第15話 「すみません、少し化粧を直してきます。十五分程外しますね」

 それは良くない。そう思い気持ちを切り替えるように明るい声で言い、レストランがあるだろう方角に一歩踏み出す。

 すぐに志摩子も車椅子に乗った車椅子が自分と同じ方向に向く。紺色Tシャツの少年の隣に並んで声をかけた。


「鴻野君、頷いてくれて有り難うね」

「いえ。……混んでたら嫌ですよ?」

「うん、分かっとーよ」


 病院のざわめきに掻き消されそうな程小さいやり取りだったが、すぐ近くで聞いている志摩子の目尻がどこか安心したように緩んでいるのが印象的だった。




 九州大学病院一階の端。昼の光が差し込む廊下の一角にあるレストランに、歩達は訪れていた。

 ソースの匂いが漂って来る店内は、路面の同店舗よりもずっと空いていた。店内の様子を見た尚也が何も言わないので、入っていいと言う事なのだろう。

 少しして現れた店員に通されたのは角にある四人掛けの席で、尚也の車椅子をリクエスト通り壁際につける。

 尚也の隣に志摩子、前に自分が座った。

 「カレーが待っとるのに帰って来んなんて、まさか事故にでも遭った? 送迎車大丈夫と?」と小百合に心配されそうだったので、二人に断りを入れてから小百合に連絡を入れる。すぐに既読は付き、「はい」と二文字だけ返ってきた。


「ふぅ……尚也、好きなの選んで良いわよ。あ、佐古川さんメニューどうぞ」


 斜め前からメニューを渡され、「有り難うございます」と礼を言って受け取った時――見るからに体が強張っている正面の少年の姿を認めた。一般客も多いからか緊張しきっているようだ。

 確かにここの雰囲気は病院内とは全然違う。

 食欲を掻き立てられる様々な匂い。時折響く金属音。どこか浮き足立った人々のくつろいだ笑顔と笑い声。

 待合室では絶対に感じられぬ空気だ。


 今の尚也は、奥津が車椅子部屋に入って来た時に見せた時の態度に似ている。いや、それ以上かもしれない。

 慣れぬ場所で気が昂っている猫のような少年に話し掛けるのもどうかと思ったので、メニュー選びに専念する事にした。

 数分後。三人のメニューが決まり、「すみません」と志摩子がウェイターを呼び止める。


「ランチメニューのこの……トマトクリームのパスタと、チキングリルとコロッケのセット、ベジタブルカレーをお願い致します」


 店員が注文を受けたメニューを復唱した後、「少々お待ちください」とキッチンに姿を消す。

 パスタが志摩子、チキングリルセットが尚也、カレーが歩だ。今日のおおぞらと同じメニューを選んだのはただの自己満足と趣味だ。

 店員が居なくなった後テーブルは数秒静かだったが、志摩子が取り留めのない世間話を切り出してからは、気まずくなる程の静けさは訪れなかった。相変わらず緊張した面持ちではあったが、ちょいちょいと尚也も会話に参加してくれて、その度に隣の母親が驚いていた。


 ここでもまた、おおぞらや博多のスポットについての話をする機会が多かった。やはり主婦と食べ盛り。味処奥津の話が一番盛り上がったので、心の中でおおぞらの厨房に居るだろう博多マダムに礼を言う。

 店に入った時よりも尚也の肩から力が抜けた頃、「お待たせ致しました」と店員が次々と注文した料理を三つ持ってきてはテーブルに乗せてくれた。

 自分が注文したベジタブルカレーは名前の通りふんだんに野菜が盛られていた。味処奥津以外でこんなに野菜を食べないので少々気圧される。しかし独り暮らしには有り難くもあるので「おおぞらも今日カレーなんですばい」と言いながらきちんと頂いた。


 全員が食べ終わり気付けば時計が十三時を二十分回った時。

 志摩子が突然こう切り出した。


「すみません、少し化粧を直してきます。十五分程外しますね」


 と。




 言うなり志摩子は立ち上がり、ベージュ色のトートバッグを持って洗面所に向かっていってしまった。

 こちらが何か言う暇も無く、歌番組のアイドルように鮮やかに視界から消えていく。少し呆気に取られながら志摩子が消えた方向を見ていると、ポツリと尚也が呟いた。


「ごめんなさい、お母さん化粧直すの好きだから……本当に十五分かかると思います」

「あー……はは、女性やからねえ。別に良か良か、鴻野君はトイレ大丈夫?」


 ここからリハビリ室に向かう時間やトイレなどの準備を考えると、先生を待たせる訳にも行かないので、確かにそろそろ準備に入っても良い時間だ。こまめに鏡と向き合う、だから志摩子は綺麗なんだな、と納得する。

 「大丈夫です」と頷いた尚也の表情は幾らかリラックスしているようにも見えた。

 せっかく尚也と二人きりだと言うのに黙って過ごすのは勿体無い。歩は尚也と話せそうな話題について考えた。

 誰だって自分が関心のある話には興味が引かれるものだろう。尚也だってきっとそうだ。

 尚也は典型的なスポーツマンで陽キャだとさっき聞いた。きっと今も、そんな体であろうとスポーツをしたいはずだ。


「あ」


 スポーツ、と思ったら思わず声が出た。斜め前に居る尚也が不思議そうにこちらを見てくるのが分かる。

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