四月 青春のさいかい

 時間は放課後。海音は駆け足で廊下を下り、下駄箱のある昇降口に向かっていた。


 放課後だからと早く帰りたいから急いでるのではなく、部活動に遅れないようにするためであった。


 学校が始まり、およそ二週間が経ったこの日、冬に自主練期間となる水泳部の学校での練習が再開となる。


 それに同時に一年生の仮入部があると海音は聞いていた。


 靴を履き、校舎から少し離れた体育館横にあるプールを遠目で確認した。


 プールサイドにはまだ人影はなく、海音は胸をなでおろし、そこからはゆっくりと歩いて行った。


 着替えるため更衣室兼、部室に入るとそこには部室に据え置かれた椅子に座ってスマホをいじっている篠本弥生がいた。


 学校内では使用禁止のルールがあったが、それを気にも留めずスマホを眺める彼女を横目に部室に入り持っていたカバンを置いた。


「ん、ああ海音か。びっくりしたあ。顧問かと思ったよ。」

「気づいてたんじゃないの? 顧問はドアノックするし、顧問だったらすぐスマホ隠すでしょ」

「まあね。でもまあ今日顧問来るか分からないらしいんだよね」

「えっ、そうなの?新入生来るのに?」

「なんか会議があって、遅くなるかもってマネさんが……」


 コンコン。

 突然ドアがノックされ二人の空気が凍った。


 二人の「は、はーい」という声がシンクロし、言い終わる前に部室の扉は開かれた。


 そこにいたのは顧問ではなく、マネさんこと水泳部マネージャーの一人、春中彩智はるなかさちであった


「あれ、海音も来てたんだ。……どうしたの二人して固まっちゃって」

「いや、話してて急にノックされたから。どうかしたの、彩智」

「どうしたもこうしたも、今日部活どんだけやるって聞きに来ただけなんだけど」


 彩智によると今日の部活は今期最初で、顧問も来れるか分からないため、練習のメニューは決めずに自分たちで自由にやれとの指示なのだった。


 そのうえでどうするかと言われても、三人にとっては決まった答えがあった。三人は顔を見合わせながらそろってこう言った。


「「「顧問が来る前に終わらせるか!」」」


「じゃあ、プール開けるからすぐ着替えて上がって来てねー。あとで先輩にも意見聞くけど、たぶんみんな同じだろうしね」


 そう言って、彩智は部室を出ていった。中の二人はそんなこんなで水着に着替え始める。


 海音は久しぶりに着た水着がきつくなっていることに若干焦りながらも、なんとか無事着替え終えると帽子とゴーグル、タオルを持ち、弥生に遅れて部室を出た。


 階段を上がり、プールサイドに入るその瞬間にある匂いに海音はすぐに気がついた。


 プールの匂いといわれる、塩素のその匂いに海音は身が引き締まる思いを感じた。


 プールサイドでは彩智ともう一人のマネージャーが、タイムを計る器具や記録のボードの準備をしている。


 海音は久しぶりの光景に懐かしさを感じながら、持っていた道具たちを飛び込み台の近くに置くと部員が全員集まるまで軽く筋トレをすることにした。


 髪が邪魔だったため、お団子状にまとめるように縛り直し、マットを引き、腹筋を始めると、その横に弥生もマットを広げ、寝ころんだ。


「海音はやる気があっていいねえ。こんな四月から普通泳ごうなんて思わないでしょ」

「それは、私だって四月から泳ぎたくはないけど、大会だって二か月後じゃん。ブランクもあるし早くからやっておかないと」

「相変わらずの真面目っぷりだねえ。さっき水温見たけど二十度ないんだよ? 風邪ひいたら元も子もないって」

「私はあんたと違って病弱じゃないんだから。大会直前になると何か体に支障が起こるあんたとは違って」

「海音は練習中にいつもどこかしら痛がっているじゃん」

「あれは本当だから」

「妥協ってやつでしょ」


 二人にとってお決まりの言い合いをしつつ、五分ほどするとほかの部員たちが続々とプールサイドに入ってきた。一年生はまだ来ていないようだ。


 顧問も来ないから先に始めちゃいましょうか、という彩智の一言で、集まったメンバーでプールに挨拶をし、帽子をかぶり、ゴーグルをつけた。が、誰一人、我先にと飛び込むものはいなかった。


