ただいま、そして、さようなら

紫陽花

第1話

 村はずれの鬱蒼とした森のそばにある粗末な家。俺はそのすぐ脇で、道に迷って行き倒れていた。


 なんだか意識が朦朧とする。俺はどこへ行こうとしていたのだったか。


 はっきりしない頭を抱えてぼんやりしていると、粗末な家から女の子が出てきた。肩の辺りで切り揃えた茶色の髪に、なかなか目力のある茶色の瞳。年は十二歳くらいだろうか。


「……おじさん、道に迷ったの?」

「ああ、そうみたいだ」

「なんだか弱ってるみたい。うちで少し休んでいく?」

「……すまんが、そうさせてもらおうかな」


 女の子と話すうちに少し楽になり、親切に甘えてしばらく休憩させてもらうことにした。


 家の中に入ると、いかにも貧しい暮らしぶりという印象で、窓からは隙間風が入り、屋根には雨漏りの跡がいくつもあった。


 そもそも、少し離れたところに村があるのに、なぜこんな場所に住んでいるのだろう。

 俺は不躾にも、ついつい気になって聞いてしまった。


「なぜこんなところに住んでるんだ? こんなに離れた場所で不便じゃないか?」

「村の人に嫌われちゃって」

「なんだ、まさか盗みでも働いたか?」

「そんなことしないよ。おじさんみたいに道に迷ってた人を村に入れたのがよくなかったみたい」

「まあ、世の中には悪い奴もいるからな。親切なのはいいことだが、気を付けろよ」


 俺という奴は、不躾なうえに自分のことをすっかり棚に上げて、偉そうなことを言ってしまった。

 子供相手とはいえ、助けてもらったのに失礼だったなと反省して黙り込んでいると、女の子が床に置いてあった蔓を取ってきて、器用に編み始めた。籠を作っているようだ。


「へえ、上手いもんだ。そういえば、俺の女房もそんなことをしてたな」

「籠を作って町で売るんだよ。ちょうど今、お母さんがいくつか売りに行ってる」

「一人で留守番か?」

「そう。隣の部屋でおばあちゃんが寝てるけど」

「親父さんは仕事か?」

「お父さんは子供の頃、どこかに行っちゃった」

「そうか……。女ばかりの家だな」

「うん。おじいちゃんも、私が生まれるずっと前に死んじゃったし」


 どうやら、女三人で肩を寄せ合って暮らしているようだ。

 父親は浮気か何だか知らんが、女子供を置いて一人逃げるなんて情けない奴だ。


 女の子も気丈そうに見えるが、さっきからずっと無表情だし、声も小さい。村人から邪険にされ、守ってくれる父親もおらずに辛い思いをしているのだろう。

 なんとなく自分の娘と重ねてしまい、元気付けてやりたい気持ちになった。


「名前は何て言うんだ?」

「エマ」

「エマか。いい名前だ。……俺にもエマと同じくらいの娘がいてな。泣き虫で甘えん坊の子だから、とても一人で留守番なんかできないだろうな。こんなにしっかりして、行き倒れの人間を助けるような優しい娘がいて、エマのお母さんは幸せ者だ」

「……そうかな。私のこと、嫌いじゃないかな」


 可哀想に、エマは母親が自分を嫌っていると思っているようだ。父親のことと何か関係があるのだろうか。


「嫌いなものか。……その胸の刺繍は、自分でやったのか?」

「ううん。お母さんが」

「やっぱりな。もし嫌っていたら、エマの服に苦手な刺繍なんてしないさ」


 エマが着ていた服の胸元に、林檎りんごのような、桜桃さくらんぼのような、赤くて丸い刺繍がさしてあった。一目で刺繍が苦手なのだと分かる出来栄えだったが、逆にそれが愛情の表れのように思えた。


「……うん。お母さんって、針仕事が下手なの」


 エマの表情が少しだけ和らいだ気がした。


「ねえ、おじさんは、どこに行こうとしてたの?」

「俺は……」


 エマの質問に答えようとしたが、なぜか言葉が出てこない。


 いや、言葉が出てこないんじゃない。どこに行こうとしていたのかが分からないのだ。


 それに、自分がどこから来たのかも思い出せない。どうしたことだ。旅の途中で頭でも打って記憶がおかしくなったか。


 一生懸命に思い出そうとすればするほど、色々な記憶があやふやになって訳が分からなくなってくる。


「……すまん、よく分からない」

「……何かを探してた? 誰かに会いに行こうとしてた?」


 俺は何かを探していたのだろうか?

