第2話 襲撃者

泰之やすゆきは目を疑った。

次に自分の頭を疑った。

これは一体?

あの女性は一体どこへ?

それよりも、ここは?


一瞬間いっしゅんかん数多あまたの疑問が去来きょらいして、答えを得られぬまま消えていく。

本当に異世界に来てしまったのだろうか。

そもそも異世界とはなんだ。

手には木刀が一振りと、得体の知れない饅頭まんじゅう

そうだ、彼女は、向こうの人間の言葉がわかる、と言った。それならば。

「ひとまず、人間を探してみるか」

泰之は饅頭をポケットにしまった。


泰之は周りを見渡す。

どうやらここは完全に森の中らしい。

三百六十度どこを切り取っても鬱蒼うっそうと茂った森だ。

どこに向かうべきか見当もつかない。

木の上から見渡してみるとするか。

近くの木に近づく。

かすかな違和感を覚えるも、その違和感がどこから来るのかは分からなかった。

つかめそうな枝に手を伸ばすが、少しだけ届かない。

仕方ない。

枝を掴もうとジャンプしたところ、勢いがつきすぎて枝に掌底しょうていを食らわす形になってしまった。


泰之は先ほど覚えた違和感を、今度は強く意識した。

両手のてのひらを見つめながら考える。

いくら何でも今の動きはおかしい。

様な――。

泰之は何か思い立ち、一歩半分の力を脚に込めて後ろに跳んだ。

実際に着地したのは、四歩半分後ろの地点。

脚力が、あるいは筋力が、三倍に強化されている?