 気温二十二度、水温二十度はいくら春だからと言っても凍えてしまうほどの温度であり、それに飛び込むなど相応の覚悟と勇気が必要であった。


「弥生。入らないの?」

「いや、入るけどほら、ちょっと触ってみれば分かるでしょ」

「二十度ってそんな冷たかったっけ……って、冷たっ! 寒すぎでしょこれ。二十度ってこんな冷たかったっけ?」


 水にほんの少しつけた指先が痛く感じるほどの温度であった。


「そうだ、海音。手押し相撲しない? そこ立って」

「いや絶対落とすつもりでしょ。だったら自分で飛び込むわ」


 そう言った直後、弥生の「えっ」という声が聞こえると同時に、海音は助走を軽くつけて指先から思い切り飛び込んだ。


 海音は懐かしの水の感覚を感じながら水中を五メートルほど進みすぐに浮上し、立ち上がった。


 体温が急激に奪われたのか、体が震えている。二十度の水ではあるが海音の体感では氷水を全身にかぶったようであった。


 体を動かさなければもっと寒くなると感じた海音はそこからクロールを始めた。


 久しぶりの水泳であったが手のひらの水の感覚は良いように思えた。


 水の冷たさも数百メートルを泳ぎ慣れてきたのか、さっきほど苦ではないと海音は感じた。


 水面から顔を上げるとまだそこには弥生が唖然としたように立っていた。


「何やってんの? 早く入りなよ」

「いや、マジで言ってんの? ヤバすぎでしょ。なんの脈絡もなくいきなり飛び込んで泳ぎだすって。吹っ切れすぎでしょ」

「ファーストペンギンと呼ばれる女なんで」

「……なにペンギンだって?」

「ファーストペンギン。南極に住むペンギンの群れの中で危険な海に最初に飛び込む勇気あるペンギンはそう呼ばれるの」

「勇気あるっていうよりは、ただの向こう見ずなバカなんじゃないの」


 そう言ってなかなか入らない弥生を後ろにいた彩智が叩き落した。


 それを見たほかのメンバーが青い顔になり、続々とプールに飛び込む。


 海音はこの季節が始まったのだと、その様子を見ながらそう思った。


 メンバーの震える姿を横目に海音は、さらになん往復かクロールで泳ぎ、スタートとは反対側の壁を触り、水面から顔をあげた。


 あがった息を整えていると、プールサイドの入り口に制服姿の生徒が何人か入ってきているのを海音の目はとらえた。


「あっ、海音だ!」


 知り合いがいると聞いていた海音は、寒さにギブアップしプールからあがっていた弥生を引き連れ、その生徒たちに近づき、その中の一人に突然名前を叫ばれた。


 声の主のことをあまり覚えてはいなかった海音であったが、その生徒の顔を見ると途端に記憶がよみがえった。


 中学時代からの後輩。背が高く凛々しい顔で海音を見下げる彼女、天城あましろ陽真理ひまりは水泳に関しては海音は一目置いていたが、先輩の海音に対しあまりの慣れなしさがあった。


「久しぶりですねえ海音先輩。覚えてますか? 私のこと」

「ああ、いたわこんなの。今思い出したよ」

「こんなの呼ばわりはひどくないですか?半年前から高校のことを聞くために連絡とっていたじゃないですか」

「文字だとわかりにくかったんだよ、お前のその感じ。私は人のことあんまり覚えないし、忘れやすいんだよ」

「ひどいですね先輩は。だから彼氏とかいないんですよ。お聞きしますが、今いますか、彼氏」

「……いないよ」


 ですよねーと、にやける陽真理に手が出そうになる海音がすんでのところで止め、一呼吸置くとそのタイミングで学校の戸締りの放送が流れた。今日の部活の終了時刻の合図であった。


 気が付けばプールに入っている者はだれもいなかった。後輩たちとの会話に区切りをつけ最初のようにプールに挨拶をすると、そのタイミングで顧問が来たようで、後輩たちと話をしているようだった。


 顧問の話は長く海音はいつもうんざりするほどであったため、後輩たちが気の毒に思いながらも、自分がまきこまれないよう避けて更衣室に駆けていった。


 部活が始まりとうとう彼女たちの季節が始まる。海音の高校生活で切っても切り離せない部活動である。


 学校生活で最も長い時間を共にした仲間たちとの思い出がもっと多いことは必然であった。


 彼女たちとの出会い、経験が大きく海音を変えてゆく。

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