 誰かに会いたかったのだろうか?


「おじさんの名前は?」

「俺の名前は……エイデン、と呼ばれていた気がする」

「……エイデン」


 エマが俺の名前をぽつりと呟いた時、隣の部屋から物音が聞こえた。ギィと扉が開き、中から老女が現れた。長い白髪を三つ編みにして、肩に流している。


「エマ、さっきから話し声がしてたけど、お客様?」

「おばあちゃん」


 エマの祖母は体をくるんでいたショールを両手でぎゅっと握り、きょろきょろと目線を彷徨わせた。老齢で目が悪いのかもしれない。俺は目の前に出ていって挨拶した。


「お邪魔しています。気分が悪くなっていたところを、こちらのお嬢さんに助けてもらいまして」

「おばあちゃん、また迷っている人がいたの」

「……そうなのね。今度はどういう方なのかしら?」


 エマを見つめて祖母が尋ねる。やはり家に上がり込むのは迷惑だったかもしれない。俺は慌てて謝罪した。


「すみません、もうだいぶ気分もよくなったので、そろそろ行きます」


 そう言って出て行こうとした時、エマが言った。


「……エイデンっていうおじさんだよ。赤毛に茶色の目で、鼻は鷲鼻。おでこに引っ掻き傷があって、薬指に木の指輪をしてる」


 急にどうしたというのだろう?

 祖母の目が悪いからといっても、妙な説明だ。あちらもさぞや困惑しているだろうと思って祖母の方を見やると、彼女はなぜか目を見開いて、驚いたような表情をしていた。


「エイデン……? 私の可愛い熊さん?」


 ──私の可愛い熊さん。


 その言葉を聞いた時、えもいわれぬ感情が洪水のように胸に流れ込んできた。俺をそうやって呼ぶのは、ただ一人。


「……ミーナ」


 ああ、そうだ。思い出した。

 ……俺は、もう死んでいるのだ。


 あの日、娘のアンナの十一歳の誕生日だから美味いものを食べさせてやろうと、一人で町まで買い物に出かけた帰りの山道で、俺は土砂崩れに遭った。一瞬で土砂に埋もれて、息もできず苦しみながら気を失って……。


 そして、魂まで土砂に埋まったまま何十年も眠り続け、ある日突然、大雨か何かで土砂が流されたおかげで外に出られたのだ。

 俺は最後の心残りに突き動かされて、彷徨って彷徨って、この家にたどり着いた。


 そう、ここが目的地だったのだ。


「俺は、ミーナとアンナに会いに来たんだ」


 俺が呟くと、ちょうど玄関の扉が開き、「あ、お母さん」とエマが言った。


 母親譲りの黒髪に、俺譲りの茶色の瞳。俺の大事なアンナだ。

 結婚は上手くいかなかったようだが、こんなに立派な娘のいる母親になっているなんて誇らしい。……針仕事が苦手なのは小さい頃から相変わらずのようだが。


 俺は穏やかな眼差しでアンナとミーナを見つめる。


「エイデン、愛しているわ」


 虚空を仰ぎ見て、ミーナが囁く。

 俺の可愛いミーナ。何十歳も年を取って、美しかった黒髪が白髪になるまで老いても、俺のことを想ってくれるミーナが堪らなく愛おしい。


「ミーナ、俺も愛してるよ」


 ああ、今日は何ていい日だろう。最愛の女房と娘、そして孫にまで会えた。

 もう心残りはないし、空気に溶けてしまいそうなくらい、清々しい気分だ。

 きっと、あと少しで消えてしまうだろう。


 俺は、決して触れることのできないミーナ、アンナ、エマの頬に口づける仕草をした。


「エマ。ミーナとアンナに、愛していると伝えてくれ。もちろんエマも愛してるよ」

「……うん。私もおじいちゃんのこと好きだよ。お喋りできて楽しかった」

「俺も楽しかったよ、可愛いエマ。でも、幽霊助けは、ほどほどにな」

「分かった」


 さあ、いよいよ意識が遠のいてきた。

 俺の大事な家族たち。今日は久しぶりに帰ってこられて楽しかったよ。


「ただいま、そして、さようなら」



 ──その日、村はずれの鬱蒼とした森のそばにある粗末な家の中から、幸せな色をした一つの魂が、始まりの場所へと還っていった。

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