エースはまだ自分の限界を知らない[第八部パラレル 新・白い軌跡前夜]
草野猫彦
前日譚
第1話 ハンサムな彼女
ユニフォームの少女は自転車を走らせる。
「ハァ! ハァ! ハァ!」
短く切った髪に、帽子を被って、エナメルバッグを背に負って。
「ハァ! ハァ! ハァ!」
アップ代わりに丁度いいと、必死で自転車を走らせる。
「ハァ! ハァ! ハァ!」
自宅からは16km。
「到着!」
野球のクラブチーム、三橋リトルシニア。
そのグラウンドはいつものように綺麗に整備されている。
だが既に試合は始まっているようであった。
「あ~! リードされてる!」
やはりエースが投げなければ、格上相手に勝てるはずもない。
そして見れば味方側も、こちらに注目していた。
自転車をしまってグラウンドに滑り込む。
「コーチ! 遅くなりました!」
「ああ、話は聞いてるが、自転車で来たのか」
けっこう距離があるよな、と鬼塚は真琴の体力の心配をする。
ただまあ、真琴なら大丈夫だろう。
「監督さ~ん、ピッチャー来たから交代するわ~」
「お~う」
近場のシニア同士であれば、練習試合もこんなノリである。
あとは純粋に鬼塚が怖いというのもある。恐怖ではなく畏怖の方だ。
「なんや真琴、事故ったんやって?」
同じシニアでショートをやっている聖子が、肩に手をかけてくる。
女子でショートというのは凄いが、出来るのだから仕方がない。
頭も使うポジションなので、女子の方が有利では、とさえ思う人間もいたりする。
ただ同時に肉体能力も重要だ。なので中学まではともかく、高校に行けばさすがにこのポジションは辛いかな、と二人は話したりしている。
女子選手の花形ならセカンドだろう。
「事故じゃなくて、車のバッテリーが上がっただけ」
「アキはじゃあ後から来るんか?」
「たぶん間に合えばだけど」
アップ自体は終わっているが、肩はまだ作っていない。
聖子のミットをめがけて、急いで投げ込んでいく。
対戦相手の鷺北シニアの方も、かなり見知った仲ではある。
ただ向こうは基本的に、男子しか取らないのだ。
かつては日本発の、甲子園女性選手を輩出したチームだというのに。
必要以上の名門化。
真琴と聖子は、それを打倒しようとするレジスタンスだ。
総体的にチーム力としては、さすがに向こうが上なのだが。
「二点どうして入ったの?」
「カズに打たれてん」
「生意気~」
一応は聖子の幼馴染の和真は、ベンチの中から手をひらひらと振っていた。
一個年下ではあるが、身長は170cmある真琴を越えた。
バッターとしては確かによく打つようになった。
だが二人にとっては、特に聖子にとっては、年下の異性の幼馴染などは、子分に過ぎない。
「泣かしたろうやん」
「合点」
そして真琴はマウンドに登る。
やはり女の子のエースはサウスポーでないといけない。
そんなことが決まっているわけではないが、真琴はサウスポーである。
本来は右利きなのだが、どうせピッチャーをやるならと、父親にピッチング関連は左にされた。
守備では右で投げるので、グラブが二つ必要なのはご愛嬌。
その左腕から、すんげー球を投げてくる。
鷺北シニアの監督は、それを見るたびにげんなりとするのだ。
彼女と、そして聖子の加入をやんわりと断ったのは、失敗であった。
あの二人がいたなら、全国もかなり上位へ進めたのではないか。
「マコちゃんキター!」
「美少女コンビ降臨!」
「いやあいつら、中身はゴリラっすよ」
和真はそう言うし、事実ではあるのだが、真実は人の数だけ存在する。
あっさりと三振を奪われながらも、どこかニマニマ笑っているバッターたち。
お前らちゃんと野球しろ、と監督は怒鳴りそうになった。
「先輩ら、ちゃんと野球してくださいよ!」
和真が先に怒った。こいつはこいつで野球に厳しく、時々暴走することもあるのだが。
試合は締まったものになったが、つまりは双方に点が入らないということ。
真琴と聖子のゴリラコンビが打順が離れてしまっているので、なかなか連打には出来ないのだ。
女子二人に打力を依存しているのは情けないが、二人とも父親は元プロ野球選手。
幼少時からのエリート教育は伊達ではない。
シニアの試合は七回で終了。
このまま逃げ切れるかというところに、グラウンドを見渡す道へと見慣れた車。
そしてその後部座席から、ぽんと出てくる少年が一人。
「アキが来た……」
うんざりとした表情で、和真は言った。
小学生児童は慣れた感じで、ベンチの横まで入って来る。
「二点負けてますね」
見れば分かる事実である。
「そうなんよアッキー、作戦立ててえなあ」
真琴の弟である明史に、聖子はメロメロである。表現が古いが。
可愛い弟が欲しかったという聖子はおそらくショタコンなのだが「うちの妹と結婚して弟になりいや」と言うあたりは、それもちょっと違う気がする。
軍師明史は、ため息をついた。
「やるより考える方が楽だなんて思わないでほしいですね」
「いいからやって」
「分かってるよ」
満面の笑みで脅してくる姉に、ちっとも怖がらない弟である。
そもそも、と明史は思うのだ。
