第88話 償いを込めて(ベアトリス視点)


 その日記は、カルセインが幼い頃記したもの。


「それは……捨てた筈で」

「あら。覚えてないの?」

「え…………」

「ただ捨てたんじゃない。投げ捨てたんでしょ、私の目の前で」

「ま、まさか」

「……えぇ。拾ったのよ、その後」


 傲慢であることを選択したことは、同時にカルセインがそれまで慕ってくれた姉を消すことを意味していた。


 良くも悪くも、カルセインという息子に興味がなかった母の性格が幸いして、私はカルセインと交流できていた。でもそれができなくなった。最初に反抗的な態度を取った事が災いし、母は監視の目を強めた。ここで私がカルセインに関われば、あの子に必ず悪影響を及ぼす。だから、離れざるを得なかった。


 当時の私は、性格を使い分けるだなんて高等技術はできなかった。常に傲慢でいなければ、ボロが出てしまう。ボロが出た瞬間、母の意識は弟達へ向かってしまう。それだけは何としてでも避けなければならなかった。


 だから私はカルセインの手を放した。何も伝えずに。それが事情を汲み取ったリリアンヌと状況は違い、カルセインは最悪の形で裏切り傷つけることになったのを知った時には何もかも遅かった。


 嫌われて当然のことをした私に、カルセインの傍にいる資格は何もなかった。


 そしてあの日。カルセインは私の目の前で日記を窓から投げ捨てた。


「姉さまなんて大嫌いだ!」


 その言葉と共に。


 傷付かなかった訳じゃない。むしろ酷く動揺した。わかっていた筈で、覚悟もしていた筈なのに。胸が締め付けられて、いてもたってもいられなかった私は、我に返った時に拾いに行ったのだ。


 そんな想いを胸に抱えながら、真剣な眼差しでカルセインを見つめる。


「私は本当に傲慢だった。自分一人が注意を引けば貴方達を守りきれると思っていたのだから」

「…………」

「でも違う。私は自分の考えしか見えてなくて。その結果、幼い頃の貴方を傷付けた。……いつも後悔してたわ」


 カルセインの瞳は、どこか辛く悲しみを込めた瞳へと変化していく。

 

「これが私が貴方に謝罪すべきこと。……到底、謝って許されることではないわだから」

「姉様。もう俺も子どもではありません。全てを聞いても尚、姉様が悪いとは一つも思えません。……本当の悪は、別にいますから」


 いつの間にか、カルセインには小さな笑みが宿っていた。予想だにしなかった表情と言葉に驚きを隠せない。


「カルセイン……」

「ですから。姉様が俺を悪くないというのなら、それこそ相殺です。お互いを責め合う理由はどこにもありませんよね」

「…………そう、ね」


 まるで立場が逆転したかのように、カルセインがハッキリと意見を述べていく。その風に、ただ押されることしかできずに言葉に頷く。


「姉様。……今度こそ、自慢の姉になる。との伝言を聞きました」

「あ……」


 それはリリアンヌに託した伝言だった。


「ならば俺は、今度こそ貴女が誇れる弟になります。この誓いを、謝罪の代わりにできませんか」

「…………誓い」

「いいですね、それ。ならお兄様。私も入れてくださいな」


 戸惑う私などお構いなしに、リリアンヌは明るい声で割って入った。カルセインはほんの少しだけ不服そうな表情になるも、すぐさま続けた。


「……誇れる兄になる。償いを込めて」

「私も。自慢の妹になりますわ」


 話は確実に収束へと向かってきた。その流れも受け入れきれないまま、無言になってしまう。


「お姉様。お姉様に幼い頃の出来事から生まれた莫大な後悔と罪悪感があるように、お兄様にも現在までの行いから生まれた表しきれない後悔と罪悪感があります。これはどちらが大きいかはわかりませんし、そこを考えることに意味はありませんわ」


 沈黙を作らずに、リリアンヌは話し始めた。優しく私の手を取ると和やかに微笑んだ。


「前だけ見なくては。後悔を払拭するのも、罪悪感を償うのも、過去にはできないことですわ。ですから、お兄様の提案が最も意味のあることかと」

「リリアンヌ」

「お姉様、次は後悔しないのでしょう?」

「…………ふふ、そうね」


 さすがは私の自慢の妹。そう思わず強く思ってしまうほど、リリアンヌは私への理解力が高い。迷いや戸惑いはある。けれど、新たな後悔を生まないための選択を。


「今度こそは選択を間違えるわけにはいかないわ。……カルセイン。その言葉を誓いにしましょう。貴方に恥じぬ姉となることをここに改めて誓うわ」

「……はい、姉様。必ずや自慢の存在となります」

「えぇ」


 そうして私達は、お互いに握手を交わした。


 カルセインと面を向かって接触をしたのはいつぶりだろうか。

 幼き頃のあの小さな手は面影さえもなかったけれど、柔らかくなった視線からはあの日と変わらぬものがあるように感じた。


「カルセイン。大切で重要なことを念をして言うわ」

「はい、姉様」

「レティシアに関しては、貴方が全面的に悪いわ。だからしっかりと謝るのよ?」

「もちろんです」

「しっかりと文言を考えておくようにね。だらだらとした謝罪ほど誠意のないものはないわ」

「はい、姉様」


 不安、困惑、迷い。様々な形で私の心を縛り付けていた鎖は、いつの間にか姿を消していた。


 その安心感から無意識に姉面をしていたことも、それにカルセインが喜んでいたことも、それを外から眺めてにやついてたリリアンヌがいたことも、私は知らない。

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