後悔の精算はお早めに
イルカ尾
プロローグ
霧によって少しの先も見えない中を小舟が進んでいる。
船の先端の辺りに光を放つものがあった。それはライトの光などではなく、人の魂が光を放っていたのだった。
この船が向かう先は死後の世界であり、この魂を送り届ける途中であった。
船の後方には、黒のローブを着た人型のものが船を漕いでいる。
二人は向かい合うように船に乗っているが、魂には船を漕ぐ人物の顔が影によって隠されており、見ることはできなかった。
「すみませんねえ、お嬢さん。いつもならこんなにも霧が出ていることはないのですが、これほどまでに濃い霧ではゆっくりと進まざるを得ないのでして」
影の中から声が聞こえ、魂は驚いたようにローブの人物に視線を向けた。
影から発せられた声は優しく穏やかな声であった。
「いやはや、しかし、珍しいことがこう重なると何かわたくしも運命を感じてしまいます」
「……霧以外にも何かあるのですか」
「ええ、それはもう……っとそういえば、お嬢さんのお名前をお聞きしていませんでしたねお聞きしても?」
「ええっと……私の名前は……すずはら、鈴原海音、だったと思います」
「だった、と言いますと」
「この名前以外は、何も分かりません」
彼女はそう言って口をつぐんだ。彼女にはこの名前以外、生前の記憶がなくなっていた。
自分がどんな人物だったのか、何一つ思い出すことはできなかった。
「それは大変お苦しいでしょう。自分が誰なのか分からず、気が付けばこの船に乗っていた、という感じですか」
彼女は頷くような仕草をしたあと、口をつぐんだ。死神はそんな彼女様子を見かねてかこう続けた。
「先ほどの珍しいものについて、聞いていただけますか?」
「……はい」
「実を言うと、今の海音さんのように魂が自ら光を放つことはありません。私もこの目で見たのは何百年かぶりでございます」
「光を放つ、ですか魂ですか?」
彼女は自身の体に視線を落とした。今、彼女は人魂のような球体が宙に浮いていた。
「ですがその光を放つ理由は、それほど良くないものと思われるのではないでしょうか」
「良くないものなんですか? それは、一体……」
死神は一呼吸おいて続けた。
「光を放つ魂の持ち主の皆さんは、共通して“後悔”の記憶を多く背負ったまま亡くなられた人だということです」
「後悔の記憶?」
「ええ。そしてその後悔の記憶が魂の奥深くに刻み込まれることで、光を放つようなのです。海音さんのように」
「刻み込まれた記憶……」
彼女は食い入るように死神の話を聞いていた。
「少し話過ぎてしまいましたね」死神は止めていた腕をゆっくりと動かし、船を進めた。
辺りの霧が少しだけ晴れ、対岸の影がうっすらとだけ見えるようになっていた。
「今話をしていて、考えたことがあるんです」と船が進み、しばらくして、死神が言った。
「海音さんは記憶を取り戻したい、ですか?」
「記憶を? できるんですか?」
海音は身を乗り出し、勢いよく死神に聞いた。死神は船を漕いだまま話をつづける。
「今海音さんは記憶を失くしていますが、魂が光を放っていますよね」
「はい、そうです」
「その光は魂に刻まれた記憶が原因だと言ったと思います。そこから、ご自身の記憶を取り戻すことができるかもしれないのです」
彼女は首をかしげるような仕草をし、「それって、どういう」と不安そうな声で死神に聞いた。
「魂に刻まれている記憶を追体験することで、断片的な記憶が繋がり、連鎖するように他の記憶も思い出せるのです」
「本当ですか?」
「ええ。もちろん、わたくしもお手伝いたします。ですが少し心配なことがありまして……」
死神は船を進めるのをやめ、舵の棒を船の上にあげると海音にそばに移動した。
「魂に刻まれているのは後悔の記憶です。そのため多くは苦痛な記憶ばかりでしょう。それをもう一度追体験するとなると海音さんの心がもつかどうか……」
死神は心配そうな声で海音に聞いたが、海音は覚悟が決まっていたようで死神に答えた。
「私は、私がどう生きてきたのか知りたいです。そうしなければ、いけないような気がして。死神さん、お願いです」
海音の言葉を聞き、「分かりました」と、言うと死神は船の後方に戻ると海音に向き合った。
その時すでに、死神はどこからともなく小さな鏡を手に持っていた。
「この鏡で光を反射することで、ご自身の記憶を追体験することができます。よろしいですか」
「……はい」
死神は鏡を海音の方へ向けた。魂の光が反射し、海音は光に目を細めると、海音の意識が遠のいていった。
『勝手に忘れてんじゃねえよ』
意識が朦朧となりつつある海音はそんな声が聞こえた気がした。
『思い出そうとしなかったらどうしてやろうかと思ったけど早く、思い出しなよ、全部』
その声を最後に海音の意識は完全に途切れ、魂に刻まれた記憶の中へと潜っていった。
この少女、鈴原海音が生きた年月は十八年と、三ヶ月。
高校三年の冬、命をおとした。全ての経験がまだ新鮮に感じられる時期であった。
彼女は残酷な過程で育ったわけでも、特殊な能力があったわけでもない。
ただ青春を謳歌することができる、いたって普通の高校生だったのだ。
彼女自身も何一つかわり映えのしないつまらないが満足できる生活を送っていた。
しかし人生には何が起こるか分からない。気づいたときにはもう手遅れであったのだ。
時間は止まることなく進み続ける。だからこそ、人は後悔をする。
そのうち彼女は目を覚ます。変えられない過去の記憶をたどり、もう一度後悔をするだろう。
始まりは四月、雨の降る始業式であった。
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