九月 別れの言葉
その日はどことなく、すっきりとしたものであった。雲一つない空にただひとつ太陽が浮かんでいた。
海音は目覚まし時計が鳴る前に目が覚め、布団から体を起こした。
部屋にお香の匂いが広がっている。海音の目線の先には制服が掛けられていた。
昨日今日では葬儀場の線香や、お香の匂いが落ちなかったらしい。
しかし、今の海音には、昨日のような不快の気持ちは微塵も起こらなかった。
下の階のリビングからは、朝食を準備しているような音がかすかに聞こえる。
海音は布団から出ると、カーテンを開けた。太陽の光が海音の部屋を明るく照らしている。
この日の朝は、それまででもっとも清々しく目覚められた朝だと海音は思った。
今日この日、海音は祖父との永遠の別れを惜しみながら、最後の言葉を送るのだ。
海音は窓辺から離れ、掛けられた制服を少し整えると、部屋を出て、リビングに向かった。
「おはよう。今日は早いわね。海音」
「なんか目が覚めちゃったから。……おはよう。お母さん」
キッチンに立っている母親に、普段であればしないような挨拶を面と向かってした。
視線を手元に戻し、
母の目元にはまだ涙を流した痕跡が見られたが、いくらか感情の整理がついたらしい。
二人の間に沈黙が流れようと、それまでの息苦しくなるような空気は存在しなかった。
「ねえ。そんなとこで立ってるなら、朝ごはん持って行って」
料理を皿に移し、しゃもじを左手に炊飯器を開ける母にそう言われ、海音は朝ご飯を机に並べた。
飲み物をコップに注いでいると玄関の方から音が聞こえた。
海音が振り返ると、父親が新聞をもって眠そうにあくびをしている。
普段と変わらない、家族の姿を見た海音の顔には小さな笑みがこぼれていた。
その後、家族そろって朝食をとると、支度をするため動き出した。
海音も自分の部屋に戻り、制服に着替える。制服についたお香の匂いが海音の鼻をくすぐる。
不快な気持ちはなかったが、そのかわりに海音は緊張を感じていた。
葬儀というものに出るのはこれが初めてであったからだ。鼓動がいつもよりも早くなっていた。
支度を終え階段をおり、リビングに戻ると、早くに支度を終えた父親がスーツの姿で新聞を読んでいる。
整えられた服装で落ち着いたように取り繕う父であったが、海音の目にはしきりに時計を確認する姿が映っていた。
海音はそんな父の姿に緊張が和らいだのか、鼓動の早まりはいつの間にかなくなっていた。
落ちつきをとり戻し、海音はいつものように姿見の前に立つと、そこには真剣な顔をする自分が映った。
家族全員の支度がおわり、海音たちは昨日のように葬儀場に向かう。
陽ざしがこれでもかとあたりを照らす。清々しいまでの晴天に、車の中の家族の会話もゼロではなかった。
葬儀は近親者だけで行うのだと聞いていた。葬儀場の広い駐車場には数台の車だけが停められている。
お香の匂いが満ちた部屋に入ると、祖母の姿を海音は捉えた。
「おはよう。おばあちゃん」
海音はすぐに祖母に近づくと挨拶をした。祖母も同じように返してくる。
母親と叔母が話をしているようだ。部屋の中の雰囲気は、昨日とはうって変わって、ただ暗く沈んでいるだけではなかった。
そんな空気も儀式が始まればピンと張りつめた緊張感に切り替わった。
お坊さんが部屋に入り、葬儀の一連の流れがある執り行われる。
海音は昨日覚えたように、焼香というものを大人たちと同じように香を炊いた。
作法はおぼつかないものであったが、想う気持ちは勝るものはないだろうと海音は思いながら、自分の椅子に戻った。
お坊さんがお経を読み終わり、とうとう棺が葬儀場から出される時間となったようだ。
その場にいた全員が棺の周りに集まり言葉を各々かけると、棺の蓋がゆっくりと閉められた。
