ハンカチとはそういうものです」


 心配されたカルセインに、半強制的に手を取られて持っていたハンカチで血を拭かれ始める。


「……ありがとう、カルセイン」

「いえ」

「一つ聞いてもいいかしら」

「何でしょう?」

「一度エルノーチェ公爵邸を第二王子が訪れた時……その時も、仮面をつけていたの?」

「いえ、していませんでしたーーっ! ね、姉様、痛いです!」

「あら……ごめんなさい」


 怒りが再発すると、またも無意識に手に力が入り、今度は間違えてカルセインの手を強く握りしめてしまった。


「取り敢えず、血が止まるまではハンカチを握りしめてください。それと、もう手に力は入れないでください」

「……努力はするわ」


 私だって好きで力を入れているつもりはない。だから「もうしない」と約束はできなかった。


「ふぅ……」


 カルセインが一度離れると、レティシアが心配そうに傍に着いてくれた。


「お姉様、もう帰りましょうか」


 その一言は、私の複雑な感情を察してくれたものだった。だけど、私はレティシアの言葉に頷かず、レティシアを見つめながらふわりと微笑んだ。


「いいえ。私は絶対に……顔を見るわ」

「!」

「あの仮面を取るわ、必ず」


 そう言うと、再び仮面の男に目線を向けるのだった。私の瞳は闘志に燃えていた。

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