「コーチでも監督でも、普通に逆転の作戦は考えられるでしょうに」
「うちは変に作戦とか考えない方針だからなあ」
「勝つためなら縛りを入れてもいいと思いますけどね」
そう言いながら明史はタブレットを開き、まるで昔のフィクションのハッカーのように、タタタタタとキーを叩いた。
その様子をコーチ鬼塚のみならず、監督鶴橋も見学に来る。
ついでに車を停車してきたらしい運転手も、ひょっこりと顔を出す。
「瑞希先輩、今日はお婆さんじゃなかったんですか」
「車のバッテリーが上がったって聞いたから、少し早退して」
普段は祖母に、送り迎えを任せている母親の瑞希である。
そんな彼女はタブレットで各種情報を出していく息子の様子を、クビを傾げながら見ていた。
誰に似たのだろう。
いや、顔は自分に似ているし、性格は父親に似ている。
だがこの能力は、叔母に似たのではないだろうか。
「現在の鷺北の勝率が50%で三橋の勝率が20%というところでしょうか」
「あとの30%はなんなん?」
「不確定要素です」
「20%もあら~よ~。勝つのもそんなに難しくはないだろ~よ~」
「監督……」
曖昧ながらも鋭く判断する鶴橋に、かつての面影を感じて戦慄する鬼塚である。
「姉さんと聖子ちゃんの打順がつながってないのが痛いですけどね」
そう言いつつも少年軍師は、逆転への選択を出していくのであった。
聖子の長打で逆転サヨナラの三橋シニア。
それに対して鷺北シニアは、負けながらもどこか恍惚としている。
女に負けて悔しくないのか! と監督は叫びたい。
だがこいつらは叫ぶのだ。
「悔しくありません!」
「むしろご褒美です!」
時代は変わってしまったらしい。
苦々しい顔をしている和真には、唯一の希望を感じる。
だがそんな野球少年に対して、三橋シニアの女子二人が煽りに来る。
「カズ~、惜しかったな~」
年下の少年を苛めに来るのはやめてほしい。和真にはもう今の時点から、かなりの高校が注目しているのだから。
いくら今の時点で和真より上でも、女子二人に強豪私立から誘いがかかることはない。
ただし女子野球の強豪からは、常に注目されている二人ではある。
ニマニマ笑いながらいたぶる聖子は、実のところ和真を好きなのではないか、と監督は考えたことがある。
だがおそらく彼女は、生来のドSであるだけなのだ。
「まあウチらが白富東に入って準備整えとくから、あんたも来れるなら来たらええで」
「……マコちゃんはともかく、セイちゃんが入れるわけないだろ」
そう言う和真は、確かに聖子に比べれば成績はいい。
「え、お前あそこ狙ってんの?」
鬼塚もしげしげと聖子を見るが、きっぱり断言する。
「体育科でも無理じゃないか?」
「なんでや! うちはやる時はやる女なんやで!」
う~んと眉間に手をやる鬼塚。
彼も自分の母校に入ろうとする教え子を、止められるはずはない。あそこには例えようもない輝きがあった。
しかし今の白富東は、そこまで強いチームではないのだ。
まあまた北村が異動してくるので、弱いとも言えないのだが。
真琴と聖子は確かに、中学ならば全国レベルと言ってもいい。
だがそれでもパワーでは既に男子にかなわない。
「埼玉に素直に行った方がいいと思うけどなあ。今は女子でも決勝は甲子園で出来るんだし」
「ちゃうねん!」
「甲子園は男のものってのが古いんですよ!」
フェミニズムの戦士のような二人であるが、別にそこまで男勝りかと言うと、やっぱり女の子らしいところもあるのだが。
実際、この二人は男に混ぜても、シニアレベルならば全国で通用してしまう。
だからちゃんと鷺北シニアで、全力の勝負をすればよかったのだ。
そしたら満足して、女子野球の道に進んだかもしれない。
女子野球なら無双できる選手が、男子の中に混じる。
甲子園も全国の決勝まで進めば、今は女子も試合が出来るのだ。
ただそれに観客が集まるかどうかは別の話。
今の白富東でも、二人なら戦力にはなるだろう。
だがこの二人が主戦力となるなら、その程度のチームで千葉県から甲子園に行くのは難しい。
「まあ、行ってみたいんだろうなあ」
それは実際に行ってみた、鬼塚には分かるのだ。
一年の夏から、三年の夏まで。
五回出場し四回優勝という、とてつもない栄光の記録。
その中で鬼塚は四番を打って、そしてプロへの道が開けたというのはある。
だが、指導者目線で見たらまだ足りない。
たとえ和真を引っ張っていくことになっても、まだピッチャーが一枚足りない。
「今はもう、中学で少しでも名前が売れてると、100%私立が取りに来るからなあ」
高校三年間でどうにか育てて、なんとかなるものかどうか。
ただ高笑いの三段活用をしている二人と、それを崇めている男どもを見ると、意外となんとかなってしまうような気もする。
……鷺北シニアの男どもが、女を追いかけて進路を決めるのは、珍しいことではない。
なお他人事のように言っている鬼塚であるが、頼まれて白富東のコーチも務めることになるのは少し先の話であった。
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