木刀を上に投げ上げる。

いつもの三倍の高さまで上がる。

筋力が上がっているのか、いやーー。

泰之は中々落ちてこない木刀を見て思い直す。

ここはどうやら、なのだ。

いよいよここが異世界であることを認めねばならない。

地球上のどんな場所でも、重力が三分の一まで下がる場所はあるまい。

「参ったな、こりゃ」

泰之は頭を抱える。

だが、いつまでも頭を抱えていてもしょうがない。

力加減に気を付けながら、泰之は手近な木を上る。

周囲を見渡したが、どうやらこの森、かなり広域に渡るようである。

少し歩いた程度では人家じんかに辿り着きそうもない。

「参ったな、こりゃ」


先ほどの言葉を繰り返し、どうしたものかと考えていると、突如周囲に轟音が響いた。

音のした方を見ると、どうやら馬車が横倒しになっているらしい。

その更に向こうからは火の手が上がっている。


別に何を考えたわけではない。

泰之の純粋な正義感が、体を動かしたのだ。

あの状況ならともかく誰かが困っているに違いない。

泰之は地面を蹴る度に凶悪な違和感に襲われながら現場へ急行した。


横倒しになった馬車は、所謂いわゆる貴族が乗る様な、豪奢ごうしゃなものだった。

馬車の中には、二人の人間が倒れていた。

一人は従者と思しき男性。

ウイングカラーの白無地のシャツの上に、グレーのラインがはすに入ったライトグレーのネクタイを締め、黒いベストとモーニングコートを重ねている。

黒いストライプの入ったグレーのコールパンツの下に、黒いストレートチップのシューズをいている。

もう一人はその主らしき子供。

紺地のジュストコールの袖口には金のレースがあしらわれている。

白いレースのジャボの下に紺のベストが見える。

白いブリーチズの下にハイヒールの黒い革靴を履いている。


馬車の近くに馬が居ない。

馬車を操る御者らしき人物も居ない。

どうにもただの事故には思えない。

車から伸びた、手綱らしき綱は焼き切れている。

先ほどの火災。

泰之は嫌な想像をして、顔をしかめた。


泰之は車から二人を引きずり出した。

そのまま地面に寝かせると、脈と呼吸、目立った外傷の有無を確認し、気を失っているだけであることが分かると、胸をで下ろし、近くに腰を下ろした。


先に目を覚ましたのは子供だった。

「よう、目が覚めたか」

泰之はそう言ったが、子供には通じていないようだった。

異世界なんだからそりゃそうか、と泰之は思った。


子供は従者がまだ目を覚ましていないことに気づくと、ほほはたいて無理やり起こそうとした。

「やめろやめろ」

泰之は子供の肩に手をかけ、止める。

子供は手を振り払い、怒った様子で泰之に何かを言ったが、何を言ったのか、泰之には分からなかった。

異世界なんだからそりゃそうか、と泰之は再度思った。

そうこうしている中に従者も目を覚ました。

従者は子供をなだめながら泰之に頭を下げた。

我がままな貴族の子供に振り回されている従者、泰之が受けた印象はそれだった。


ともかくも、森を抜けなければなるまい。

泰之はジェスチャーでそれをどうにか伝えようとしたが、全く伝わる気配がない。

子供に至っては何が面白いのか、笑いこけている。

ごうやした泰之は、従者をたすけ起こし、子供を小脇こわきに抱え、とりあえず火の手の上がっていた方と逆の方角へ歩き始めた。

子供がまた何やらわめいているが、泰之は無視して歩き続ける。


後ろから、殺気を感じた。

泰之は振り返る。

子供と従者が怪訝けげんそうな表情を浮かべる。

風を切る音。

泰之は従者を突き飛ばす。

つい今まで従者が居たところを、矢が通過する。

矢は木に突き刺さり、揺れる。

腰を抜かした従者を泰之は扶け起こそうとしたが、従者は中々立ち上がれない。

もたもたしているうちに、相手の準備は整ったらしい。

風を切る音が近づく。

脱臼上等と泰之は従者の腕を力任せに引っ張り体を起こす。

矢はまた辛うじて外れた。

何やらやかましい子供を地面に置くと、泰之は近くの木から伸びた、二の腕ほどの太さの枝に手を伸ばし、そのまま片手で枝をへし折ると、矢が来た方向へと枝を持って駆けていった。


もう既に走る脚に違和感は無い。

子供と従者のもとへ向かう時点で体は慣れていた。

日本でもで走る健脚の泰之である。

相手に迫るのはまさしく風のようにはやかった。

射手しゃしゅが慌てて放った矢を、手にしている枝で受けると、走りながら枝を射手に向かって投げ、腹にぶつけた。

他の男たちが剣を抜き始めたが、おくすることなく猛進もうしんし、赤いベストを着た男の鳩尾みぞおちを木刀で突いた。

うずくまろうとする赤いベストの男を蹴飛ばして、その後ろに居た禿頭はげあたまの男にぶつけ、禿頭の男が赤いベストの男を退かそうとしているところへ、禿頭の男に面を打つ。

赤いベストの男のこめかみを、木刀ので殴打して二人を倒す。


視界の左端が赤く光った。

泰之は左に居たローブを着た男に向き直る。

ローブの男が何やらつぶやくと、杖を中心にして、空中に赤い魔方陣が描かれていく。

なんだあれは、かっこいい。

泰之はそう思って様子を窺っている。

ローブの男が杖に向けていた左手の掌を、泰之の方に向けると、火球かきゅうが泰之に向かって放たれた。

得体の知れない攻撃は避けるに限る。

泰之は右に二歩分跳躍して避ける。

火球は後ろにあった木に当たる。

木が轟音を上げて炎上した。

「なるほど、そういう感じか」

これ以上森を燃やされても面倒だ。

小さく息を吐くと一気に距離を詰め、袈裟斬けさぎりにローブの男の鎖骨さこつを折った。

そのまま右手でローブの男の顔を引っ掴むと、後頭部を地面にしたたかに打ち付ける。

これでひとまず動ける奴は居ないな、と泰之は辺りを見渡し、子供と従者のもとへ引き返した。


泰之が子供と従者のもとに戻ると、二人は剣を抜いた五人の男たちに囲まれていた。

子供をかばう様に立つ従者に、短髪の男が斬りかかる。

泰之は短髪の男の後頭部へ向けて木刀を投げつける。

延髄えんずいの辺りに木刀を受け、短髪の男は昏倒する。

残り四人が一斉に泰之へ振り返る。

木刀を拾うと、右に居た鉢巻はちまきの男のすね横薙よこなぎに払う。

そのまま振り上げて倒れさせ、右足で鳩尾を踏み抜く。

後ろから首飾りを着けた男が泰之に斬りかかる。

即座に振り返り、振り下ろそうとする右手を回転する様に打ち払い、かえがたなで首に一撃をくらわせる。

残りの二人の方へ振り返ると、最早戦意喪失したらしく、二人ともが後ろも見ずに逃げ去ってしまった。


「いやぁ、災難でしたね」

泰之はそう話しかけたが、子供と従者には伝わっていない。

従者は子供を守ろうと抱きかかえている。

泰之は彼らを助けただけだが、警戒するのも当然だな、と思う。

泰之は頭をく。

「別にあんたらをどうこうする気は……あ、そうだ」

泰之は得体の知れない女性から渡された、得体の知れない饅頭の存在を思い出した。

諸々もろもろ忙しくて忘れてたな。

食べてみるか。

泰之は饅頭をポケットから取り出すと、まずにおってみた。

臭いは……特に無いな。

口の中に丸々放り込み、飲み込む。


刺すような頭痛。

今まで感じたことの無い頭の痛さに、泰之は頭を押さえてひざをついた。

何だこれは。

なんて物を食べさせるんだあの女は?

やっぱり知らない人から貰った物は食べてはいけなかったか。

痛みは、しかし、存外早く引いた。

従者はおそおそる話しかけてくる。

「あの……、ご無事でしょうか……?」

「え、あぁ、気にしないでください。もう痛みは引きました」

「そ、そうですか。……って、あれ?言葉……」

「あ、ほんとに通じてるみたい」


困惑する従者をよそに、とりあえずコミュニケーションが取れるようになったことを泰之は喜んだのだった。

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