第10話 特別になりつつあるから困るんだよ
ようやく夢から覚めた。覚めるまでに三日もかかってしまった。別に三日間ずっと眠り続けていたわけではない。あの日から俺の頭の中は、純真なギャルの幻に埋め尽くされていただけだ。本当にそれだけなんだ。
今時の——という言い方は好きじゃないので使わないが、このご時世にあれほど清い心の持ち主がいるだろうか。少なくとも俺は彼女しか知らない。そう、今日も我が家で献立に知恵を絞ってるギャルである。ついでに2歳児も遊びに来てるけど、やっぱり可愛いな。
「最近あんま買い物行ってないっしょー? 食材少なくて大したもの作れないよ?」
「すまん、確かにサボってたわ。何か必要な物があれば、今から調達に行ってくるぞ?」
「うーん、今日は暑いし、冷やし中華と
「なんの不満もござらん。どうせ美味いんだから」
「いや、出来合いとほとんど変わらないんだけどこれ」
特に変わった様子を見せない彼女に比べ、俺の心の奥底は大きく揺れ動いていた。しかし今朝になって、ようやく大事なことが思い出される。それは面倒事に巻き込まれたくないという、四半世紀の人生経験で
くだらない理屈を自分に言い聞かせていると、
「おったん、あっこ! あっこってー!」
「おー、抱っこか。よーし、してやるぞぉ」
「すっかりオッサンが定着しちゃったね」
「こらこら、三十路前はまだ若いだろうが」
「そだねー。お兄さんですねぇー」
「なんで俺が菜摘にあやされてんだよ」
「だってコントやってるみたいで面白いじゃん。そーゆーの狙ってたんじゃないの?」
エプロン姿で振り返った彼女が、まるで天使みたいに眩しくて直視できない。とても恵まれてるとは言えない境遇を生き抜いてきたのに、どうしてそんなにいい笑顔を見せられるんだよ。健気過ぎてこっちが辛いわ。
せめて料理の邪魔をしないよう子守りをしていると、平然とした声で指示を出された。
「もうご飯できるから、そろそろゆうちゃんを座らせてくれる?」
「おぉー、相変わらず手際が良いなー」
「ゆーて今回簡単なのしか作ってないし」
「わぁー、ピッタリじゃん! ゆうちゃんよかったねー♪」
「おー! こえ、ぱんだ?」
「パンダじゃないよー。イスだよー、イス」
「おー? こえいす、おったん?」
「そうそう! オッサンが買ってくれたんだよー。ありがとーしようねぇ〜♪」
「あーい! おったん、あいあとぉ!」
父親が違っても、やっぱりこの二人は姉弟だな。しっかりと心が通じ合っている。こんな光景、俺の人生には無縁だと思っていたのに、何が起こるか分からないのもまた人生か。
「君達が喜んでくれるなら、用意した甲斐が有るってもんだ。本当に良い買い物ができたよ」
「えへへー、大事に使うね〜♪」
「なんで菜摘の方が嬉しそうなんだ?」
「だーって嬉しいんだもーん。
胸にズキズキ響く。彼女は弟の幸福を自分のことのように喜んでいるのに、俺ときたらひたすら自身の安寧を優先するばかり。こんな大人が近くにいて、彼女に悪影響を及ぼしたりしないかと、心底不安になってくる。
今晩の夕食は簡単に仕上げたそうだけど、しっかり味付けに工夫があってやはり美味い。出来合いをそのまま調理するのがどれほど手抜き行為なのかを、改めて実感させられた。
「ごちそうさまー。ある物でちゃちゃっと作ったとは到底思えないな。棒々鶏がこんなに美味いなんて初めて知ったよ」
「だいぶ好みも分かってきたからねー」
「そうなの? また隠し味を加えたとか?」
「う〜ん、一番重要なのは愛情かなー?」
「はいぃっ!? 愛情!??」
「なーんちゃって♪ ドキッとした?♡」
ドキッとどころか、心臓が止まりそうになったんだが。なんで俺、こんなに鼓動が高鳴ってるんだろう。10歳以上年下のギャルにからかわれて、さすがに情けないぞアラサー。
平静を装って強がりの笑みを浮かべた。
「まぁびっくりはしたよ。一瞬だったけどな」
「そっかー、びっくりだったかぁ〜」
「あんまり大人をからかうのは良くないから、控えた方がいいぞ?」
「それよりさー、なんで玖我さんは彼女とか作らないの? こんなすごい家まであったら、言い寄ってくる人も多いんじゃない?」
いきなり話題がすっ飛んだな。よりにもよって、俺のトラウマをほじくり返す内容に。
「……それが嫌なんだよ、俺は」
「それがって? お金目当てに感じちゃうってこと?」
「二回失敗したよ。経済力が前提にあると、他の部分がどうしたって
「そうだったんだー。じゃあ三度目の正直は、真実の愛を求めてるってわけだね!」
「そんなものが存在するならな」
結局俺みたいに保守的な奴は、女性以外から見ても面白くなんてない。転びそうな場所は歩かないし、疲れてきたら無理せず休む。リスク回避に注力した生き方なんて、本人は満足できても周りからの期待や信頼は失う。だから一人で気楽に歩む道を選んだんだ。
だがギャルちゃんなりの考えもあった。
「愛は探さないと見付からないって言うけど、案外すぐそばにあるじゃんって思うんだよねー。みんなが意識してないだけでさ」
「ほーう? 女子高生の感じる愛とは?」
「だってさー、誰かの為にって思いやって、受けた人も嬉しくなるならさぁ、それってもう愛じゃん? やった人もやられた人も幸せになるって、愛情以外にあるの?」
恋愛や慈愛などの種類はどうあれ、広義的には正しいだろう。深く掘り下げればいくらでも出てくるけど、入り口はそんな感じかもしれない。正解が無数にありそうな議題だが、何より嬉々として語る彼女の表情が気になる。
「なかなかいい視点で、君らしい意見だな」
「でしょー! だからこのイスも、玖我さんからゆうちゃんへの愛だね☆」
「あー、そう言われるとしっくりだわ」
悠太の椅子に関しては確かに熟考した。安全性やメーカーは当然調べたし、レビューなんかも読んで決めている。何が俺をそこまでさせたかって、結局悠太への愛情なんだよな。
「よーし、あたしもスッキリしたー!」
「なにかモヤモヤしてたのか?」
「んー、べつにー?」
「おー? 女子高生の恋バナでも聞けるのかなー? おじさん興味津々だぞ〜?」
「なにそれ? そんなん無いけど」
いきなり真顔になると、結構威圧感あるなこの子。ギャルってよりヤンキーっぽい。
散らかったままのテーブルを片付け、そろそろいい頃合いなので帰宅を促した。さすがに幼児と女子の二人組を、玄関で見送るほど薄情ではない。
「そーそー、もうすぐ夏休みなんだよね〜」
「夏休みかぁ。俺の生活に変化はないな」
「じゃーさぁ、どっか遊びに行こうよ♪」
「えー、お外あつーい。おうち好きー」
「んー、なら映画とか? 涼しいっしょ?」
「まぁ映画館には久しく行ってないな。だけどそれってデートっぽくないか?」
「一応デートに誘ったつもりなんだけど?」
蒸し暑い熱帯夜の住宅街で、俺は気候に逆らうように独り凍り付くのであった。
さらば、愛すべき平穏な日々。
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