海音はその瞬間、「別れ」というものを実感したのか、目の奥が熱くなってくるのを感じた。
当事者たちで棺を霊柩車まで運ぶらしい。海音も棺の淵に手をかけ、棺が置かれた台を動かし始める。
棺が霊柩車におさめられ、車が動き出す。甲高いラッパのような音が辺りに響いた。
近くにいた祖父が急激に離れたような感覚に、逃れられない喪失感を海音は感じていた。
海音たちも祖父の後ろに続いて、目的地へと向かう。
たどり着いた場所は、無機質な雰囲気が漂う、山に囲まれた建物であった。
大人に導かれるままに海音は建物に入り、最初に目に入ったものでこの場所がわかった。
ここが火葬場なのだと、海音は壁に並ぶ円形の扉を見てそう実感した。
棺は扉から少し離れたところに置かれ、簡易的な祭壇の前でお坊さんが立っていた。
お坊さんがお経を読み始め、火葬場の係員が扉を開けた。
お別れの時間だ。その事実に落ち着いていた感情があふれ出したかのように海音は涙を流した。
棺を全員で押しながら、別れの言葉を祖父に告げる。音を立てながら棺の乗った台が扉に近づく。
海音はひたすらに感謝の言葉を言い続けた。少しでも笑顔で送れるように。
「ありがとう。だいすきだよ」
丸い扉が閉められ、扉につけられた窓の中が赤く染まってゆく。
海音は胸を締め付けられるような形容できないものを感じながら、その場から離れた。
別室に移動し、火葬場の係員に呼ばれるまで待機だと聞き、つかの間の休憩のとなった。
少しだけ、しんみりとした雰囲気になりながらも、肩の荷がおりたようで、だんだんと明るさを取り戻していった。
談話をしながら海音はふと、机には置かれお茶菓子が目にとまった。
その瞬間、海音のお腹が鳴った。時間の感覚がなかったが、おやつを食べるのにちょうどよい時間となっていたのだ。
その時まで空腹に気づかなかったが、昼ご飯を食べていなかったのだ。
海音は目の前に置かれているそれを食べていいものかと挙動不審になっているのを察したのか「食べていいのよ」と祖母は微笑みながら言った。
海音が菓子を手に取ると、それに続くようにみな各々机の上にあるものを食べ始めた。みんなお腹がすいていたらしい。
しばらくして、部屋に係員が呼びに来た。菓子のゴミを急いで片付けると、係員の後につづいた。
案内された部屋の中心に、何かが置かれていた。海音がそれを見ると心臓が急激に動き出したかのような衝撃が走った。
小さな台の置かれた小さな白いかけらが祖父のお骨だと聞かされた。
現実なのか疑いたくなるほどに人の形は残っておらず、ほんとうに祖父なのか海音は信じられなかった。
年齢に対して骨が残っていると、係員は言ったがこれ以上に骨が無くなってしまうのだろうかと恐ろしく感じられた。
鉄製の箸を渡され、残った骨のかけらを掴み、陶器でできた寸胴な壺に入れてゆく。
大きなかけらをすべて入れ終えると、残りの粉状のものも残さず、壺に入れると、ふたを閉め、白い袋に壺は入れられた。
海音は祖父が両手に収まるほどになったことに驚きをいまだ隠せないようであった。
祖父の骨を抱えたまま、最初の葬儀場に戻り、そして、この日の一連の儀式は終わりを迎えた。
そのころには空が赤く染まり、無事儀式を終えたことを労い、精進落としというものがあると海音は聞かされた。
広い食堂のような場所に案内され、机には鮮やかな料理がすでに用意されていた。
祖父の骨も同じ部屋の祭壇に置いた。全員がそろって食事の場を囲めることに海音は嬉しくも寂しくも感じた。
祖母の挨拶でみな一斉に箸を手に取り、食事をする。
ようやくひと段落がつき、その場にいる全員の顔には笑顔が戻っていた。
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